1-1燃え滓の少女と、血塗られた名前
平民と奴隷の別は,元を辿れば戦争の勝ち負けなのかもしれませんが,時代を経るごとに身分は定着し,おおむね生まれの別により区別されます。
奴隷の中でも特別なのが『召喚奴隷』と呼ばれる存在で、それらは本来『国策』によって国に作られた、いわゆる人造魔導士――一応は兵士とされておりますが,戸籍はなく,もっぱら『兵器』としての利用が想定されておりました。
しかし悲劇があるとすれば,国家の技術力が極みに至っていたこと,そして人間の尊厳を守るといった人倫の道という意識よりも,兵器としての『使う』ことの有用性が重視されていたことでしょうか。彼らはその力の強大さゆえに『製造』が中止され,一部は処理され,一部は民間に払い下げられて奴隷として売られることになりました。
奴隷市場の片隅に,少女が売られていました。
彼女の名前はリゼッタ。14歳になったばかりの、小柄な少女です。
彼女の背には、『召喚士』の証である複雑な幾何学模様の召喚印と、奴隷の証である『隷属の呪印』が重ねて刻まれていましたが、本来光輝くはずの召喚印が、他の召喚奴隷たちのように美しい光を放つことはありませんでした。
常に煤けたような鈍い黒色をしていたため、彼女は市場では、名前ではなく「燃え滓」と呼ばれていました。
魔力の流れが不安定で、期待された力の発現が見られなかったためです。
リゼッタを買ったマスターは、言ってしまえば詐欺の被害者でした。
掘り出し物、として売られていた彼女を安く買い叩いたまではよかったのですが,期待した能力は持ち合わせておらず,彼からすれば,リンゴと印字された箱に重しが入っていただけのようなもの。
その後、使い物にならないと見るや,一通りの乱暴を加え,後はほとんど食事も与えず、ただの雑用係として扱いました。
彼からすれば,高い金を出して買った商品が欠陥品だったのです。ろくに確認もせず,比較的「やすい」という理由で買ってしまった自身の浅はかさを憤り「それ」に対して発散したのです。
殺しかけたところでその手を止めたのは,一縷の良心ゆえではありません。
自分の浅はかさの証拠である『負債』を、己の手で処分してしまえば、安物の買い物とはいえ、資産を掠め取られたという屈辱が残るだけでした。
その虚栄心と吝嗇が、彼女の命を辛うじて繋いだのです。
ただ,だからと言ってその苛立ちを捨てきることはできず,粗末なプライドを守るために,彼はリゼッタを,八つ当たり的に虐待したのでした。
リゼッタは、痛みに慣れていました。叩かれ、蹴られ、罵倒される度に、彼女の心はひび割れていきましたが、同時に、何も感じない場所を内側に作り上げていました。
彼女にとって、マスターの暴力は、天気や空腹と同じように、ただ耐え忍ぶべき『日常の事象』でしかありませんでした。
感情は、すぐに消えてしまう火花のようなもの。
恨みも、悲しみも、希望も、すべては生きるための重荷にしかならないと、たった十歳の少女は知っていました。彼女が持つ唯一の感情は、『無』。そして、底なしの胃袋を満たすためだけの、動物的な『空腹』だけでした。
彼女の人生は、この薄暗い邸宅の中、汚れた床の上で、ただ次の食事を待つだけの、冷たい時間で構成されていました。召喚奴隷として期待された『力』を持たない自分は、生きていても死んでいても大差ない。そう、リゼッタは理解していました。
しかしこの,いつまで続くともわからない暗黒の生活は,ある日突然終わりを告げました。
それは、月明かりすら凍りつくような、寒い冬の夜のことです。
屋敷の中は、死んだように静まり返っていました。
暖炉の薪を惜しむ主人の言いつけで、部屋の空気は冷たく淀み、リゼッタの吐く息だけが白く濁っては消えていきます。
彼女はいつものように、主人の執務室の隅で、直立不動のまま待機していました。
主人はと言えば、机に積み上げた帳簿と睨み合いながら、不機嫌そうに貧乏ゆすりを繰り返しています。
おそらくは、どこかの取引で損をしたのでしょう。
