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1-5血と汗と涙

 数日後、グランツ家の屋敷の一室で、リゼッタは件の男との対面を迎えることになりました。

  重厚なマホガニーの机を挟んで座るのは、近隣の領地を治めるグラハム伯爵です。

 彼は部屋に入るなり、リゼッタを品定めするような無遠慮な視線で眺め、鼻で笑いました。


「ふん、バルトロメの野郎も、死に際に耄碌したか。あのような強欲な男が、よりによってこんな女の腐ったような、育ちの悪そうな小娘を後継に据えるとはな。……おい、バルガスとやら。この『メス』は、自分が座っている椅子の価値さえ理解できているのか? 宝石を豚に与えるとは、まさにこのことだ」

 

 グラハム伯爵は、汚らわしいものを見る目でリゼッタを一瞥すると、バルガスへ吐き捨てました。

 

「女が家督を継ぐなど、この国の良識が泣くというものだ。それも、このような弱々しく、今にも折れそうな枝のような小娘ではな。……枕元で適当な愛嬌でも振りまいて丸め込んだんだろ。そうだろバルガスとやら。賎しい血筋の女がやりそうなことだ」


 バルガスは部屋の隅に立ち、慇懃な態度を崩さぬまま、眼鏡の奥でリゼッタの反応を静かに見守っています。

 伯爵の放つ言葉の暴力は、リゼッタの存在そのものを否定し、踏みにじるためのものでした。これこそがグラハム卿の手法でした。殊女性に対しては、こうして相手を徹底的に貶め、威圧的な言動で不当な要求を飲ませることを常套手段としていたのです。誤算があるとすれば、グラハムの言葉による暴力は、実際に痛みを伴う拷問を受けたリゼッタからすれば、稚児の我儘を聴くかの程度で、そんな的外れな言葉で自分を傷つけられると信じているこの男の浅ましさが、ただ滑稽に感じられました。

 

「伯爵、言葉にはお気をつけください。こちらのリゼッタお嬢様は、正当な相続人であらせられます。……さて、お嬢様。伯爵が提示されているのは、この領地の一部を無償で譲渡せよ、という無礼な要求でございます。これに同意するか否か、貴女のお口から返答をお願いできますでしょうか」

 

 リゼッタは、無表情なままグラハム伯爵を見つめました。

 伯爵の脂ぎった顔、小刻みに揺れる贅肉、そして自分を「取るに足らないモノ」として扱うその傲慢な瞳。

 それらは記憶の奥底にある、バルトロメの姿と重なり合います。

 

「……そんなの、嫌に決まってます」

 

 リゼッタの掠れた、しかし冷ややかな拒絶に、伯爵の顔は一瞬にして憤怒で赤く染まりました。

 

「嫌だと? 小娘、貴様。自分が誰に口を利いているのか分かっているのか! 私がどれほど寛大な心で、貴様の汚れた出自に目をつぶってやっているか理解できないのか?」

 

 伯爵は、まるで親切の押し売りのように身を乗り出し、リゼッタを指差しました。

 

「いいか、よく聞け。バルトロメがどこぞの売春婦に産ませた私生児だということなど、調べればすぐに露見するのだ。そんな醜聞が広まってみろ。貴様など社交界のゴミとして掃き出され、また元の掃き溜めへ戻ることになるのだぞ。私が領地を一部譲り受けてやるというのは、その醜い事実を闇に葬り、貴様を『グランツ家の娘』として存続させてやろうという、この上ない慈悲なのだ!」

 

 伯爵は恩着せがましく首を振り、吐き捨てるように言葉を重ねます。

 

「感謝して膝をつき、私の靴でも舐めるのが筋というものだ。賎しい女の腹から出た無知な子供に、これ以上ない救いの手を差し伸べてやっているのだからな」

 

 伯爵は机を激しく叩き、唾を飛ばしながらリゼッタを威圧しました。その言葉の一つひとつが、かつて自分を「燃え滓」と呼んだ者たちの悪臭を伴って彼女を襲います。

 

