1-3悪徳のなす夢、偽物の令嬢
同刻,屋敷の客室にて,上品ないでたちをした灰色髪の男が,たばこをふかしていました。
彼の名前はバルガスといって,この日は屋敷の主人と,とある計画の打ち合わせに来ていたのです。
重厚な絨毯が、バルガスの苛立ちを含んだ足音を吸い込んでいました。
「……全く、あの強欲爺め。いつまで私を待たせるつもりですか」
バルガスは上等な服の襟元を緩め、忌々しげに舌を鳴らしました。彼はこの国の財務局に席を置く中堅役人です。
しかしその実態は、貴族から多額の賄賂を受け取り、彼らにとって不都合な帳簿を書き換えたり、脱税の証拠を握り潰したりしてやることで甘い汁を吸う、組織の寄生虫のような男でした。
これまでにも、彼はその「筆先」一つで多くの闇を葬ってきました。 ある没落貴族からは、横領の証拠を隠蔽する代わりに先祖代々の領地を二束三文で買い叩き、またある豪商が起こした不渡りの不祥事では、帳簿の数字を丸ごと改ざんして被害者たちを「虚偽申告」の罪で逆に投獄させたこともあります。
彼がこれほどまでに自由奔放に公文書を弄べるのには、理由がありました。
財務局の内部において、彼は「不備のある書類を処理する監査部門」の責任者という、狐に鶏小屋の番をさせるような地位にいたのです。
加えて、彼は上官たちの弱みを握る名手でもありました。
上層部の女性関係や遊興費の使い込みを「帳簿の隅」に見つけては、それを公にする代わりに、自分への干渉を一切断たせていたのです。
「監視する者がいないルールなど、ただの落書きに過ぎませんよ」
それが彼の口癖でした。自分をチェックする人間をすべて共犯者にするか、あるいは脅迫して黙らせることで、財務局という巨大な機構の中に、バルガスだけの「治外法権」を作り上げていたのです。
彼にとって、公文書は真実を記すためのものではなく、自分の懐を肥やすための「粘土」に過ぎません。その粘土をこねくり回し、黒い不正を真っ白な真実へと塗り替えるたびに、バルガスの私有財産は積み上がっていったのです。
今日、彼がこの屋敷を訪れたのには、ある大きな理由がありました。
『西域開拓地の「幽霊農地」計画』という大仕事の最終確認のためです。
この国の西域では現在、大規模な開拓が進められていますが、バルガスはその調査報告書を改ざんしました。バルトロメが所有する広大な農地を、実際には豊作であるにもかかわらず、「害虫被害により収穫ゼロ」と虚偽の査定を下したのです。
本来なら国に納められるはずの莫大な年貢は、この「不作」の報告によって公的には消滅します。
しかし、実際には裏でしっかりと収穫し、それをバルガスが用意した闇ルートで売却する。国には一銭も入れず、本来税金として消えるはずだった数千人分の食糧代を、バルトロメとバルガスで山分けにする――。
まさに、国から領土を盗むに等しい大罪でした。成功すれば、バルガスの懐には一生遊んで暮らせるほどの金が転がり込むはずだったのです。
(……ドサッ……!)
