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短編集

病室で君に「好き」を返した日から。 ~青白い指先が絡まる、退院までの約束~

作者:
掲載日:2026/01/26

 目を開けたら、天井が白すぎた。

 蛍光灯の光がまぶしくて、反射で目を細める。まぶたの裏がじんわり熱くなる。

 喉がカラカラだった。唾を飲みたいのに、うまくできない。

 息を吸うたびに、酸素マスクのプラスチックの匂いが鼻の奥まで入ってきて、ちょっと冷たい。

 呼吸の音だけがやけに近い。


 体が重い。布団が重いっていうより、体そのものが重い。

 指先まで思うように力が入らなくて、手を握ろうとしても、ぎゅってならない。


 右足のあたりが、妙に存在感を主張しているのに、動かせなかった。

 そこだけ別の体みたいに遠い。感覚はぼんやりしてるのに、何かがずっと乗ってるみたいな圧だけは残ってる。

 動かそうとした瞬間、見えない壁に止められた感じがして、息が少しだけ引っかかった。


「……んっ」


 小さく声を出してみたけど、喉の奥でつぶれて、ほとんど音にならなかった。

 その代わり、ベッドの横で何かがカサッと動く気配がする。


「綾……?」


 その声だけで、胸の奥がぎゅっと締まった。

 息を吸うのも怖くなるみたいに、体がこわばる。


 視線をゆっくり横にずらす。

 そこにいたのは、いつもよりずっと疲れた顔の彼女だった。


 白いカーディガンの袖口が少しよれてる。

 前髪も目にかかるくらい伸びてて、整える余裕なんてなかったって一目でわかる。

 こんなふうに乱れてる美月を見るの、たぶん初めてだ。


「……美月」


 名前を呼んだだけで、喉がひりっと痛くなって、涙が出そうになる。

 うまく声にならないのが悔しくて、もう一回呼びたくなるのに、息が追いつかない。


 美月は慌てたみたいに私の手を握ってくる。

 指先が冷たい。

 ずっとここにいたんだろうなって、すぐにわかった。


「動かないで。まだ安静にしないと……先生が、右足の骨折と、頭を打ってるからって」


 言葉の最後が震えてる。

 いつもはちゃんと強いのに、今はそれが隠せてない。


 美月は泣きそうな顔を隠すみたいに、私の手の甲に頬を押し付けた。

 やわらかい体温がじんわり伝わってくる。

 髪が腕に触れて、シャンプーの匂いがふわっと広がる。

 いつもの匂いなのに、今はなぜか遠く感じた。手の中でするっと逃げそうで、怖い。


「ごめん……迎えに行けなくて。バイト終わって、駅で待ってたのに、急に連絡がきて……」


 声が途切れ途切れになるたび、私の胸がきゅっと痛む。

 大丈夫って言いたいのに、喉がうまく動かない。

 指を少しだけ握り返してみる。それでも、美月の手の冷たさが消えない。


 事故のことは、ほとんど覚えてない。

 信号待ちの横断歩道。

 急にクラクションが鳴って、反射で振り返った瞬間。

 思い出せるのは、そこまでだった。


 あとはもう、救急車のサイレンと、誰かの叫び声と、痛みと、暗闇。

 全部がぐちゃぐちゃに混ざって、意識の底に沈んでいった。


「美月が……来てくれたんだ」


 それだけ言うので精一杯だった。声がかすれて、喉がヒリつく。

 美月は小さく頷いて、ぎゅっと私の指を握り返す。爪が少し食い込むくらい強くて、逆に安心してしまう。


「当たり前でしょ。綾がこんなことになってるって聞いたら、いてもたってもいられなくて……」


 そこで一回、息が詰まったみたいに止まる。


「病室の前で、ずっと足がすくんでた。怖くて、怖くて……でも、来なきゃって」


 美月の目から、ぽろっと涙が落ちて、私の点滴のテープに当たった。

 雫は冷たくて、手の甲にじわっと染みていく。


「バカ……泣かないで」


 私がそう呟くと、美月はますます泣きそうな顔になって、首を振った。


「だって……綾の顔、こんなに青白くて、唇もカサカサで……いつもみたいに笑ってくれないから……」


 いつもみたいに、か。

 そうだっけ。私、笑ってたっけ最近。

 でも、美月と一緒にいるときは。

 確かに笑ってた気がする。


 コンビニの前で、アイスを半分こしてるときも。

 夜の公園で、ブランコに並んで座ってるときも。

