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1-2腐敗の毒、あるいは救いの手

 主人の遺体から流れ出した血は、部屋の絨毯を重く湿らせ、ドアの下を抜けて廊下へと染み出していきました。

 リゼッタは立ち上がり、ゆっくりと廊下へ出ました。背後には、ゆらりと揺れる小さな影――「私」が、楽しそうにリゼッタの影を踏みながらついてきます。

 向かった先は、使用人たちの寝所でした。  扉を開けると、数人の下男たちが雑魚寝しています。彼らはリゼッタが主人に折檻されるたび、物陰から卑しい視線を向け、自分の番を虎視眈々と待っていた者たちです。時には主人の見ていないところで、彼女を「おもちゃ」のように嬲って楽しんでいました。

 

 リゼッタが部屋の真ん中に立つと、その気配を察してか、一人の男が目を覚ましました。男は気怠げに頭をかき、不機嫌を隠そうともせず、来訪者をしかめっ面で眺めました。 「あぁ? どちら様で……なんだ、リゼッタか。何してやがる。へへっ、なんだ? まさか遊んでほしいのか?」

 

 男はいつものように、ねっとりとした視線を送ると、鼻の下にあるケツの穴――その下品な口を歪めて下卑た笑い声を上げました。しかし、少女が何の反応も見せないことに苛立ちを覚えたのか、足元に転がっていた空瓶をリゼッタに向かって投げつけました。

 

 かつてなら、リゼッタはただ目を閉じ、衝撃が過ぎ去るのを待っていたでしょう。けれど、今は違いました。

 瓶が彼女の額に届くより早く、闇から伸びた黒い手がそれを空中で捕らえ、そのまま音もなく闇の中へと引きずり込んでしまったのです。

 

「え……?」

 

 男は、目の前の出来事が理解できない様子でした。無様にもキョロキョロと少女の周囲を見回し、ぶつけたはずの瓶がどこへ消えたのか、破片でも落ちていないかと探し始めました。その様子があまりに滑稽で、リゼッタは思わず「くすくす」と笑い出してしまいました。

 

 この瞬間、男もようやく異変を察知しました。何をしても、どんなに痛みつけても反応一つ返さなかった、言葉通りの『おもちゃ』が、年頃の少女のような無邪気な笑顔を見せたのです。もしこれが花咲く草原での出来事であれば、その微笑ましさに思わず笑みがこぼれたかもしれません。しかし、少女の肢体には赤黒い液体がべっとりと付着し、その手には同様に血を滴らせる短剣が握られていたのです。

 

「お前……何をしたんだ……?」

 

「そうね。……すべきことをするつもり。手を貸してくださるのよね?」

 

 男には要領の得ない返答でしたが、それは彼に向けられた言葉ではありませんでした。中空を見つめる彼女の瞳はうつろで、まるで何もない空間にいる「誰か」と愛を囁き合っているかのようでした。

 

(ついに気が狂ったか)

 

 男はそう判断しました。そして、彼女がしでかしたであろう「事」を想像し、即座に損得を弾き出します。  

 旦那様は、おそらく寝込みを襲われて死んだ。だが、このガキを捕らえれば謝礼が出る。少なくとも退職金代わりに、次の雇用先くらいは見繕ってもらえるだろう。

 

 男の頭は冷徹に切り替わりました。少女の武器は無骨なナイフ一本。これが筋骨隆々とした男の手にあれば脅威ですが、持っているのは空腹と虐待で死にかけている小娘です。押し倒せば終わりだ――その侮りは、彼にとってはあまりに当然の思考でした。

 

 男が捕縛のために身構えるのを見て、リゼッタは笑うのをやめました。

 それが合図であるかのように、彼女の瞳には、深く、暗い、復讐の灯火が宿りました。

 