その時、階下から何かが崩れ落ちるような、あるいは肉を叩くような鈍い音が響きました。合わせて悲鳴のような叫び声も。
「おい、何の音です? 下男ども、返事くらいしなさい」
呼び鈴を鳴らし、バルガスが叫びました。
しかし、返事はありません。不気味なほどの静寂が廊下を支配しています。バルガスはわずかな胸騒ぎを覚えながら、主の執務室のドアを乱暴に押し開けました。
「おい、バルトロメ。いつまで待たせる気ですか。例の件ですが――」
言いかけた言葉が、凍りつきました。
部屋の主は、机の下で、広がる血だまりの中にうつ伏せで倒れていました。
その背中にぽっかりと空いた深い穴が、確かめるまでもなく、すでにこの男の命が尽きていることを示しています。
不自然な角度に曲がった首、そして見開かれた瞳は、もはや何の実利も捉えてはいませんでした。
「……死んで、いる?」
バルガスは後ずさりしました。しかし、そこに悲しみなどは微塵もありません。彼の脳裏を埋め尽くしたのは、ただひたすらな損得勘定でした。
「ちっ! ふ、ふざけるな……! バルトロメ、貴様、こんな! 死ぬならせめて相続してから死ね!」
このバルトロメ・ゼ・グランツという男には、法的な相続人が一人もいません。
主が死ねば、この膨大な資産と土地はすべて「主のない財産」として国に接収されてしまいます。
そうなれば、バルガスが進めていた裏取引も、これまで受け取ってきた賄賂の証拠も、すべて国の「会計監査」という名のメスを入れられることになるのです。
(私の取り分はどうなる? いや、それどころか、計画の根回しも不十分、露見すれば私の首が飛んでしまう……!)
バルガスは脂汗を拭いながら、バルトロメの死体の周りをうろつきました。
(……次は、私か? バルトロメを消して得をする連中は、当然、監査役の私をも消そうとするはずだ。明日の朝、私の死体もどこかの溝に転がっているのではないか?)
喉の奥がヒリつくような恐怖がせり上がってきます。彼は、自分が多くの人間に死を望まれる立場であることを誰よりも自覚していました。 ですが、その恐怖が限界を超えた瞬間、彼の脳裏に浮かんだのは「保身」を通り越した、病的なまでの「強欲」でした。
(……いや、待て。ここで怯えて逃げ出せば、どのみち私は終わりだ。バルトロメが死に、後ろ盾を失った瞬間、弱みを握っている上官どもがハイエナのように私を食い殺しに来る。逃げ場など、この国のどこにもない……!)
彼が生き残る道は、ただ一つ。
バルトロメが持っていた「男爵」という盾と、その膨大な「利権」を、自分のコントロール下に置き続けることだけです。
「下手人は……今はいい。逃げても死、通報しても死だ。ならば、バルトロメを生かし続けるしかない。……相続人だ。相続人はいないはずだが……。いや、いなければ『作れば』いいのでしょうか?」
闇の中で、役人の冷酷な頭脳が、生存本能と混ざり合って高速で回転し始めました。
自分を狙っているかもしれない暗殺者の影よりも、今この瞬間に失われようとしている「金と権力」を失うことの方が、彼にとっては耐え難い死に等しかったのです
「……ふふ、そうですよ。私を誰だと思っているのです? 石からも税を搾り取り、赤子のゆりかごさえ差し押さえる税務局のバルガスですよ。絶望的な状況? いいえ、これは最高の帳尻合わせです。この男の死さえ、私の帳簿では莫大な利益に化けるのですよ!」
バルガスは一人ごちると、素早く頭を切り替えました。
バルトロメの遺産を国に渡さないためには、一刻も早く「身代わりの相続人」を仕立て上げる必要があります。
適当な身寄りのない奴隷か、物乞いの少女でも拾い上げ、出生記録を改ざんし、自分の操り人形として据え置く――。
「さっさと使い勝手のいい『娘』でも見繕いに行くとしましょうか」
そう考えながら、彼が鼻歌混じりに執務室の扉を開け、廊下へ踏み出した時でした。
「……ッ!?」
そこに、死神が立っていました。
バルガスは一瞬、それがこの世の者とは思えませんでした。
そこにいたのは、サイズの合わない着古されたワンピースを纏った、小さな少女です。しかし、その姿は異様でした。
布地の端々からは糸が解け、泥に汚れ、そして何より――彼女の全身は、まるで赤い雨を浴びたかのように、どす黒い返り血で濡れそぼっていたのです。
(……下女か? いや、違う。この屋敷に、こんな子供は……)
バルガスは瞬時に、彼女がこの屋敷の使用人ですらない「何処の誰とも知れぬ闖入者」であることを悟りました。
彼女の細い手には、一振りのナイフが握られています。滴り落ちる血の音だけが響く静寂の中、少女の瞳には恐怖も、高揚も、後悔もありませんでした。
ただ、獲物を仕留める機会を伺う肉食獣のような、絶対的な「無」がそこにありました。
(こいつは、ただの子供ではない。たぶん……人殺しの、プロだ。お、おれを殺しにきたっ!)