その苛立ちが、いつ自分に向けられるかと、リゼッタが身を強張らせた、その時です。
ふ、と。
部屋の蝋燭の火が、風もないのに揺らぎました。
主人が顔を上げ、「誰だ」と問う暇もありませんでした。
窓ガラスが音もなく弾け飛び、闇そのものを切り取ったかのような影が、部屋の中へと滑り込んできたのです。
そこから先は、リゼッタの理解を超える速度で事態が進行しました。
銀色の閃光が走り、何かがドサリと濡れた音を立てて崩れ落ちる。
それが、つい先刻まで自分の生殺与奪の権を握っていた主人の成れの果てだと気づくのに、リゼッタは数秒の時間を要しました。
倒れた主人は、しかし、まだ息がありました。背後から切り付けられ,背中から噴き出した血流が、どくどくと不気味な脈動を伴って床に血だまりを広げます。
彼は、まるで泥の中でもがく虫のように、リゼッタの足元へ、血と埃に塗れて這い寄ってきました。パクパクと、何かを懇願するかのように口が動いていますが、声は出ません。
ただ、その濁った瞳だけが、恐怖と、まだ消えきらない傲慢さを混ぜた奇妙な光を放ち、少女を見上げました。
リゼッタはそれから目を離せずにいました。驚いた、ことは確かなのですが、それよりもなにより、それを見ていたくて、目が離せなかったのです。まるで岸辺に打ち上げられた魚のようで、ちょっと岸辺に転がせば息絶えてしまいそうなほど脆弱なそれに、言ってしまえば、目を奪われていたのです。
その無様なマスターの姿を見ていると、胸の奥に何かこみ上げてくるものがありました。
その正体はわかりません。
しかし身体の芯の中から熱くなり、その熱が背中に集まっていく感覚は、確かにありました。
ふと。
視界の隅に、黒い影をとらえました。
その瞬間、リゼッタは我に返り、そうだ、と思い出しました。
人間の身体が、何もなく突然切れて、血を吹き出すなんてことはあり得ないのです。
当然ながらそれをなしたものが、必ずその場にいるはずなのです。
部屋の明かりに照らされて、その漆黒の輪郭が徐々にはっきりとしてきました。
頭からつま先まで統一された装束は、彼の目的を端的に示すかのように闇そのものでした。
骨格から性別はおそらく男性でしょうが、小柄な体躯は、見ようによっては少年のようにも思えました。
暗殺者は少女の前でしゃがみ込むと、主人にとどめを刺す…のかと思いきや、傷口を迅速に縛り、猿轡をつけ、よどみのない動作で拘束していきました。その手際の良さは、彼がこの種の作業に慣れていることを示しています。
リゼッタは、まるで自分が空間から切り取られ、見えていないのかと錯覚しました。それほどまでに男の動作は冷徹でよどみがなく、彼女を完全に無視していたのです。しかしその来訪者は,当然ながらリゼッタが見えていないわけではありません。
単なる,優先順位の問題なのです。
もしもリゼッタが,大声をあげて逃げ出そうものなら,先に始末したことでしょう。
しかしそうはならず,殺された主人を眺めて呆然自失,静かにおとなしくしているのであれば,後回しにする,それだけの話だったのです。
だから,ある程度ことが済んだなら,当然次はリゼッタの番。
「……さてと,依頼は彼だけだから」
暗殺者は舌打ちをしました。
それが癖なのでしょう。
血濡れの凶器を無造作に、リゼッタの方へと向けました。
「君はいらない」
男の手から、魔術的な光が奔ります。
ああここで死ぬんだ。
リゼッタは、その光を見て確信しました。
死ぬことには、別段なんの感情も湧きはしません。
ここで命が終わるからといって、その意味するところは何の価値もなかった自分の人生が終わるだけで、それ以上の意味はなく、むしろこれで1人の少女が救われるのかもしれないとか、まるで他人事のように自分の死を客観視していました。
しかしそうした、自分の生死とは別に、矛盾するかもしれませんが、リゼッタの胸の内には、まだ死にたくないという感情が、いざ死に直面して生じていました。
(ああでも,なんでだろう,まだ死にたくない、かも。)
ちらりと視線が、暗殺者を離れ、まだピクピクと蠢いているそれに向けられました。
