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2-3理想を現実に

 柔らかな午後の陽光が、執務室の机を白く照らしていました。

 リゼッタは、バルガスが用意した膨大な資料の合間に、自ら筆を走らせていた一枚の図面をアンナに向けました。


「アンナ、少しお話を聞いていただけますか? 私、新しく慈善施設を造ろうと考えているのです」


 アンナは、淹れたての紅茶を置く手を止め、ぱっと顔を輝かせました。


「慈善施設……ですか?」


「ええ。身寄りのない子供たちや、……悲しい思いをしている人たちを保護する場所です。あなたが以前、街で仰ったでしょう? 『優しさは伝わっていくものだ』と」


 リゼッタは、かつてないほど穏やかで、慈愛に満ちた微笑みを浮かべました。


「今の私には、それを行うための立場と力があります。だから、あなたが教えてくれた温かさを、今度は私が誰かに分けて差し上げたいのです。私が、彼らのための『盾』になります」


(アンナが言う『優しさの伝播』……。私には、それがひどくもろくて、頼りないものに思えました。あの子にクッキーを一枚与えたところで、明日の鞭は止まりません。


――救いたい、わけではない、のかも。


 リゼッタは自らの過去を回想します。

 泥濘どろぬるみの中で震えていた「燃え滓」だった頃の自分。

 彼女が本当に欲していたのは、誰かからの憐れみではなく、理不尽を跳ね返し、自分の望む「結果」を奪い取るための力だったのかもしれません。


(必要なのは、自分の足で立ち、自らの意志で世界をねじ伏せるための手段。……誰かの所有物としてではなく、自分の人生の主権を握るための『牙』が必要なのです)


 リゼッタの提案を聞いた瞬間、アンナの脳裏には、数日前の夜に見たリゼッタの冷徹な横顔が不意に過ぎりました。

 それは、権力者が度々みせる、より大きな権力を手にすることに昂ぶり、獲物を値踏みするような、あのゾッとするほど鋭い瞳、それと同質の雰囲気。


 今、目の前で微笑むリゼッタの瞳の奥にも、やはりあの日と同じ、どこか突き放すような冷たい光が微かに揺れているのが見えます。


(……いいえ、そんなはずはないわ。私の気のせいよ)


 アンナは、自分の中に生じかけた不吉な予感を必死に振り払いました。

 リゼッタ様は、私があの日語った、戯言のような夢物語をこんなにも真剣に受け止めてくださったのだ。

 自分のようなメイドの言葉を忘れず、弱い立場の人たちのために、その地位も財産も投げ打って尽力しようとしてくれている。


「リゼッタ様……! 素敵です、本当に……なんてお優しい方なのでしょう」


 アンナは感極まった様子でリゼッタの手を握り締めました。

 その手のひらから伝わってくるのは、尋常ではない熱。情熱というよりは、何かに執着する者のような激しい脈動でしたが、アンナはそれさえも「救済への熱意」なのだと思い込むことに決めました。

 

 この方は、誰よりも苦しみを知っているからこそ、誰よりも優しくなろうとしているのだ。

 アンナは自分にそう言い聞かせ、目の前の「慈悲深い聖女」を、一点の疑いもなく信じることにしたのです。


 アンナの目に浮かぶ盲目的な信頼を見つめながら、リゼッタは静かな独占欲と傲慢さを募らせていました。


(……アンナ。あなたの優しさは尊いけれど、それだけでは何も救えない。クッキー一枚では明日の空腹は満たせないし、名前だけでは次に振り下ろされる鞭を止めることはできないのです)


 そこにはもはや、かつて虐げられていた少女の面影など、欠片もありませんでした。


(あなたの理想に『結果』という実りを与えられるのは、この私だけ。そのためなら、たとえ善良な者を一人地獄へ突き落とし、その資産を奪うことになっても、それはより大きな正解を生むための効率的な処置に過ぎないのですから)