 その時、リゼッタの胸の奥で、せき止められていた澱が激しく波打ち始めました。

 罵倒の言葉が飛ぶたびに、リゼッタの胸の奥で、何かが疼き始めました。

 かつてなら、ただ耳を塞いで過ぎ去るのを待つだけだった暴力的な言葉が、今は別の形となって彼女を突き動かします。

 リゼッタの心にあるのは,威圧に対する恐怖ではありませんでした。

 これほどまでに尊大に、自分を見下しているこの男を、今すぐこの床に叩き伏せたら、一体どんな顔をするのだろう。

 その脂ぎった顔を絶望に歪ませ、涙ながらに許しを請わせることができたなら、どれほど清々しさに満ちた楽しみを味わえるだろう。

 そんな、自らの内側に潜んでいた残酷な好奇心が、どろりとした熱を持って全身を駆け巡ったのです。

 その瞬間、バルガスが囁いた悪魔の助言が脳裏に響きました。


『思い出してください。あの夜、バルトロメ卿が貴女の足元で無様に這いずり……』


 背中の化粧の下で、呪印が脈打ち、強烈な熱を発しました。

 リゼッタの瞳から、それまでの無機質な光が消え、底知れぬ暗い輝きが宿ります。


「な、なんだ。その目は……。な、生意気なっ!」

 

 伯爵が怯んだ時には、すでに遅すぎました。

 とたんに室内が、闇に沈みました。そこにはもう、バルガスとリゼッタしかおりません。部屋の隅々の影が不自然に伸び、意思を持つ生き物のように伯爵の足元へと這い寄ります。

 黒い霧が触手となって伯爵の喉元に絡みつき、彼の自由を奪います。

 リゼッタの意識が闇と同調し、伯爵の脳内に直接、恐ろしい幻覚を流し込みました。

 伯爵の視界の中で、目の前の「小娘」の輪郭がドロドロと崩れ、無数の眼と口を持つ巨大な異形の怪物へと変貌していきます。

 彼が誇りとしていた地位も、女を見下すことで保っていた矮小なプライドも、すべてがその怪物のあぎとに飲み込まれていきました。


「あ、が……あああぁっ! 化け物、化け物だ! こっちを見るな、食わないでくれ!」


 先ほどまでの尊大な態度は消え失せ、伯爵はガタガタと震え、椅子から無様に転げ落ちました。

 床を這いずり、涙と鼻水で顔を汚しながら、彼はリゼッタを直視することさえできずに、虚空に向かって手を振り回します。

 彼に見えているのはもはや現実の応接室ではなく、どこまでも続く暗黒の深淵と、そこから這い寄る名もなき恐怖の化身でした。

 リゼッタはゆっくりと椅子から立ち上がり、その無様な姿を見下ろしました。

 彼女が歩み寄るたびに、影の触手が伯爵の肥えた体をなぞるように這い回り、その太い指を一本ずつ、逆方向にへし折るような幻痛を伴って締め上げます。


「……ねえ、伯爵。貴方は私を『価値も理解していない小娘』だと言いましたね」


 リゼッタは冷たい靴の先で、伯爵の顎を無理やり持ち上げさせました。恐怖で白目を剥き、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった伯爵の顔を、冷徹な瞳で覗き込みます。


「ええ、貴方の言う通り、私はこの部屋の調度品、その一つの価値さえ正確に知りません。でも、それが何だというのですか? 物の価値なんかに振り回されて、高いだの安いだのと威張り散らしている方がよっぽど浅ましい。そして、ねぇ、今私の足元で震えているあなたには、一体どれ程の価値があるのでしょうか? どこの馬ともしれない小娘に足蹴にされて、喜んでいる貴方には、一体どのような価値があるのでしょうね?」


 リゼッタが顎から足を離すと、そのまま足の爪先で彼の顎を蹴り飛ばしました。


「可哀想に、そんな些細なこと、気にならないようにして差し上げますね」

「ひ、ひぃ、あ、がっ……!!」


 叫び声すら闇に飲み込まれ、伯爵は床を掻きむしり、自らの爪が剥がれるのも構わず逃げ惑いました

 しかしリゼッタが指先をわずかに動かすと、伯爵の身体は硬直し、まるでヘビに睨まれたカエルのように、動けなくなってしまいました。

 伯爵の足元から這い上がる『闇』が、細い糸のようになって彼の身体に潜り込みました。それは彼の肉体を内側から固定し、まるで壁に飾られた剥製のように、逃げ惑う姿で硬直させます。