 私の部屋で、布団にくるまって映画を見て、途中で寝落ちしちゃうときも。

 全部、ちゃんと覚えてる。

 笑ってた。たぶん、美月がいるから。


「……ごめん」


 今度は私が謝る番だった。

 美月は慌てて首を振って、強く否定するみたいに髪が揺れる。


「謝らないで。謝るのは私の方だよ。もっと早く、ちゃんと……『好き』って、ちゃんと言っておけばよかったのに」


 その言葉が、頭の中にずしんと落ちた。

 重くて、でもあったかくて、胸の奥が痛いのに、離したくない感じがした。


 病室の空気が、急に重くなる。

 心臓の音が、耳の奥まで聞こえてくるみたいだった。


 美月は私の手を離さずに、そっと顔を近づけてきた。

 涙で濡れたまつ毛が、すごく近くて。


「生きててくれて、ありがとう」


 囁くような声。

 その一言で、私の胸の奥にあった何かが、ぱちんと音を立てて溶けた。

 右足は動かないし、頭はまだぼんやりする。

 でも、左手を伸ばして、彼女の頬に触れることだけはできた。

 冷たい指先で、涙を拭ってあげる。


「……私も、好きだよ」


 声が震えた。

 でも、ちゃんと届いたみたいだった。

 美月は一瞬目を大きく見開いて、それから、くしゃっと顔をくしゃくしゃにして泣き出した。

 子供みたいに、声を上げて。

 私は、痛む体を無視して、

 なんとか彼女の肩を引き寄せた。


 点滴のチューブが引っ張られて、チクッと痛みが走ったけど、そんなのどうでもよかった。

 美月の髪が、私の首筋に落ちてくる。

 温かくて、柔らかくて、生きてる匂いがした。


「……もう、離さないから」


 彼女の小さな呟きが、耳元で響く。

 私は、ただ、ぎゅっと目を閉じた。


 どれくらい、そうしてたんだろう。

 美月の肩に顔を埋めたまま、時間の感覚がぼやけていく。

 点滴が落ちる、規則正しい音。


「……痛い?」


 ようやく美月が顔を上げて、慌てたみたいに私の体を離そうとする。

 でも私は、左腕に力を入れて、彼女をもう一度引き寄せた。


「痛いけど……この方が、もっと痛い」


 本音だった。

 離れたら、またあの冷たい天井と、ひとりぼっちの時間が戻ってくる気がして、それが嫌だった。


 美月は私の言葉に、くすっと小さく笑って、「わがまま」って呟いた。


 でも、嫌がる様子はなくて。

 むしろ美月はベッドの端に腰を下ろして、私の隣に体を寄せてきた。


 カーディガンの袖が、私の腕に触れる。

 布越しに体温がじわっと伝わってきて、さっきまでの寒さが少しだけ引いていく。


「先生に怒られるかな……こんなにくっついてたら」


「怒られたら、私が謝るよ。『彼女がどうしても離れてくれなくて』って」


「……綾こそ、ずるい」


 美月が頰を膨らませて、私の肩に軽く頭をコツンとぶつけてくる。

 子供っぽい仕草なのに、胸がきゅんとした。痛みとは別のやつで。


 それから、しばらく無言になる。

 言葉がないのに、変な沈黙じゃない。

 互いの呼吸が重なるのを、確かめてるみたいな時間だった。


「……ねえ、綾」


 美月がぽつりと口を開いた。

 声が少し低くて、さっきまでの照れた感じが消えてる。真剣だ。


「事故のあと、最初に頭に浮かんだの、何だった?」


 私は目を閉じて、記憶の断片を探る。

 暗闇の中で、確かに浮かんだものがあった。


「……美月と、約束してた映画。まだ見てないやつ」


 彼女が小さく息を飲む音がした。


「それ……私も、ずっと考えてた。綾が、目を覚まさないかもしれないって思ったとき、一番後悔したの、それだった。『まだ一緒に観てない』って」


 美月の指が、私の指と絡まって、ぎゅっと握りしめられる。

 逃げないように、確かめるみたいに。


「だから……退院したら、絶対観ようね。約束」


「うん。観よう」


「それから……」


 美月が言葉を切って、顔を上げた。

 この次、告白に入る直前だから、ここの「それから……」で空気が変わるの、めちゃ効いてる。


 目が真っ赤で、でもどこか、逃げないって決めたみたいな光が宿ってる。


「私、ちゃんと綾の彼女になる。もう、曖昧なままでいたくない」


 心臓が、どくんと大きく鳴った。

