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3-3反撃ののろし

 数ヶ月ぶりに踏む聖都への道は、かつて馬車で通り過ぎた時とは全く異なる手触りでした。


 リゼッタの身を包んでいるのは、もはや最高級の黒いシルクではありません。


 カイトから譲り受けた、焚き火の匂いが染み付いた古びた外套。


 その下には、自ら仕留めた獲物の皮や粗末な麻布を継ぎ接ぎした、野性味溢れる服を纏っています。


 泥にまみれたブーツはカイトと共に山を歩き回った証であり、かつての白く柔らかな肌は、日に焼け、数多の擦り傷が刻まれた「生きるための体」へと変わっていました。


 しかし、その粗末な外套の胸元、最も心臓に近い場所には、あのアンナの白いエプロンが大切に仕舞い込まれていました。


 リゼッタはフードを深く被り、検問所の脇を通り抜けて街へと入りました。


 視界に飛び込んできたのは、かつての物流の要衝としての活気ではなく、冷たく乾いた「鉄の静寂」でした。


 街の通りには、等間隔で漆黒の甲冑に身を包んだ兵士たちが立ち並んでいます。


 その兵士たちのうなじには、リゼッタと同じ「召喚印」が刻まれていました。


 かつて彼女が『慈恵院』で保護した孤児たちは、いまやバルガスの手によって、感情を去勢された「人造魔導士の軍勢」へと作り変えられていたのです。


 バルガスがこの街を軍事国家へと変貌させた理由は、極めて明確でした。


 彼はリゼッタという象徴を「国家を滅ぼそうとした大罪人」として仕立て上げることで、国民の間に「未知の脅威(魔女)」への恐怖を植え付けました。


 そして、その魔女から国を守る唯一の盾として、人造魔導士による圧倒的な武力を誇示したのです。


 彼の目指すものは、もはや一役人の地位ではありません。


 バルガスが渇望したのは、「完璧に管理された暴力」による絶対的な統治でした。


 物流という「動脈」を握り、魔導士という「牙」を揃え、恐怖という「鎖」で民を縛る。


 そうして、王族さえも意のままに操る国家元首としての座に、彼は王手をかけようとしていたのです。


 リゼッタは、以前よりも鋭くなった感覚で、街の至る所に満ちている怨嗟と諦めの気配を読み取っていました。


 彼女は群衆に紛れ、王宮前の広場へと向かいました。


 そこでは、いよいよバルガスが自らの権威を全土に知らしめるための、傲慢な演説が始まろうとしていました。


 聖都の中央広場を埋め尽くしていたのは、民衆の歓喜ではなく、重苦しい静寂と鉄の匂いでした。


 かつてリゼッタが「聖女」として馬車で通り抜けた大通りには、今や漆黒の甲冑に身を包んだ兵士たちが等間隔で並び、通行人を冷徹な眼差しで検閲しています。


 その兵士たちのうなじには、一様にあの忌まわしい「召喚印」が刻まれていました。


 リゼッタはカイトから譲り受けた古びた外套のフードを深く被り、群衆の影に紛れて王宮のバルコニーを仰ぎ見ました。


 バルコニーには、やつれ果て、魂が抜けたような老王が立たされていました。


 その隣で、いかにも悲痛な面持ちを装いながら王の肩を抱いているのは、バルガスです。


 彼は今や、偽りの令嬢から国を救い、真の後継者を守り抜いた「救国の英雄」として、事実上の最高権力者の座に就いていました。



「……国民諸君。悲しむべき報告をせねばならない」



 魔導具によって増幅されたバルガスの声が、広場全体に響き渡りました。



「我らが王は、先の魔女リゼッタによる呪詛と心労により、もはや国政を執ることは叶わぬ身となられた。王は自らの意思で退位を望まれ、正当なる継承者が成人されるまでの間、この私、バルガスに国政の全権を託すと宣言されたのだ!」



 バルガスの言葉に合わせるように、王宮を包囲していた「人造魔導士」の軍団が一斉に槍の石突を地面に打ち鳴らしました。


 地響きのような音が民衆を威圧します。彼らはかつてリゼッタが『慈恵院』で慈しんだ子供たちであり、今はバルガスによって完璧に統制された「牙」へと作り変えられた少年兵たちでした。