 陽が沈み、屋敷が静寂に包まれる頃、リゼッタは一人、地下の私室でバルガスと向き合っていました。


「お嬢様、昼間の『ごっこ遊び』は大層お見事でしたよ。メイドの娘も、すっかり安心しているようだ」


「……茶化さないでください、バルガスさん。私は本気です。施設を造るのも、彼らを救うのも。そのためなら、例え相手が善人であろうとも、私は一切の容赦をしません」


 リゼッタの瞳には、昼間の慈愛は消え、冷徹な「審判者」の光が宿っていました。


「ええ、分かっておりますとも。カッセル子爵のような清廉な男をハメて利権を奪うことも、すべてはお嬢様の『聖域』を維持するための必要な栄養剤ですからね」


 バルガスが指し示した資料に記されたカッセル子爵は、この聖都において「貴族の良心」とまで称される人物でした。


 彼は領民に重税を課すことなく、私財を投じて公共の井戸や橋を整備し、物流の中継地点としての権利を公正に管理することで、多くの商人や平民から深い信頼を寄せられていたのです。

 かつてリゼッタが闇に沈めたグラハム卿のような、権力を笠に着て弱者を蹂躙する悪徳貴族とは、対極に位置する存在でした。


 また、地図上に示したカッセル領は、三つの主要街道が交わる「物流の心臓部」でした。


  リゼッタは、そこに記された子爵の肖像画を冷たく見つめました。


「彼が善良であることは、私の判断には関係ありません。彼が握っている資源を、私ならもっと『有効』に、虐げられた者たちの自立のために使える」


 リゼッタにとって、子爵の行いは生温い停滞に過ぎませんでした。

 彼が現状維持のために浪費している膨大な利権と資金を奪い、それを教育や武術という「力」に変えれば、救われる者の数は桁違いに増える。


  そして何より、カッセル子爵はその高潔さゆえに、リゼッタが求める抜本的な改革――物流の独占と施設の建設を、「秩序を乱す」として拒む最大の障害だったのです。


「交渉も買収も通じないほど誠実な男。それは、未来への道を塞ぐ岩盤と同じです。……より多くの弱者を救うために、効率の悪い場所にある力を、私がより正しく使う。これは略奪ではなく、世界の適正化、必要な『掃除』なのです」


 バルガスは、リゼッタのこの独善的な正義感に満足げに目を細めました。


 リゼッタは「救済」のために子爵を犠牲にしようとしていますが、バルガスの真意は別にありました。


(貴女はそれでいい。多少強引であったとしても、力なき者にしてみてれば、自分達を救う神に他ならない。力強く民衆を導く女神。よいシンボルではありませんか)


 リゼッタを崇拝する軍隊。それを操る自分。

  バルガスはリゼッタという象徴を通じ、かつて国さえも恐れて廃棄した「力」を、完全にコントロールされた武力として再構成しようとしていたのです。


(貴女は弱い者を本気で救うつもりでいるのでしょうが、うまく使わせていただきましょうかね)


「お嬢様。素晴らしいお考えです」


 バルガスの嘲笑を含んだ称賛を聞きながら、それに対し、リゼッタはゾッとするほど美しく微笑みました。


 それはアンナに見せた慈悲の微笑みとは似て非なる、氷のように冷たい拒絶の色を帯びた笑みでした。


 バルガスの胡散臭い言葉の裏に、別の欲望が渦巻いていることなど、泥濘を這いずり回ってきたリゼッタが気づかないはずもありません。


(……まぁ、この人もいずれ)


 リゼッタは決して、彼を信用などしていませんでした。

 互いが互いを喰らい合うための機会を狙っていました。


  鏡に映るその顔は、慈しみ深い聖女のまま、その瞳だけが暗い愉悦でバルガスの虚飾を射抜いていました。


 リゼッタは「救済」のために、バルガスは「支配」のために、二人はそれぞれの野心を「慈善」という名の美しい仮面の下に隠し、闇の深淵へと足を踏み入れていくのでした。

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