「な、なにを……な、なんだこれは! 体が動かん、熱い、熱いぞ……!」


 リゼッタは、無防備に晒された伯爵の胸元へ、ゆっくりと歩み寄りました。


「安心して、伯爵。これは幻ですから死ぬことはありません。死ぬことは」


 リゼッタは、影の中から一本の鋭利な『闇の刃』を、まるで花を摘むかのような優雅な動作で生み出しました。


「やめろ……やめてくれ! 何をする気だ!!」


 リゼッタはその刃を、一本、また一本と、伯爵の眼球や首元、手の甲から親指の付け根まで、そして心臓へと突き立てていきます。

 しかしグラハム卿は死ぬことも、意識を失うこともなく、いっそ気が狂ってしまえば楽なのに、意識だけは鮮明で、与えられる苦痛を正確に認識します。

 ただただ「純粋な痛み」の感覚だけが、永遠に続くかのような時間の中で伯爵を苛み続けました。


「ひぎゃあああああっ!!」


 現実の部屋に立つバルガスの目には、リゼッタの瞳を見つめた伯爵が、わずか一瞬、肺の空気をすべて吐き出すような短い悲鳴を上げ、そのまま糸が切れた人形のように崩れ落ちるのが見えました。

 外見上は傷一つありません。

 しかし、床に倒れ伏した伯爵の瞳は完全に濁り、口端からは泡を吹き、もはや言葉を話す知性すら残っていない廃人のように成り果てていました。

 一瞬の幻覚の中で、彼は一生分を費やしても足りないほどの地獄を走り抜けたのです。

 リゼッタは、小さく息を吐きました。  

 バルトロメを殺したあの夜以来の、いえ、それを遥かに凌駕するほどの鮮烈な「快感」が、ゾクゾクと彼女の体を内側から焼き焦がすかのように駆け巡っていました。


「あら、お話の途中でしたのに、グラハム卿の、実にためになるお言葉を、もっとお聞きしたかったのですが、残念です」


 リゼッタは、自分の唇が弧を描いていることに気づきました。

 震える指先で自分の頬に触れると、そこには熱を帯びた、生々しい「命」の感覚がありました。

 感情を殺し、空虚に生きてきた彼女ですが、他者を蹂躙するこの瞬間にだけ、自分という存在が確かにここに在るのだという実感を得られたのです。


「……」


 バルガスは、思わず漏れそうになった感嘆の吐息を、いつもの慇懃な笑みで押し隠しました。

 内心の動揺は、しかしかつてないほどに激しく心を揺らしていました。

 バルトロメを殺害した夜のリゼッタは、まだ怯え、追い詰められた獣のような反射で力を振るっていました。

 しかし、今、目の前で静かに立ち尽くす少女はどうでしょう。

 無気力で、されるがままだった「燃え滓」の面影はどこにもない。

 彼女は今、自らの意思で、明確な殺意と、それ以上の「愉悦」を伴ってこの惨劇を引き起こしたのです。


「これは一体,何をしたのですか? 何を,召喚……と表現すべきすら怪しいか」


 自分がほんの少し悪魔の助言を囁いただけだというのに、彼女はその「劇薬」を飲み干し、瞬く間にこれほどの猛毒へと昇華させてみせたのでした。

 床で廃人と化した男には目もくれず、バルガスはリゼッタの横顔をじっと見つめました。

 自分の想像を遥かに超える、底知れぬ加虐の本能。

 それは恐怖を通り越し、バルガスに甘美な戦慄を与えました。

 人造魔導師として作られた彼女は、決して単なる道具などではない。彼女はまさに、子供であるのだ。可能性に満ちあふれ、教えられたことを吸収し糧とする前途有望な若者なのだ。磨き上げ、適切な舞台を与え続ければ、いずれはこの国の権力構造そのものを飲み込み、塗り替えてしまうだろう。


「いえ,私は何もしておりませんよ。彼が突然倒れたのですから。何か持病でもお持ちだったのでは? ねぇバルガスさん?」


 バルガスは呆気に取られました。確かに彼女の言う通り、手を下すなどあり得ない。交渉の場で、交渉相手を物理的な手段で黙らせるなど、あってはならないことでしょう。


「なるほど,どうやらそのようですね。たしかにグラハム卿は、何か心臓の病を患っているとお伺いした覚えがあります。ええ、今日は仕方がありません。外で彼の従者が控えておりますので呼んで来ましょう」