 リゼッタは、最前列に並ぶ一人の少年の姿に息を呑みました。


 かつてアンナが「レオ」と名付けた少年です。彼の瞳からはかつての輝きが消え、ただバルガスの命令だけを待つ、精巧な機械のような冷たさが宿っていました。



(見ているか、リゼッタ。おまえが残した『牙』が、今や私の王座を支える柱となった)



 バルガスの声は、表面上は慈悲深く響いていましたが、リゼッタにはその裏に潜む醜悪な嘲笑がはっきりと聞こえるようでした。


 彼はリゼッタへの信仰心を「精神の鎖」として利用し、子供たちの魔力を安定させていたのです。


 民衆は怯え、顔を伏せ、強制された沈黙の中で新しい元首の誕生を受け入れようとしていました。


 リゼッタは外套の下で、カイトから譲り受けた古いナイフの柄を強く握りしめました。



(……バルガスさん。あなたはあの子たちを、また『燃え滓』に戻したのね)



 かつての彼女なら、その場で闇を召喚し、憎悪のままにすべてを焼き尽くしていたでしょう。


 しかし、今のリゼッタを突き動かしているのは、加虐心ではなく、胸の内で静かに脈動する「責任」でした。


 自分の傲慢が生み出した怪物。


 それを終わらせ、あの子たちの名前と人生を取り戻す。



 リゼッタはバルコニーで凱歌を上げるバルガスから視線を外すと、喧騒の中に消えていきました。


 聖都の片隅、かつての栄華が嘘のように荒廃した下町の長屋に、カッセル元子爵は身を潜めていました。


 リゼッタによって「公金横領」の濡れ衣を着せられ、領地も名誉も奪われた彼は、今や酒浸りの隠居を装いながら、バルガスの暴政に耐える領民たちの噂を聞くことしかできない、牙を抜かれた獅子のようでした。


 すすけた扉を押し開け、フードを深く被ったリゼッタが足を踏み入れると、部屋の奥から鋭い声が響きました。



「……何の用だ。恵んでやる金など一銭もないぞ」


「カッセル様。お久しぶりです」


 リゼッタがフードを脱ぐと、カッセルは弾かれたように立ち上がりました。その目は驚愕に、次いで煮えくり返るような怒りに染まりました。



「貴様……リゼッタ・ゼ・グランツ……! よくも、よくも私の前につらを出せたものだ!」


 カッセルは机を叩き、激しく詰め寄りました。


「いえ、今はただのリゼッタです」


「……そうだったな。貴様もあの男に、すべてを奪われた『燃え滓』だったか」


 カッセルは毒を吐き捨てるように言い、握った拳を震わせながら彼女の姿をまじまじと見つめました。


 かつて公聴会の壇上で自分を冷たく見下していた、あの傲慢な「聖女」の面影はどこにもありません。


 泥に汚れ、毛皮の端切れを纏い、それでも折れぬ意志を宿したその瞳は、皮肉にも彼がかつて守ろうとした「地を這う民」のものと同じ輝きを放っていました。



「貴様が私を陥れたせいで、私の領民はどうなったか知っているか!  物流の拠点は軍事基地に変えられ、子供たちは兵器として徴用された。貴様という魔女がバルガスと手を組んだ結果、この国は地獄になったのだ! 私の名誉などどうでもいい。だが、私が愛した民たちの平穏を返せ、この化け物が!」


