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2-2虚飾と傲慢、および堕落

 グラハム卿の没落は、単なる始まりに過ぎませんでした。

 それからの数週間、リゼッタの日常は目まぐるしい速度で、白と黒の境界を往復することとなりました。


 ある日は、豪奢な毛皮を纏った大商人と向き合いました。

 バルガスが事前に調べ上げた「帳簿の改ざん」という弱みを、リゼッタはティーカップを置く指先一つで突きつけます。冷や汗を流し、慈悲を乞う太った男の姿を見下ろしながら、リゼッタは自分の背中に棲む「異形」が、その絶望を吸って微かに喉を鳴らすのを感じていました。


 またある日は、神聖な法衣に身を包んだ聖職者を私邸に招きました。


 「不適切な女性関係」という、聖職者にとって致命的な毒を、リゼッタは無垢な少女の微笑みの裏に隠して差し出します。バルガスが用意した筋書き通りに、彼女は名門グランツ家の当主として、彼らの権益を一つ、また一つと手中に収めていきました。


 それは、暴力よりも鮮やかで、毒薬よりも確実に相手を殺す「支配」の悦びでした。


「お嬢様、素晴らしい手際でしたよ。これでもう一区画、西の商権が手に入ります」


 バルガスの冷徹な称賛を聞き流し、リゼッタが重いドレスを脱ぎ捨てて自室へ戻れば、そこには別の時間が待っています。


「おかえりなさいませ、リゼッタ様! 今日は美味しいお茶菓子を多めに用意しておきましたよ」


 アンナの弾けるような笑顔と、淹れたての紅茶の香り。

 冷え切った交渉のあとに触れるアンナの温もりは、リゼッタにとって唯一、自分が「兵器」ではなく「一人の少女」であることを思い出させてくれる拠り所でした。

 

 アンナは、リゼッタが外でどんな悪徳に手を染めているのか、その半分も知りません。ただ、主人の顔色が悪い日には一生懸命に楽しい話をして、疲れている時にはそっと寄り添い、共に過ごす時間を何よりも大切にしてくれました。

 

 自分よりも不幸な人がいるから、泣き言を言ってはいけない。

 そう語りながら笑うアンナの強さに触れるたび、リゼッタの胸には温かな親近感と、それに相反するような苦い痛みが混ざり合います。


「アンナ、私は……」


 ふと言いかけた言葉を、リゼッタは飲み込みます。

 人々の弱みを握り、財産を奪い、闇を飼い慣らす生活。その一方で、アンナと共に笑い、お菓子を分け合い、明日が来るのを少しだけ心待ちにする生活。


 二つの自分を使い分け、権力者たちの首筋に冷たい刃を突き立てながら、リゼッタはアンナの差し出す穏やかな光の中に、深く、深く沈み込んでいくのでした。


 あくる夜、リゼッタは聖都でも指折りの権力者、大司教と有力貴族たちが集う晩餐会に招かれていました。


 バルガスが用意した最高級の絹を纏い、精緻な銀細工の耳飾りを揺らす彼女の姿は、どこから見ても由緒正しきグランツ家の令嬢そのものです。


 広間には、贅を尽くした料理の香りと、教会のパイプオルガンを思わせる厳かな調べが満ちていました。リゼッタの仕事は、バルガスの隣で「若き当主」として微笑み、有力者たちに顔を売ること。そして、彼らがひた隠しにする「醜い本音」を、その冷徹な瞳で観察することでした。


「……グランツ家の令嬢は、噂に違わぬ淑女の鑑ですな」


 脂ぎった顔でリゼッタの手の甲に口づけをしたのは、この地方の物流を牛耳るバロウ伯爵でした。彼の目はリゼッタを敬っているのではなく、彼女の背後にある「バルガスが動かす莫大な利権」を舐めるように見ています。


 かつての彼女なら、この視線に恐怖し、ただ縮こまっていたでしょう。


 けれど今、リゼッタの胸にあるのは、吐き気を催すような嫌悪感――そして、それと同等な「冷ややかな愉悦」でした。


(この男は、自分が来月には破産することを知らない。バルガスさんが裏で進めている差し押さえの一枚の書類で、この贅沢な暮らしも、傲慢な態度も、すべて塵になるのに)


 バルガスがリゼッタの耳元で、甘く、毒を含んだ声で囁きます。


「お嬢様、ご覧なさい。ここにいる者たちは皆、血統や神への信仰を口にしますが、実際に膝を屈するのは『より大きな力』に対してのみです。今の貴女には、それがある」


 リゼッタは、シャンパングラス越しに広間を見渡しました。


  煌びやかなクリスタルのシャンデリアが放つ光は、広間に集う者たちの宝石を不自然なほどに輝かせていました。

 人々の敬愛を一身に集める老いた大司教を頂点に、選ばれた者だけが許される至高の晩餐会。しかし、リゼッタの目に映るのは、眩い光ではなく、吐き気を催すような「醜悪さ」でした。


(……この人たちの笑顔は、一体何人の犠牲の上に成り立っているのでしょうか)


 リゼッタは、手にした冷えたグラス越しに広間を観察していました。


 平民の数年分の稼ぎを一口で飲み下し、飽食にふける貴族たち。慈愛を説きながら、その足元でうごめく奴隷たちの苦悶には目もくれない聖職者。


 かつての自分が「燃え滓」として泥の中で震えていた時、彼らはこうして、今と同じように何の疑問も抱かずに笑っていた。その事実が、リゼッタの胸の奥で、どす黒く煮え繰り返るような怒りとなって燃え上がります。