それを視界に入れた時に、リゼッタは自分の気持ちを理解しました。
生死なんてどうでもいい、そう考えていた自分が、どうして今死にたくないなんて思ってしまったのか、その理由。
やりたいことがある。
そう直感した瞬間、リゼッタの背中に激痛が走りました。
それは、骨を内側から焼き焦がすかのような、耐え難い熱さでした。
痛みには慣れている。削がれ,傷つき,抉られ,肉体的な痛みには,すでに感情も伴わなくなったはず──しかしこの痛みは,まるで自分の内側から湧き上がるような,魂そのものを引き裂かれるような、根源的な苦悶でした。
それは皮膚や筋肉の痛みではありません。
長らく、底知れぬ無力感とともに溜め込まれていた『魔力』という名の毒が、一気に堰を切って溢れ出すかのような感覚です。
幼い頃から『失敗作』とされてきた自身の身体が、突如として強大な、制御不能な『力』の奔流と化す。
その変化に、リゼッタの意識は引きずり込まれかけました。
煤けた黒色だったはずの『隷属の呪印』が、心臓の鼓動に合わせてドクン、ドクンと不規則に脈打ち、その幾何学模様の線が溶け出すかのように鮮やかに発光し始めます。かつてないほどの熱を帯びたそれは、夜空の月光さえも飲み込むような、禍々しい真紅の輝きでした。
暗殺者が一瞬、その異常な光に目を奪われた、その刹那――。
光の中心が粘質な液体のように歪み、部屋の空気そのものが圧迫されるような重い音が響き渡りました。
そして、光の裂け目から、この世のものとは思えない、巨大で、悍ましい『何か』が召喚されたのです。
それは、輪郭を定めようとしても捉えきれない不定形の闇でした。
しかし、その闇の表面には、まるで生き物のように蠢く無数の刃や棘、そして鎖が形成され、まさに地獄の処刑器具を具現化したようでした。
暗殺者は、その異様な存在を前に、咄嗟に後ずさり、驚愕に満ちた声を上げようとしました。ですが、その悲鳴は喉の奥で押し潰され、音となることはありませんでした。召喚された『闇』は、意思を持つかのように高速で伸び、暗殺者を一瞬にして包み込みました。
闇の中で肉と骨が軋む、嫌な音が短く二度響き、すぐに静寂が訪れます。
『闇』が収束し、呪印の熱が引いた後、その場所には、暗殺者の衣装の切れ端と、無惨に引き裂かれた肉塊だけが残されました。
静寂が戻った部屋には、リゼッタと、瀕死の重傷を負って喘ぐ拘束されたマスターだけが残されました。
マスターは血反吐を吐きながら、震える手でリゼッタに救いを,その目で訴えました。
(た……助け、ろ……。医者を、呼んでくれ……)
リゼッタは、その姿を見下ろしました。
不思議でした。
あれほど恐ろしかった男が、今は床を這いずる虫にしか思えません。
彼女の胸の奥で、カチリ、と何かが外れる音がしました。
湧き上がってきたのは、恐怖ではなく,そしてもちろん,同情なんかでは決してありません。
それは、暗く、甘美な、愉悦でした。
「……あ」
リゼッタの唇から、言葉以前の吐息が漏れます。
リゼッタはゆっくりと、マスターの目の前にしゃがみ込みました。
眺めていると,ポケットの中にきらりと輝くものをみつけました。
それは彼が、最も大切にしていた宝物――取引で珍しく上機嫌だった彼が、リゼッタに向けて得意げに語った思い出の品、曰く、自分が初めての大きな利益を上げたときに買った、その懐中時計━━それを、リゼッタは血だまりの中から拾い上げました。
時計の金色の縁は、主人の血でべっとりと濡れています。
リゼッタはそれを、まるで汚れた小石でも持っているかのように、何の感慨もなく、凝視しました。
そして、次の瞬間、彼女の顔に浮かんだのは、十年の人生で誰も見たことのない、完全に調和を失った、子どものような無邪気な笑みでした。
彼女はためらいもなく、その大切な『成功の証』を、憎き主人の顔へ、粉々に砕けることだけを願って、全力で投げつけました。
パリン、と時計のガラスが砕ける乾いた音と、それと同時に、豚の鳴き声のような低い唸り声が部屋に響きました。