 怒号と共に、カッセルの拳がリゼッタの頬をかすめました。


 かつての彼女なら、一瞬で影を操り、無礼な男の喉笛を食い破っていたでしょう。


 しかし、今の彼女は微動だにせず、ただ真っ直ぐにカッセルの怒りを受け止めました。



「……おっしゃる通りです、カッセル様。私は、自分の器も見極められぬまま大きな力を振り回し、貴方の人生と、貴方が守り抜こうとした人々の生活を、踏みにじりました」


 リゼッタは、カイトから教わった「身の丈の生き方」を思い出しながら、ゆっくりと、しかし深く頭を下げました。


 その姿には、かつての「聖女」の傲慢さは微塵もありませんでした。


「申し訳ありませんでした。私はバルガスの盤上の駒に過ぎず、その駒であることを悦んでいた愚か者です。貴方の怒りは、死んでも償いきれるものではないと理解しています」


 その言葉を聞いたカッセルは、奥歯を噛み締め、喉元までせり上がった呪詛のような罵言を強引に飲み込みました。


 かつての彼女であれば、どれほど言葉でなぶり、その魂を辱めたとしても、積年の恨みは晴れなかったでしょう。


 しかし、今のリゼッタが纏う空気の変化を、彼はその良識ゆえに敏感に感じ取っていました。


 ここで彼女を罵倒し、過去の罪を詰問して自尊心を満たしたところで、失われた名誉が戻るわけでも、今この瞬間もバルガスの圧政に喘いでいる領民たちが救われるわけでもない。


 私憤を晴らすことよりも、現状を打破する一手を優先すべきであるという理性が、彼の激しい感情を辛うじて繋ぎ止めていたのです。


 彼は、感情に任せて吠えるだけの獣ではなく、最後まで「公僕」としての矜持を捨てきれない、どこまでも真面目で良識ある人間でした。


「……ふん。反吐が出る。貴様の謝罪など、一文の得にもならん」


 カッセルは吐き捨てるように言い、それ以上の罵倒が無意味であることを示すように、リゼッタから視線を外して部屋の隅にある古い地図へと歩み寄りました。


「なぜだ。なぜ、今さら戻ってきた。バルガスの元へ戻り、再び甘い汁を吸えばよかろう」


「貴様のあの力……化け物じみた『闇』があれば、令嬢という仮面を捨ててでも、奴の下で裏の仕事を請け負うことくらい容易かったはずだ。あの男なら、牙として使い物になる貴様を喜んで飼い直しただろう。泥を啜って逃げ回るよりは、よほど贅沢な余生を送れただろうにな」


 カッセルが罵倒したい衝動を抑え、冷徹なまでの現実論を口にしたのは、怒りに任せて彼女を追い出すことよりも、目の前の「元・怪物」が何を考えて戻ってきたのかを冷徹に見極めることが、今の自分にできる唯一の建設的な行動だと、彼は己のプライドを押し殺して理解していました。


「……それとも、今さらその汚れた手で、何を救えると思っているのだ」


 リゼッタは、カッセルのその刺すような視線から逃げることなく、再び静かに口を開きました。



「バルガスさんは、あの子たちを……再び過酷な世界に戻しました。私が与えた牙を、あの子たちの魂を削るために使わせている。それを許すことはできません。私が始めた間違いを、私の手で終わらせに来たのです」



 リゼッタは顔を上げ、カッセルの瞳を射抜きました。


「カッセル様。貴方を救いたいなどとは、虫のいいことは言いません。ですが、バルガスという真の元凶を倒し、物流の要衝とあの子たちを奪還するために、貴方の力が必要です。貴方には、今も貴方を信じる領民たちと、バルガスの不正を暴くための『正当な貴族』としての言葉がある」


 カッセルは長く、重い沈黙の後、吐き捨てるように言いました。


「……貴様を許したわけではない。死ぬまで、貴様を呪い続けてやる」


 カッセルは壁に掛かっていた、古びたが手入れの行き届いた剣を手に取りました。


「だが、あのバルガスという男だけは、私がこの手で引きずり下ろさねば気が済まん。あやつの横暴で、私の領民がこれ以上死ぬのは耐えられんからな。……いいだろう、リゼッタ・ゼ・グランツ⋯⋯いや、リゼッタか。地獄へ行くまでの間だけ、貴様を『牙』として使ってやる」


 カッセルは古い地図の上に、現在の聖都の勢力図を反映させるように、いくつかの黒い駒を荒々しく並べました。その中心には、王宮を象徴する巨大な駒が据えられています。


「……見ての通りだ」


 カッセルは地図を指差し、忌々しげに吐き捨てました。


「今のバルガスは、単なる役人ではない。物流の利権を完全に掌握し、王宮の予算さえも自由に操っている。さらには貴様が残した『人造魔導士』の軍勢という、国軍をも凌駕しかねない暴力装置を私兵化しているのだ」