バルガスがそのように勘違いするのも、無理からぬ話でした。
不正を働く役人である彼は、裏稼業の手合いとも面識があります。
自ら依頼をしたことはありませんが、不都合な相手を「掃除」させる貴族たちを何度も見てきたのです。
暗殺者という人種は、一様に存在感がなく、相手を「人間」ではなく「殺せるか否か」の対象としてしか見ません。リゼッタの放つ空気は、まさにそれでした。
対してリゼッタは、バルガスを見て自分の犯罪が知られたことを悟りました。
ですが、焦ることはありません。彼女の心はすでに虚無に支配されていました。
この後の展望も、いかに生きるか、あるいはどう死ぬかさえ考えてはいません。
ただ、ひたすらに疲れていました。
今すぐ、泥のように眠りたかったのです。
リゼッタがバルガスを殺そうとしたのは、単に「面倒」だったからです。
生かしておいて憲兵でも呼ばれれば、取り調べやらなにやらが始まり、眠る時間がなくなってしまいます。
リゼッタが静かに、死を届けるために一歩踏み出した瞬間、バルガスの全身から嫌な汗が噴き出しました。喉元に迫る死の気配。しかし、その極限の恐怖が、彼の異常なまでの強欲さと結びつきます。
「ま、待ちなさい! 殺すのは私の話を聞いてからでも遅くない! 私は税務局のバルガス、国の役人です! 私を殺せば、貴女は一生追われる身になります。ですが私を生かせば、貴女は……貴女はこの屋敷の、グランツ男爵の正当な『令嬢』になれる!」
バルガスは必死で利を説きました。
金、地位、西域の徴税権。
しかし、少女の瞳は一向に体温を取り戻しません。
彼女はただ、無機質にナイフを突き出してきます。
(俺はばかか!? こいつは俺を殺しにきた暗殺者! 当然後ろ盾もいるに決まっているじゃないか!)
バルガスは本能で理解しました。この「プロ」(ではないのですが)を動かすのは、欲望ではない。
「……待ってください! ならば、望みは何ですか!? 何をすれば貴女は私を見逃してくれる! 依頼主の倍額払う! いや、三倍でも四倍でも払いますよ!」
リゼッタの足が、わずかに止まりました。
彼女は虚ろな瞳でバルガスを見つめ、ひどく掠れた声で言いました。
「……通報を、明日の正午まで待ってもらえます? それまで、誰にも邪魔されずに、寝たいのです」
「…………へ?」
バルガスは一瞬、呆気に取られました。
命を賭けた交渉の場で、返ってきたのは金でも権力でもなく「睡眠の許可」だったからです。
理解が追いつかず、バルガスが呆然と口を半開きにしていると、リゼッタはわずらわしそうにナイフを喉元へ突き出しました。
「……ま、待ってください! いいでしょう、約束します! 約束しますとも!」
バルガスは慌てて両手を振り、必死に言葉を繋ぎました。
「それどころか、なんなら私が永久に、あなたの休息を約束しましょう! 明日の正午とは言わず,明日も,明後日も,誰にも邪魔されず、最高のベッドで死ぬまで眠り続けられるように計らってあげます。……どうです、これなら文句はないでしょう!?」
リゼッタは、バルガスの言葉の真偽を確かめるような素振りも見せませんでした。ただ、通報が遅れるという確約さえ得られれば、それでよかったのです。
「……わかりました。とりあえず、それでいいです」
次の瞬間、バルガスは己の目を疑いました。
あろうことか少女は、男爵の死体が転がっているはずの執務室へ悠然と入り、その手前にあったソファに倒れ込むようにして、瞬く間に深い眠りに落ちてしまったのです。
死臭の漂う部屋で、つい数分前に殺した男のすぐ傍で、泥のように眠る少女。