 音がしたんじゃないかって思うくらい。


 今まで、二人とも「好き」って気持ちは、たぶんわかってた。

 でも、言葉にしなかった。

 友達以上、恋人未満みたいな、ふわふわした場所に立ったまま。

 壊れるのが怖くて、一歩を踏み出せなかった。


「……私も」


 喉が詰まって、声が震える。


「私も、もう曖昧にしたくない。美月の彼女になりたい」


 美月が、涙をこらえるみたいに唇を噛んだ。

 一瞬、何か言おうとして、やめて。

 それから、ゆっくりと顔を近づけてくる。


「……いい?」


 聞かれて、私は小さく頷いた。


 次の瞬間、柔らかい感触が唇に触れた。

 短くて、優しくて、でも熱がこもってるキス。

 触れてる時間は一瞬なのに、胸の奥がいっぱいになる。

 

 美月の涙が、私の頰に落ちてきた。

 離れたあと、彼女は照れくさそうに目を逸らして、


「……初めて、だったよね」


「うん……私も」


 二人で顔を見合わせて、くすくすと笑い出した。

 ぎこちなくて、でもそれが嬉しくて。


 痛む体も、青白い顔も、今は全部どうでもいいみたいだった。

 この人がここにいる。それだけで、ちゃんと息ができる。

 でも、現実はすぐにやってくる。


 病室のドアがノックされて、看護師さんが入ってきた。


「紫微さん、痛み止めのお時間ですよー。あ、お友達もいらっしゃるんですね」


 その一言で、美月がびくっとして、慌てて体を離す。勢いよく立ち上がって、顔が真っ赤。


「す、すみません! すぐどきます!」


 病室のドアがノックされて、看護師さんが入ってきた。


「紫微さん、痛み止めのお時間ですよー。あ、お友達もいらっしゃるんですね」


 美月がびくっとして、慌てて体を離して立ち上がる。顔が真っ赤だ。


「す、すみません! すぐどきます!」


 看護師さんはにこにこしたまま、ベッドの横に来て点滴のあたりを手際よく確認する。

 チューブを指で軽くたどって、テープの端を押さえ直した。さっきのチクッが、少しだけ落ち着く。


「ちょっと引っ張られてましたね。大丈夫ですよ」


それから、困ったみたいに笑って、何かを理解した感じで私達を見た。


「そういうのは元気がある証拠だとは思いますが、気を付けてくださいね」ってやわらかく言ってくれた。


 美月はますます赤くなって、私の手をぎゅっと握ったまま、看護師さんの処置を見守ってる。

 薬が入っていく感覚が腕の奥にひんやり広がって、さっきまでの痛みが少しだけ遠のいた。


 点滴が終わって、看護師さんが部屋を出ていく。

 ドアが静かに閉まったのを確認したみたいに、美月はもう一度、ベッドの端に座り直した。


「……これから、毎日来るね」


「毎日? バイトとか、大丈夫なの?」


「シフト減らした。貯金もちょっと使っちゃうけど……いいよね?」


 言い方は強気なのに、目だけは不安そうで。

 私は彼女の髪をそっと撫でた。指先にふわっと触れる感触が、ちゃんと現実だった。


「うん。来てほしい。毎日」


 美月が、やっと安心したみたいに目を細める。

 それから彼女は、私の枕元に置いてあったスマホを手に取った。


「写真、撮ろ? 証拠に」


「え、こんなボロボロの顔で?」


「いいの。今日が、私たちの『はじまり』だから」


 美月が自分の頰を私の頰にくっつけて、セルフィーを撮る。

 画面の中の私は、確かに青白い。目の下もひどい。

 それでも笑ってた。美月の隣で。


「……これ、待ち受けにしていい?」


「恥ずかしいけど……いいよ」


 美月は満足そうに頷いて、すぐに画面をいじり出す。


「じゃあ、私も変える。ずっと、この写真見ながら、綾の退院待ってる」


 そう言って、彼女は私の額に、そっとキスを落とした。

 熱じゃなくて、ちゃんと彼女の体温が残る。


 病室の窓から、日が差し込んできた。

 白い光がカーテンを透かして、部屋の空気を少しだけ明るくする。


 まだ痛みは消えない。

 まだ、長いリハビリが待ってる。

 でも、もうひとりじゃない。

 美月の手が、私の手を離さない。


 これが、私たちの新しい始まりだった。

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