時計は狙い通り内部機構が弾け飛び、痛み故か、男の瞳は涙で滲んでいました。
「あ……」
絶望に歪む男の顔を見て、リゼッタは生まれてから一度も経験したことのない感情に満たされていました。
ふと、思いついたことがありました。
リゼッタは、先程の暗殺者が落とした短剣を拾うと、それを軽く振ってみました。
使い方はわかりませんが、芸術的な程に美しく輝くその切っ先をみる限り、その切れ味は保証それていると思いました。
無機質に笑う少女が、短剣を眺めているのです。
この男は、果たして何を思うのでしょうか。
「いま、何を考えていると思いますか? 主様」
リゼッタは、血だまりの中に膝立ちになり、マスターの喉元に、短剣を押し当てました。冷たい金属の感触に、マスターの目が大きく見開かれます。
彼女の耳元で、背後の『闇』が、粘着質で甘い、囁きのような音を立てました。
その囁きは、リゼッタの心に潜んでいた、最も邪悪で、最も願望に満ちた部分そのものでした。リゼッタは『闇』を拒絶しませんでした。むしろ、暖かな毛布のように、その甘い誘惑を受け入れました。
「あはっ」
リゼッタは年頃の少女のように笑うと、その刃を、無感動に、かつてないほどの力を込めて引き切りました。
どさり、と倒れる音。
いとも容易く、他人の命を奪う感覚。
全身がぶるりと震え、全身の毛が逆立つような興奮を覚えました。
暴力というものは、こんなにも魅力的であるのか。この男が、嬉々として私を殴ってきた理由が、今は理解できてしまう━━。
彼女の背後では、召喚された『闇』が静かに揺らめいていました。その異形の存在は、先ほど暗殺者を屠った時のような奔流ではなく、今は彼女の体温を映すかのように、熱を帯びた赤黒い影となって、リゼッタの全身に絡みついています。
それは、リゼッタの心の最も深い闇と共鳴しているようでした。
「これも、消してくださるのかしら?」
リゼッタは、傍らに佇む『闇』に向かって、その掠れた声で囁きました。
それは、かつてマスターが自分に浴びせた言葉と、全く同じ響きでした。
そして、彼女の内に芽生えた『愉悦』に呼応するように、『闇』もまた、低く甘い、まるで主人の命令を待つ忠実な獣のような唸りを返したのです。
この夜、奴隷であった少女のリゼッタは、全ての鎖を断ち切る『力』と、それを支配する新たな『鎖』を手に入れました。
その歪んだ笑みこそが、彼女と異形の『何か』との、真の契約の始まりでした。
部屋を出る去り際に、リゼッタは室内を一瞥しました。
先ほどまでの熱狂が嘘のように、冷たい夜気が部屋を支配します。
リゼッタは返り血を浴びた顔を拭いもせず、ただ、自分の内側に起きた決定的な変化を受け入れました。
これまで、彼女は『失敗作』と呼ばれてきました。
召喚士としての素養を測る儀式で、彼女の精神はいつだって「空っぽ」だったからです。色もなく、形もなく、呼び出すべき「自分自身」が欠落した、虚無の器。
けれど、今、その虚無は消えていました。
足元で無様に、滑稽に、命を乞いながら果てた男の姿。それを眺めた瞬間に芽生えた、言葉にできないほど甘美な『加虐心』。その真っ赤な感情が、空っぽだった器に注ぎ込まれ、溢れ出し――。
リゼッタの背後で、ゆらりと影が立ち上がりました。
それは不定形の闇でありながら、どこかリゼッタの面影を残した、小さく愛らしい『娘』のような形を成していました。闇の娘は、血だまりの中に座り込むリゼッタの首筋に、冷たく、けれどこの上なく愛おしそうに腕を回します。
リゼッタの邪悪な部分を糧に生まれたその存在は、リゼッタを守る強固な保護者でありながら、同時に、彼女に褒められることを切望する従順な娘でもありました。
リゼッタは、自分の内側から溢れ出た『闇』を、愛おしそうに抱きしめました。
それは自分自身の残虐性を、そのまま受け入れる儀式でもありました。
血の海の中で、リゼッタは生まれたての乳飲み子をあやすように、優しく、狂おしく微笑みます。
初めて満たされた空っぽの器は、今や純黒の悦楽でなみなみと満たされていました。