ソファに投げ出された彼女の背中、破れたワンピースの隙間から、バルガスの視線はある「紋様」を捉えました。
(……これは。召喚印か)
それは,バルガスの知るところでは,『国策』により作られた人造召喚士の証。
生まれたときより,物として使役されることが宿命づけられた証でした。
(バルトロメのやつ、何を考えていたのでしょうか。召喚奴隷などという、いつ暴発するかもわからぬ代物など買って……)
しかしバルガスは,召喚奴隷の生み出す恐るべき力も知っていました。
これを増産すれば,強兵など造作もないこと。しかし国がその製造を中止にしたのも,その力の強大さゆえ。これらが仮に徒党を組んで,国に反旗を翻したならば,あるいは敵国に吸収されようものなら,わが国は自らの技術でその寿命を縮めることになる。
バルガスは可能性を考えました。もしかしたらこの男は,だれかを嵌めようとしたのではないか。一体誰を? まさかとは思うが,自分を裏切るつもりであったのではないか。
バルガスは恐る恐る、死体の傍らに跪きました。彼は「帳簿」の不備を見つけるように、男の死体を検分し始めます。
(……ん? 傷が二箇所ありますね)
最初に目を引いたのは、男の背中に刻まれた深々とした裂傷でした。
それは肋骨を容易に断ち切り、正確に心臓を貫いています。
人間業とは思えぬほどの怪力と精度――おそらく、彼女が『召喚』した何かが、主の背後から一撃で致命傷を与えたのだろう、と推察しました。
しかし、バルガスがより注目したのは、首筋に刻まれたもう一つの傷でした。
そこには、小さなナイフで何度も突き立てたような、浅く、不器用な刺し傷が残っていました。
背中の傷に比べればあまりに稚拙で、力も足りていません。
喉元を狙ったその傷跡からは、兵器としての効率ではなく、もっと泥臭く個人的な、この少女自身の「明確な殺意」が滲み出していました。
(ふむ。なるほど。少なくとも,バルトロメは飼い犬に手を噛まれた、といったところでしょうか)
バルガスは死体から離れ,部屋のソファで眠りこける少女に目を落としました。
暗殺者のプロであれば、仕事の後に現場で眠るなどという、自害に等しい真似は絶対にしません。バルガスは,自身の勘違いを悟りました。
(暗殺者ですらない。これは……言うなればただの『壊れた道具』といったところでしょうか。バルトロメが彼女に何をしていたのか,彼女を使って何をしようとしていたのかは,現状推し量れませんが,まぁよろしいでしょう)
血の臭いが立ち込める廊下で、バルガスは何をすべきかを改めて考えました。先ほどの動揺が嘘のようになりを潜め,もはや冷静さを取り戻した彼は,普段の狡猾な簒奪者そのものです。
「ひとまず,室内を改めましょうか。彼の戸棚から,不正の証拠が見つかるようなヘマは致しませんが,念のため。物色した痕跡がなければ,枕も高くして眠れるというもの」
不正を犯すバルガスは,同様に不正を見抜くことに長けていました。
微妙な違和感や,わずかな変化,人情の機微読み取る才能に関して言えば,恐らく世界で右に出るものはいないと自負するほどに。
それは生まれながらに備えた特性でもあり,職掌により鍛えられた才能でもありました。
(そして,身代わりを見つける必要も,どうやらなさそうですし)
目の前で眠る、正体不明の「血塗れの空っぽ」。
名前も過去も持たぬこの凶器を、戸籍の上でも、記憶の上でも、バルトロメの娘,グランツ家の跡取り娘として仕立て上げるなど動作もないこと。
翌朝彼女が目覚めたときは,文字通り彼女の世界は一変するでしょう。
バルガスは行動を開始しました。




