1-4束の間の安息、または魅力的な提案
視界を覆っていたのは、柔らかな乳白色の白い世界。
リゼッタが重い瞼を持ち上げると、そこには細かな刺繍が施されたレースの天蓋が広がっていました。横たわっているのは、今まで知っていた冷たい土の上ではなく、沈み込むほどに柔らかい羽毛のベッドです。
(……ここは?)
全身にけだるさを感じました。
それが召喚を行使した副作用であることを,リゼッタはまだ知りません。
理外の力に耐えられ肉体を,リゼッタはまだ持ち合わせていなかったのです。
不明瞭な頭を抱えながら、リゼッタはベッドのレースをかき分け、這い出るようにして床に足を下ろしました。
足裏に触れる毛足の長い絨毯の感触さえ、彼女にとっては現実味を欠いた異質なものでした。
「……あ! お目覚めになられましたか、お嬢様!」
不意に明るい声をかけられ、リゼッタの肩が小さく跳ねました。
振り返ると、そこには一人のメイドが立っていました。
年の頃はリゼッタと同じか、二、三歳上でしょうか。
彼女はリゼッタが起きたのを見るなり、パッと顔を輝かせて駆け寄ってきました。
「ああ、よかった……! もう二日もお休みになられたままだったので、このまま目覚めなかったらどうしようかと、私、気が気じゃなくて!」
「えと,誰……ですか? ここは……」
「私は、新しくこちらでお世話をすることになりましたアンナと申します! 先日、バルガス様からお嬢様の境遇を伺いまして……。もう、なんてお労しいんでしょう!」
アンナと名乗ったメイドは、バルガスの名を出すなり、大きな瞳にみるみるうちに涙を溜め始めました。
彼女はバルガスが用意した「強盗に襲われ、一人だけ生き残った悲劇の令嬢」という作り話を、一片の疑いもなく信じ込んでいたのです。
「二日前、強盗が押し入って、旦那様も、他の皆さんも……。お嬢様だけがクローゼットで震えていらしたなんて……ううっ、思い出しただけでも胸が締め付けられますっ! お可哀想に、本当にお可哀想に!」
アンナは自分の説明に自分で感極まったのか、エプロンで顔を覆ってボロボロと泣き出しました。
バルガスが彼女を選んだ理由は、まさにこの「御しやすさ」にありました。
少しばかり頭は回らないが、情に厚く、与えられた情報をそのまま真実として受け入れて涙を流す。
そんな彼女の純粋な反応こそが、リゼッタを「本物の令嬢」として周囲に信じ込ませるための、最良の舞台装置と考えたのでした。
メイド――アンナの言葉に、リゼッタは眉をひそめました。
バルガス? 主の名前はバルトロメであったはずだが。
昨夜、喉元にナイフを突きつけた,あの卑屈そうな男が、その名であることを彼女はまだ知らないのです。
リゼッタは自分の手首を見つめました。泣きじゃくるメイドを余所に、 そこで、彼女は違和感に気づきます。
(……消えている?)
袖をまくり、自分の体を確認しました。
身に纏わされているのは、肌に吸い付くような最高級シルクのネグリジェ。
その下にあるはずの、召喚奴隷として刻まれた無数の虐待の傷跡も証も、さらには昨夜浴びたはずの返り血までが、跡形もなく消え去っていました。
汚れ一つない、真っ白で滑らかな、高貴な令嬢の肌。
昨夜の惨劇も、それまでの地獄のような日々も、すべてがバルガスという男の手によって「存在しなかったこと」に上書きされていました。
「ひぐっ、うう……す、すみません、お嬢様の前で。私、お嬢様を全力でお支えしますから! 何でも言ってくださいね!」
アンナは鼻をすすりながら、ひまわりのような眩しい笑顔をリゼッタに向けました。
しかし当のリゼッタには,アンナの声は届きません。
彼女は別のことに目と思考を奪われていました。
鏡に映る自分は、確かに瘦せこけた少女――自分自身であるはずなのに、そこにいるのれっきとした「お嬢様」でした。
リゼッタの意思など、そこには欠片も存在しませんでした。
目覚めてすぐ、彼女はアンナを含む数人のメイドたちによって、流れる作業のように着替えさせられました。
用意されていたのは、最高級の黒いシルクで仕立てられた喪服です。
「お嬢様、本当にお綺麗です……。でも、今日だけは無理して笑わなくていいんですよ」
アンナが鼻をすすりながら、不器用ながらも一生懸命にリゼッタの髪を編み込んでいきます。