「お嬢様、顔色が優れませんね。退屈されましたか?」


 傍らに立つバルガスが、唇の両端を吊り上げて囁きました。

 リゼッタは静かに首を横に振り、大司教と親しげに談笑するバロウ伯爵を、氷のように冷たい瞳で見据えました。


「いいえ。……ただ、あまりにも醜いと思っただけです、バルガスさん」


「醜い、ですか。これは手厳しい」


「ええ。権力にあぐらをかき、自分たちが他者の命を削って生きていることさえ忘れている。……これほどまでに無価値で、無意味な存在がこの世にあるでしょうか」


 その時、リゼッタの中に、今まで感じたことのない激しい衝動が突き上げました。

 それはかつて感じた「ただ壊したい」という破壊衝動を超え、より根源的で、絶対的な「支配への渇望」でした。


(……ああ、そうです。壊すだけでは、まだ生温なまぬるい)


 泥の中に放り出された自分を嘲笑ったこの世界。

 ならば、自分がその頂点に立ち、この醜い連中を一人残らず引きずり落としてやりたい。


 彼らが縋り付いている富を、名誉を、そしてその傲慢なプライドを、自分の指先一つで剥ぎ取っていく。


 その瞬間、彼らが浮かべる絶望の表情こそが、自分にとって最高の「救済」になるはずだ――。

 その思考に、リゼッタの背中の召喚印が、かつてないほど激しく脈動しました。

 それは激痛ではなく、沸騰するような高揚感。


 悪徳を粛清し、正当な支配者として「ゴミ」を掃除する。その正義という名の愉悦が、彼女の魔力を極限まで引き上げます。


「バルガスさん。……予定を変更しましょう」


 リゼッタは、バルガスに向かって、ゾッとするほど美しく、そして残酷な微笑みを向けました。


「バロウ伯爵だけではありません。ここにいる、私を蔑んだすべての『醜いもの』を、しかるべき場所へ叩き落として差し上げたいのです。……私が、この世界の新しい法になるために」


 バルガスは驚いたように目を見開き、やがて歓喜を隠しきれない様子で、深く、深く頭を下げました。


「……御意のままに、我が主。これこそ、グランツ家の真の夜明けです」


 光り輝く社交界の中心で、リゼッタは確信していました。

 自分はもう、奪われるだけの奴隷ではない。

 この汚らわしい世界を蹂躙し、塗り替えていく「審判者」なのだと。


 リゼッタは、自分の口角が醜く吊り上がっていることに気が付きませんでした。


 馬車が屋敷の車寄せに止まると、リゼッタは深い溜息と共に、顔に張り付いていた「貴族の仮面」をわずかに緩めました。

 ホールに入ると、そこにはいつものように、温かな灯りを手にしたアンナが待っていました。


「お帰りなさいませ、リゼッタ様! 随分と遅いお帰りでしたね。……まあ、そんなに怖いお顔をされて。やはり、あのような場所は退屈でしたか?」


 アンナはリゼッタの顔を見るなり、心配そうに駆け寄ってきました。


 リゼッタは、アンナの無垢な瞳を見つめます。先ほどまで見ていた、油ぎった強欲な大人たちの社交界。それに比べて、アンナの存在はなんと清らかで、壊れやすく、そして尊いのでしょう。


(……)


 リゼッタは、アンナの手をそっと握り返しました。以前よりも少しだけ、その力が強くなっていることに自分では気づきません。


「……ええ。とても醜い場所でした、アンナ。でも、もう大丈夫ですよ。私が、あの汚らわしい連中をすべて掃除して差し上げますから」


「え……? お掃除、ですか?」


 リゼッタの言葉に、アンナはきょとんと首を傾げました。リゼッタは陶酔するように、言葉を続けます。


「あの方たちは、自分が持っているものの価値さえ分かっていません。他者の痛みを踏み台にして笑っているだけ。富も、地位も、傲慢な心さえも。そうして得た力で、私はこの場所を、貴女が笑っていられるだけの世界に作り変えます。それが、私の使命なのです」


 リゼッタの瞳には、かつての「燃え滓」と呼ばれていた頃の怯えは微塵もありませんでした。代わりに宿っているのは、絶対的な力への確信。正義という名の剣を振るう、処刑人のような鋭い光です。


「リゼッタ様……?」


 アンナの顔から、笑みが消えていきました。

 彼女が握られているリゼッタの手は、ひどく熱く、そして震えていました。それは情熱というより、他者を支配することに目覚めた者の、剥き出しの昂ぶりでした。

 アンナの脳裏に、不意にある記憶が蘇ります。

 それは、増税を強いた領主や、自分を買い叩いた不遜な金持ちたちが、弱者を値踏みする時に浮かべていた「あの目」です。


(……どうして)


 今の彼女の瞳に宿っているのは、アンナがこれまで見てきた、どんな醜い権力者よりも冷徹で、そして独善的な「支配」への熱でした。


「……アンナ? どうしたのですか、そんな顔をして」


 リゼッタが不思議そうに覗き込んできます。その声は優しく、敬語のままでしたが、アンナにはそれが、獲物を慈しむ捕食者の囁きのように聞こえてなりませんでした。


「……いいえ、なんでもありません。少し、お疲れのようですね。早くお休みになりましょう」


 アンナは無理に口角を上げましたが、その瞳には隠しきれない困惑と、得体の知れない恐怖が滲んでいました。


 リゼッタはアンナの違和感に気づかぬまま、背中の召喚印が心地よく脈動するのを感じていました。


 守るべき唯一の美しさ。

 それを守るために、自分はより強大な悪にならなければならない。

 

 リゼッタがアンナを抱きしめるたびに、二人の心の距離は、取り返しのつかないほど遠くへと離れていくのでした。



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