「後のことはお任せしてよろしいですか? 少し、疲れてしまいました」

「ええ、無礼な男でしたからね、彼の罵詈雑言にお付き合いされた心労をお察しします。それでは、お任せください」


 するとリゼッタは、まるで壊れたおもちゃなど興味がないという様子で、欠伸をしながら部屋を出ていきました。

 残されたバルガスは、グラハム卿の脈を確認し、生きていることを確かめ、そして今しがた約束したことを、手はず通りに済ませました。


 それから数日後のことでした。

 午後の柔らかな光が差し込むテラスで、リゼッタはアンナが淹れた紅茶に口を付けていました。

 かつては何の感慨もなく飲み干していた高級な茶葉の香りが,今では鼻をくすぐり,それを心地よく感じさせてくれます。

 

 そこへ、足音もなくバルガスが姿を現しました。

 

「お嬢様、グラハム卿の件ですが、無事に片付きましたよ」

 

 バルガスは満足げに眼鏡の縁を押し上げ、手元の書類に目を落としながら語り始めました。

 

「彼はあの後、すっかり正気を失いましてね。屋敷に戻ってからも『影が私を喰いに来る』と叫び続けているそうです。おかげで、彼が抱えていた不正な土地取引の証拠を突きつけるまでもありませんでした。……もともと彼は、王室の公金を横領して賭博に注ぎ込むという致命的な弱みがありましたから……まぁ、彼の相続人対して使うとしましょうかね」

 

 バルガスは、自分がどれほど巧妙に網を張り、伯爵を追い詰めたかを自慢げに話しました。

 

「……彼は今も屋敷の地下で、存在しない影に怯え続けているそうですよ。おかげで、彼が握っていた利権はすべてこちらの掌の上です」

 

 バルガスは満足げに語り終えると、ふと手元の書類から目を離し、リゼッタをじっと見つめました。

 

「ところで、お嬢様。あの日、貴女なした『あれ』についてですが……」

 

 バルガスは眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせ、探るような口調で言葉を継ぎました。

 

「あの現象は、貴女の力と解してよろしいのですか?」

 リゼッタは、バルガスの問いに答える代わりに、自分の細い指先をじっと見つめました。

 あの日、自分の内側から溢れ出したものは、言葉で説明できるような生易しいものではありませんでした。

 ただ、あの男を壊したいという衝動が、背中の刻印を通じて具現化したに過ぎないのです。

 

「……分からりませんが、多分そうなのでしょうね」


「なるほど。理解しました」

 

 リゼッタの返答は、おおよそ答えといえるものではありませんでしたが、バルガスには十分でした。まるでおもちゃの仕組みを解明した子供のような、純粋で残酷な笑みを浮かべました。

 リゼッタはその視線に不快感を覚えることもなく、ただ自身の内に残る熱の余韻を思い出していました。

 

「……ねぇ、バルガス、さんとお呼びすればよろしいですかね?」

 

 リゼッタが短く名を呼ぶと、バルガスは饒舌な説明を止め、恭しく頭を下げました。

 

「はい、何でしょうか」

 

「次にはいつ、あのような方を連れてきてくださるの?」

 

 リゼッタの瞳は、穏やかな陽光の下にありながら、底知れぬ暗闇を宿していました。 

 彼女が求めているのは、バルガスが手にする金や権利ではありません。

 あの脂ぎった男の顔が絶望に染まり、人格が崩壊していく瞬間の、あのゾクゾクとするような熱量だけでした。

 バルガスは一瞬だけ驚いたように目を見開きましたが、すぐに口角を吊り上げ、これまでで最も深い敬意を込めて微笑みました。

 

「……ふふ、左様でございますか。お嬢様」

 

 バルガスはリゼッタの隣に歩み寄り、その冷たい指先に触れんばかりに顔を寄せました。

 

「ご安心を。この国には、自らの傲慢さに無自覚な『獲物』がいくらでも転がっております。……貴女のその渇きを癒やすための舞台は、私がいくらでも用意いたしましょう」

 

 リゼッタは満足そうに目を閉じ、再び紅茶を啜りました。

 背中の白粉の下で、呪印が次の獲物を待ちわびるように、静かに、しかし熱く脈動していました。


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