他のメイドたちは、アンナのように泣きはしませんでした。
彼女たちはバルガスに弱みを握られ、逆らえないままこの屋敷に送り込まれた者たちです。
「前の使用人たちは事件のショックで皆逃げ出した」
などというバルガスの説明に、明らかな不自然さを感じながらも、彼女たちは深く追及することを放棄していました。
下手に真実を探れば、自分たちも「逃げ出した前任者」と同じ運命を辿るかもしれない――その打算的な沈黙が、偽りの平穏を形作っていました。
朝食の席でも、リゼッタはただ黙って、目の前に置かれた温かなスープを口に運ぶだけでした。
やがて、主の死を聞きつけた弔問客たちが、次々と屋敷を訪れ始めます。
やってくるのは、いずれも豪奢な馬車を連ねた有力な貴族や高官ばかりでした。
バルトロメ・ゼ・グランツという男が、いかにこの国の深部にまで根を張った権力者であったかを、その弔問客の顔ぶれが物語っていました。
「……まさか、バルトロメ殿にこれほど成長されたご令嬢がいたとは」
「隠し子という噂はかねがね伺っていたが、なるほど、面影がある」
彼らはリゼッタを見て驚き、そして納得したような顔をしました。
リゼッタが何も答えず、虚空を見つめている姿も、「父親を突然失った悲劇の令嬢の動揺」として都合よく解釈されました。
その後は、息つく暇もなく葬儀の打ち合わせが始まりました。
葬儀屋、弁護士、親戚を自称する遠縁の男たち。
彼らがリゼッタの頭越しに莫大な金額や手続きの話を矢継ぎ早に進めていきます。
「よろしいですね、お嬢様?」
確認を求められても、リゼッタには何一つ理解できませんでした。
ただ、目の前の景色が色彩を欠いたまま、自分を置いて過ぎ去っていく感覚。
彼女はただ、流されるままにそこに佇んでいました。
あっという間に夕闇が屋敷を包み込み、ようやくリゼッタは一人、あの天蓋付きのベッドに横たわりました。
静寂が訪れると、昨夜の惨劇の記憶が、熱を帯びたまま蘇ってきます。
「それでは,何かございましたらお呼びください。私アンナが,一秒で駆け付けますから!」
そう言って深々と頭を下げたアンナは,主人の休息を邪魔してはいけないと,そそくさと部屋を出ていきました。
(……ねえ、いるの?)
リゼッタは、暗闇に向かって小さく声をかけました。 自分の背中に刻まれた印を通じて繋がっている、あのドス黒い『闇』の存在。主を屠り、自分にこの奇妙な自由(あるいは新しい檻)を与えた力を思い起こします。
返事はありません。
しかし、肌を撫でる夜風の中に、確かにあの冷たい気配が混じっているのを彼女は感じていました。
「……ふふ、お疲れのようですね、お嬢様」
不意に部屋の扉が開きました。
ノックもなしに入ってきたのは、この茶番の演出家、バルガスでした。
彼はアンナたちに見せていた「親切な後見人」の仮面を脱ぎ捨て、下卑た満足感をその顔に張り付かせていました。
「素晴らしい一日でしたよ。貴女が黙っていてくれたおかげで、誰もが貴女を『悲劇の聖女』だと信じ込んでくれた。……さて、明日の葬儀が終われば、いよいよ本番です。貴女には王宮へ出向き、国王陛下の御前で『臣従礼』を捧げていただかなくてはなりません。そこで陛下の手を取り、忠誠を誓うのです。そうしてようやく、貴女は『バルトロメの娘』として、正式に爵位と遺産を相続することになります。……粗相のないよう、頼みますよ?」
バルガスはベッドの傍らに歩み寄り、リゼッタを見下ろしました。
「……何か、望みはありますか? 菓子でも、新しい宝石でも、あるいは……また誰かを殺したくなりましたか?」
バルガスは少々,いえかなり気分が高揚していました。
無理もありません。物事が,あまりにもすんなりとことを運んでしまったからです。
公文書の偽造など,彼にしてみれば朝飯前ですが,人の意識となると話は別です。
バルトロメには確かに娘や息子などいないはずでしたが,しかしまさか親族までもが,流れていた隠し子の噂を知っていて,その上信じてしまうとは。
隠し子の噂は当然バルガスも知っていました。
長い付き合いです。
バルトロメ本人にも確認をし,いないとの返答をもらっていました。
当然,信じているわけではありませんでした。むしろバルトロメのような権力者に,後継者がいないことの方が不自然なのですから。
もしかしたら,バルトロメには本当に隠し子がいたのかもしれません。