 男が床を蹴り、その大きな体躯でリゼッタを組み伏せようと飛びかかりました。

 しかし、男の指先が彼女の衣類に触れる直前。リゼッタは、ふい、と、まるで見当違いの方向に首を傾けました。

「ふふ……いけませんよ。そんなに焦らなくても、逃げたりはいたしません。……この方の『足』、あなたが欲しがっていたものですよね?」

 何もない空間に向かって、うっとりと囁く少女。

 次の瞬間、男の体は空中で不自然に静止しました。見えない何かが、彼の四肢を獲物を捕らえた蜘蛛のように、強固に、そして無慈悲に固定したのです。

「がっ……あ……え……?」

 空中に縫い付けられた男は、ただ恐怖に目を見開くことしかできません。

 リゼッタは、悶絶する男の顔を覗き込みました。その瞳は、やはり彼を見てはいません。彼の背後か、あるいは肩のあたりにいる「何か」を見つめ、慈しむように目を細めています。

 

「ああ、あなたもしてみたいのですか? かまいません、ですが、殺してはだめですよ?」


 不殺の支持は、決して哀れみからくるものではありませんでした。リゼッタが許可を与えた直後、男の足首が、目に見えない巨大な力によってミシミシと嫌な音を立てて逆方向にひし曲げられました。

 

「ぎゃあああああああああ!!!」

 

 寝所に響き渡る絶叫。しかし、リゼッタはその悲鳴を心地よい音楽でも聴くかのように受け流し、血の滴る短剣をゆっくりと、愛おしそうに構えました。

 

「あらら大きな声をだしてしまって。いけませんね。教えてくださいましたよね? ご近所迷惑だって」

 

 リゼッタがぼそぼそと指示をだすと「闇」は男の口に触手を伸ばし、猿轡を閉めました。そしてまるでおもちゃ箱をひっくり返す子供のような無邪気さで、男たちの三本目の足を、ねじ切るように、ゆっくりと、ゆっくりと、時間をかけて曲げていきました。

 苦痛にゆがむ男の目には涙がにじみ、リゼッタはその凄惨な光景を、瞬きもせずに見つめていました。

 かつて自分が折られた時の痛み。それを他者が味わい、顔を歪ませ、涙と鼻水に塗れて自分に命乞いをする。その光景は、リゼッタの乾ききった心に、かつてないほどの潤いを与えてくれました。

 

「あなたたちは、こういう気持ちだったのですね」

 

 リゼッタは、空中に固定され、痛みで意識が飛びかけている男の喉元に、そっと刃を添えました。その動作は、まるで大切な贈り物にリボンをかけるかのように、丁寧で、優雅なものでした。

「今まで、たくさん遊んでくださいましたね」

 その言葉を聞いた瞬間、男の脳裏に、自分がこれまでこの少女にしてきた数々の凄惨な光景が、鮮明なフラッシュバックとなって蘇りました。

 指を折り、肌を焼き、生きたまま肉を削ぐ。

 自分たちが「おもちゃ」に対して行ってきた、あの吐き気を催すような愉悦。

 今、逆の立場となって、それらの行為を何十倍、何百倍もの苦痛として、少女は自分に返してくるに違いない。

 

「あ……が、あ……っ」

 

 男の瞳は恐怖に大きく見開かれ、ガチガチと歯の根が合わないほどに震え始めました。これから始まるであろう、終わりのない、地獄のような拷問。

 自分が彼女に味合わせたあの絶望を、今度は自分が余すことなく飲み込まされる。

 男は、かつて少女に向けた自分の下劣な笑みを思い出し、その報いとして訪れる「最悪の未来」に、魂が削れるほどの恐怖を抱き、涙と鼻水に塗れて許しを乞うように喉を鳴らしました。

 そんな男の無様な姿を見ていたリゼッタは、腹の底から燃え上がるような熱い何かを感じました。その情念に身を任せたくなる衝動を抑えつつ、彼が何を想像し、何を恐れているのか、その全てを理解した上で――彼女は、意地の悪い好奇心を瞳に宿し、小悪魔のように首を傾げました。