 リゼッタは、かつて自分が育て、今はバルガスの「牙」となった少年たちの姿を思い出し、胸が締め付けられるような痛みを感じました。


「もはや書類上の不正を突いたところで、あの男は揺るがん。司法も行政も、すでに奴の懐にあるからな。今さら貴様が偽物だと叫んだところで、奴は『魔女の最後の手掻きだ』と笑って切り捨てるだろう」


「……ええ。私もそう思います」


 リゼッタは、カイトから教わった身の丈の感覚で、現実を冷静に見つめました。


「今の彼を倒すには、彼が築き上げた『力』そのものを根底から崩すしかありません」



 カッセルは腕を組み、リゼッタを射抜くような視線を向けました。


「手段は二つに一つだ。一つは、奴の横暴に耐えかねている中堅貴族や民衆を煽り、力ずくで王宮を落とすクーデター。だが、これには大きな欠陥がある。奴が抱える『人造魔導士軍団』だ。奴らを突破しようとすれば、街は血の海になり、犠牲になるのは貴様が守りたかった子供たちと、私の領民たちだ」


 リゼッテは唇を噛みました。レオたちと殺し合うことなど、今の彼女には耐えられません。


「もう一つは、奴と同等以上の『権力』をぶつけることだ。……だが、こちらにしても、私は既に子爵ではなく、お前に至ってはただの犯罪者だ。国王を動かすより他にないが、国王は既にパラガスの傀儡だ。下手をすればバラガス自身が手を下し、すぐさま首を挿げ替えしてしまうだろう」


 リゼッタはしばらく沈黙した後、机の上の地図を見つめながら、静かに、しかし断固とした口調で告げました。


「……いいえ、カッセル様。バルガスさんの『力』には、一点だけ、私にしか突けない致命的な綻びがあります」


「綻びだと?」


「彼は、人造魔導士たちの出力を安定させるために、私への『忠誠心』を精神の鎖として利用しています。彼らは、私が『救済の女神』であると信じているからこそ、暴走せずにその力を振るえるのです」


 リゼッタはカッセルの目を見つめ返しました。


「もし、その女神が彼らの前に現れ、自分は彼らを騙していた偽物であり、バルガスさんこそが彼らを再び奴隷に落とした張本人であると告げたら……。その瞬間に、彼の最強の軍隊は瓦解します。精神の支柱を失った魔力は制御を失い、その矛先は飼い主であるバルガスさんへ向くでしょう」


 カッセルは目を見開きました。それはバルガスの計略を逆手に取った、あまりにも危険で、しかし唯一現実的な賭けでした。


「……なるほど。貴様という『聖女』を、奴自身の喉笛を食い破る毒に変えるというわけか。だが、それは貴様が民衆の前に姿をさらし、自らの罪をすべて公に認めるということだぞ。極刑は免れんだろう。良くて一生を獄中で過ごすことになるだろう」


「ええ。最初から、そのつもりです」


 リゼッタの迷いのない返答に、カッセルは自嘲気味に笑いました。


「……はは、全く。かつてはあんなに傲慢だった魔女が、今や自らを薪にして火を焚べようとはな。……いいだろう。貴様が『偽りの女神』として奴らの鎖を断ち切る隙を作るため、私はこの街に潜む不満分子と、私の帰還を待つ領民たちをまとめ上げ、外側から王宮を包囲する」


 カッセルは、並べていた黒い駒を一つ、リゼッタの前に差し出しました。


「打ち合わせは終わりだ。作戦は、そうだな、奴が再びの民衆の前に姿を現すであろう日。バルガスが国家元首として国王からの戴冠を受ける日。それが来月に控えている……貴様は、奴が最も輝く瞬間に、その光を奪い取る影になれ」


 リゼッタは力強く頷きました。

 復讐でも、支配でもない。

 自分が生み出した「怪物」を終わらせ、闇を根底から破壊するための、決死の逆転劇が動き出しました。

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