もしも名乗り出てきたなら,対処法も考えていました。
しかし今となってはもう,どうでもよいことです。
公的な書類では,すでにリゼッタが正式な相続人です。
そのうえ明日の臣従礼が終われば,真実がどうあれ,王が彼女を貴族とした以上,もう覆ることはないのです。
「……貴方は、一体誰でしょうか?」
リゼッタの掠れた問いに、バルガスは芝居がかった動作で足を止め、自身の額に手を当てました。
「ああ、そうでしたね。あまりに計画が完璧に運びすぎて、つい失礼を。名乗るのも忘れるほど、今の貴女は完璧な『バルトロメ卿の娘』ですよ」
バルガスは口角を吊り上げ、愉悦を隠そうともせずに語り始めました。
つい先日、自分を殺そうとナイフを振るい、その直後に力尽きて深く眠り込んだ彼女のこと。
その際、彼女の体に刻まれた奴隷の烙印を確認したこと。
そして、その「殺意に満ちた奴隷」を「非業の死を遂げた貴族の隠し子」という悲劇のヒロインにすり替えるため、どのような工作を行ったか。
その説明は、まるで泥の中から拾い上げた石を、最高級のダイヤモンドだと偽って世界を欺くペテン師の独白のようでした。
「……どうして? どうして私に、こんな真似をするのでしょうか?」
自分は彼を殺そうとした。それなのに、なぜ死罪どころか爵位まで用意するのか。
リゼッタの問いに、バルガスは心底意外だと言わんばかりに両手を広げ、いけしゃあしゃあと微笑みました。
「おや、約束したじゃありませんか。貴女の安眠を守り抜くと。それに……」
彼はリゼッタの頬に触れそうなほど顔を寄せ、蜜のように甘く、そして空っぽな声で付け加えます。
「主人を殺しかけた挙句、行き場もなく眠りこけるしかなかった……そんな不幸続きな貴女への、私なりのただの親切心ですよ。……本当ですとも」
(なんだか,嘘っぽい人だなぁ)
リゼッタは、正面にいる男が,まるで即興の演劇でも自分に披露しているのではないかと感じました。こんなにも嘘っぽいのに,彼が言うには,彼の言説にいろいろな人が騙されているという。
ですが,その言葉が真実か偽りかなど、彼女にはどちらで構いませんでした。
「……そうですか。ひとまずわかりました。ちょうど,何をしたらよいのか困っていましたし」
「そう、その調子です。その『何を考えているか分からない顔』こそ、周囲を勝手に納得させる聖女の証ですよ。さあこの後の儀式と臣従礼でも、その調子で頼みますよ」
バルガスは満足げに頷くと、踵を返して部屋を出て行きました。
残されたリゼッタは、彼が整えた豪華な寝台を見つめながら、これから始まる偽りの貴族としての生活に、ゆっくりと身を沈めていくのでした。
数日後に行われた葬儀と臣従礼は、まるで精巧に仕組まれた舞台演劇のように、滞りなく幕を閉じました。
バルガスが用意した完璧な家系図と、王印すら欺く偽造書類。
それらはリゼッタの過去を塗りつぶし、泥にまみれた「燃え滓」を、バルトロメ卿の莫大な遺産を継ぐ美しき相続人へと変えてしまいました。
ですが、どれほど高価なドレスを纏っても、リゼッタの体には消えない記憶が刻まれていました。
「リゼッタ様、朝の身支度を始めましょう。アンナ、貴女はあちらで香油の準備を」
部屋の主導権を握るのは、アンナではなく、バルガスがどこからか連れてきた年配のメイドでした。
彼女はバルガスの忠実な駒であり、その命に従って、決して口を開くことはありません。
アンナは「リゼッタは背中に深い傷を負い、それをひどく気にしている」というバルガスの嘘を信じ込まされ、少し離れた場所で甲斐甲斐しく立ち働いています。
物言わぬメイドは、陶器の小鉢に入った重厚な白粉を手に取り、機械的な手つきでリゼッタの肌に刷り込んでいきました。
召喚士の幾何学模様と、その上に無残に焼き付けられた奴隷の呪印。
白くひび割れた鞭の痕。
それらは特殊な香料を混ぜた白粉の下へと沈み、滑らかな貴族の肌へと偽装されていきます。
鏡の中に映るのは、非の打ち所のない完璧な令嬢の姿でした。
リゼッタはその冷たい白粉の感触に、自分の正体が作り物の虚像であることを突きつけられるような心地がしていましたが、それさえも今の彼女には、遠い世界の出来事のように感じられました。
それからの日々は、かつてのリゼッタにとっては想像も及ばないほど、過剰な豊かさに満ちていました。