 

「ふふ、安心してください。私には、あなた方のような下劣な趣味はございません」

 

 彼女は、まるで主人の機嫌を伺う従順な奴隷だった頃と同じ、混じりけのない微笑みを浮かべました。

 そして――一切の迷いなく、その刃を深く、深く、男の喉の奥へと突き立てました。

 溢れ出した鮮血が、リゼッタの白い頬をさらに赤く染め上げます。

 男の体が最後の一震いを見せて、だらりと垂れ下がりました。

 

「ふふ、綺麗になりましたね。……次は、どなたになさいますか?」

 

 彼女の問いかけに、言葉で答える者は誰もいません。

 代わりに聞こえるのは、荒々しい息遣いと、恐怖に引きつった嗚咽のみ。

 先ほどの男が上げた凄まじい断末魔と、関節の弾ける不吉な音は、狭い寝所にいた全員をとうに叩き起こしていました。

 暗がりのあちこちで、ひきつったような荒い呼吸と、歯の根が合わないガタガタという震えが響いています。毛布を被り、あるいは壁際に追い詰められ、下男たちは皆、見開いた目でこちらを見ていました。自分たちが『おもちゃ』として虐げていた少女が、血の海の中で「見えない何か」と睦まじく語らっている異様な光景を、ただ絶望の中で見守るしかなかったのです。

 絶命した男から短剣を引き抜くと、どっと重い疲労がリゼッタを襲いました。

 返り血を浴びた顔は熱く、けれど指先は凍るように冷たい。日にふたり。自分の手で他者の命を断つ感触は、思っていたよりもずっと重く、彼女の細い腕を痺れさせていました。

 

「ふふ、綺麗になりましたね。……次は、どなたになさいますか?」

 

 リゼッタは、ガタガタと震えながら部屋の隅へ這いずる他の男たちへ、事務的な、それでいて温和な視線を向けました。 しかし、彼女の瞳に宿っていた暗い熱は、先ほどのトドメの一撃で、すでに凪いでいました。

 

「……ええ、まぁそのつもりでしたが、正直、一回で十分かもしれませんわ。ちょっと、疲れました」

 

 リゼッタは小さく息を吐き、血に濡れた短剣を床に落としました。カラン、と乾いた音が寝所に響きます。

 彼女にとっての加虐は、これまで奪われてきた自分を取り戻すための儀式でした。

 二人をその手で直接「掃除」したことで、彼女の心を満たしていたどす黒い渇きは、ひとまずの充足を得たのです。

 

 もはや、自分の手を汚してまで、彼らの悲鳴を間近で聞き続ける熱意はありません。

 

「あとは……そうですね。ささっと、済ませてくださいますか?」

 

 リゼッタは、何もない空間に向かって、おやすみなさいの挨拶でもするかのように優しく告げました。

 見えない何かが、リゼッタの疲れを癒すかのように背中を撫でた気がしました。

 直後、リゼッタの影が生き物のように膨れ上がり、部屋全体を飲み込むほどに広がりました。

 

「ひっ、ああ……あがっ……!!」

 

 男たちが何かを叫ぶ暇も、抵抗する暇もありませんでした。

 リゼッタが部屋の入り口へと背を向け、優雅に歩き出したのと同時に、影から伸びた無数の手が男たちの喉を、胸を、一瞬で刈り取っていきました。

 

 背後で聞こえる物音は、もはや「音楽」ですらなく、ただの作業音に過ぎません。  リゼッタは一度も振り返ることなく、廊下へと出ました。

 

「お疲れ様。……帰りましょうか」

 

 窓から差し込み始めた薄暗い黎明の光。

 どこへ寝ようか。ひとまずいつもの部屋に戻るとしよう。

 そこに映し出された少女の背中は、復讐を終えた安堵と、自分を愛してくれる「影」への信頼に満ちていました。


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