朝食には、新鮮な果実と、バターを贅沢に使った焼き立てのパン。
バルガスは姿を見せませんが、彼の手配によって、王都でも指折りの仕立屋や靴職人が連日のように屋敷を訪れます。
絹、レース、カシミア。彼女の指先一つにまで贅を尽くした品々が飾り立てられていきました。
けれど、温かなスープを口にしても、最高級の毛織物に触れても、彼女が感じるのは空虚という名の重みだけでした。
(どうしてだろう。この生活は満ち足りているのに)
リゼッタにとって,この生活は,痛みが伴わないだけで大差のないものでした。
感情の源泉に蓋をして,決して漏れ出すことのないように厳重にきつく閉ざした心の扉は,物質的な豊かさではノックすらままならないほど堅牢でした。
昔なら,それでよかった。
しかしリゼッタの心には,感情はでることはありませんが,わずかながらの変化が起きていました。
それは,閉じ込めたはずの感情が漏れ出す経験。
それを感じてしまったがための変化でした。
(あの時,私は確かに)
それは,今にして思えばあまりにも残酷な感情。
今にも死にそうなかつての主,今は亡き戸籍の上でのみの実父。
バルトロメ・ゼ・グランツが,床に這いつくばって助けを乞うた時に感じた,あの感情。
(それにあの子も,あれから全く現れない)
背中の召喚印は,意識をすれば確かに,何か気配のようなものを感じるけれど,それが形となって現れることはありません。
リゼッタは、傍らで甲斐甲斐しく世話を焼くアンナに、ふと心細さをぶつけてみました。
「ねぇ。アンナ。……私、どうすれば貴女のように笑えるのでしょうか?」
アンナは困ったように眉を下げ、瞳には涙を滲ませました。
そして心の中で,きっとこの子は,まだ傷が癒えていないのだわ。父親が亡くなって,いえ,心を通わせていた従者全員を失って,まだ半年もたっていないのだから!
一人納得し,優しくリゼッタの手を握りました。
「それはきっと、お疲れなのですわ。たくさん美味しいものを食べて、たくさん眠れば、いつか心も温かくなります。私がずっとお側にいますから。もしも辛い時があるのでしたら、一晩中だって一緒にいて差し上げますから、遠慮なく言ってくださいね」
その無垢な献身は、今のリゼッタには眩しすぎて、かえって彼女の空虚を際立たせるだけでした。
アンナの言葉に、リゼッタは納得していない様子でした。アンナもその様子を察していました。
アンナには良識がありました。それは身分という、決して埋まることのない断絶からくる「遠慮」とほぼ同義でした。先程の「一晩中側にいる」という提案も、メイドとしての職分を超えない、最低限の誘い文句のつもりでした。
しかし、それでは駄目だとアンナは直感していました。
ほんの数週間の付き合いですが、アンナはリゼッタの中に、ある種のもどかしさを感じていました。
リゼッタは、驚くほど受け身なのです。生来のものか、それとも事件のショックか。確かなことは、この少女には「自分から何かをしたい」という欲求が欠落しているということ。言われたことには従順ですが、その危うさは、もし悪い者が唆せば、そのまま奈落まで付いていってしまいそうな危うさでした。
けれど、それ以上にアンナを突き動かしたのは、リゼッタの持つ不思議な美徳でした。
リゼッタには、今を生きる多くの貴族が失ってしまった「他者への敬意」が、ごく当たり前に備わっていました。借金のために売られるようにメイドとなった自分に対しても、彼女は決して奢ることなく、対等な一人の人間として言葉を紡いでくれる。
アンナにしてみれば、冷徹な貴族社会という檻の中で、初めて見つけた「温かな息吹」だったのです。
この子には、幸せになってほしい。
仕事だから尽くすのではない。アンナ自身の心が、リゼッタという少女に救われていたからこそ、彼女は禁忌の一歩を踏み出しました。
「あの、リゼッタ様。差し出がましいこととは存じますが……」
珍しく言い淀むアンナに、リゼッタは不思議そうに首を傾げました。
「今度一緒におでかけしませんか? 街に出て、美味しいお菓子のお店をご紹介しますよ?」
その言葉に、リゼッタは驚きを隠せませんでした。
それは、リゼッタがこれまでの人生で一度も手渡されたことのない、純粋な好意という名の招待状でした。
向けられた無垢な瞳に、リゼッタは、どう返事をしていいか分からぬままで、黙ってしまいました。
一方、数日ぶりに姿を現したバルガスに同じ問いを投げた時、彼は鏡越しにリゼッタの目を見つめ、酷薄な笑みを浮かべました。
「お嬢様、それは貴女が『本物』を知ってしまったからです。温かなスープや絹のドレスなど、ただの生存の装飾に過ぎません。貴女の渇きを潤すのは、もっと別の……劇薬なのですから」
バルガスは知っていました。
あの日,すべてが劇的に変化したあの日。
バルガスがのど元にナイフを突きつけられたあの瞬間。
バルガスは確かに,今でこそこの空虚な少女に,自分と似た変質的な情熱を見出していました。
それから、リゼッタの退屈を見透かしたように、一通の手紙をテーブルに置きました。
「お嬢様、今の貴女に必要なのは休息ではなく、刺激です。ちょうど、貴女の静かな生活を脅かそうとする不届き者が現れましてね。バルトロメ卿の遺産の一部を、力ずくで奪おうという強欲な男です」
バルガスの言葉は、静かですが、リゼッタの心の奥底にある澱をかき混ぜるような響きを持っていました。
「少し,お手伝いをしてほしいのですよ。いえ,難しいことではありません。ただ,後ろ盾として,グランツ家の御威光を賜りたいのです」
バルガスは続けました。
それはリゼッタの保身を促すための呪文。
彼はリゼッタを,さながら弟子を育てるように,同質のものへと変質させたいという意図がありました。
「バルトロメ卿が遺した財産は、いわば貴女の自由を担保するものです。それを横から掠め取ろうとする輩を放置すれば、貴女はまた、あの日のように持たざる者へ逆戻りしてしまう」
芝居がかったバルガスの口調に、しかしこの日は耳を傾けました。
「……幸い、書類上の不備は見つけました。対面での交渉にて、彼を法的に追い詰めることは容易いのですが……」
バルガスが一旦言葉を止めて、リゼッタの様子をチラリと確認しました。今回はしっかりと聞いていることを確認し、続けました。
「しかしそれだけではだめなのですよ。人間というものは,あなたもご存じの通り,たやすく挫けるものではありません。一度や二度の失敗程度では,さながらつぶしたバネのごとく,より高い跳躍へといざなうにすぎません」
それはさながら、人間讃歌のようでした。
しかしバルガスの狙いは全くの逆で、むしろ人間というものの力強さを知っているからこそ、それを入念に打ち砕く術を熟知していました。
「必要なのです。最後の一撃が。彼が積み上げてきたプライドを粉々に砕く致命傷を与える必要が。しかしその役割は、私には務まりません。貴女にこそ、この役目は相応しい! いえ、貴女にしかできないことなのです。どうでしょう。その空虚な胸に、もう一度だけあの熱を灯してみる気はありませんか?」
バルガスは決して強制はしません。
しかし、リゼッタがその「甘美な毒」を一度味わえば二度と逃れられないことを知っているかのように、逃げ道のない選択肢を提示したのです。
「思い出してください。あの夜、バルトロメ卿が貴女の足元で無様に這いずり、命を乞うていた時のことを。……あの時、貴女を支配していたのは、今の退屈な安らぎなどより、ずっと鮮烈で美しい力だったはずだ」
バルガスは耳元で、悪魔のように優しく囁きました。
「貴女はまだ、自分自身を理解していない。貴女が本当に必要としているのは、スープの温もりでもなければ他者からの憐憫でもない、強者が弱者へと墜ちる瞬間に放つ、あの絶望の残り香なのですよ」
リゼッタは、バルガスが差し出した手紙を見つめました。
そこには中年を過ぎた男性の写真と、簡単なプロフィールが記されていました。
顔は似ていませんが、リゼッタはその男が、どこかバルトロメに似ているような気がしました。
その瞬間、背中の召喚印が、あの夜と同じような不気味な熱を帯びて拍動するのを感じました。
脳裏にはあの時の情景が、鮮明に浮かび上がります。
死の間際に見せた、醜く歪んだ絶望の表情。
自分を虐げ,嬲り者にした連中の、矜持も名誉もすべてが瓦解した、あの瞬間。
今の空虚な胸を唯一満たしてくれそうな、刺すような熱気。
リゼッタはそれが「加虐」という禁断の快楽であるとはまだ気づかぬまま、ただ、その熱を再び手繰り寄せたいという抗いがたい衝動に身を委ねました。




