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3-2再起

 数週間が過ぎ、リゼッタの脇腹の傷は、深く赤い痕を残しながらもようやく塞がりました。


 身体の自由が利くようになった彼女に対し、少年は一振りの粗末な弓と数本の矢を無造作に放り投げました。


「ほら。いつまでも寝てねーで、仕事しろ。食うなら動け」


 リゼッタは戸惑いながら弓を拾い上げましたが、その弦の引き方さえ分かりませんでした。


「……使い方が、分かりません。私は、これ(弓)を使って何かを得たことはないの」


「使えねーのかよ。じゃあ、これだ」


 少年は次に、使い込まれた小柄なナイフを差し出しました。


 リゼッタはそれを手に取り、かつて奴隷商人の喉を掻き切った冷たい感触を思い出しましたが、獲物を解体したり、枝を削ったりするために握ったことは一度もありませんでした。


「……これも、まともに扱える自信がないわ」


 少年は深く溜息をつき、頭を掻きました。


「ったく……。いいからついてこい。見てりゃ分かる」


 リゼッタは少年の背中を追い、深く険しい森の中へと足を踏み入れました。


 そこには、バルガスが支配した数字と書類の世界も、リゼッタが君臨した偽りの慈悲も存在しませんでした。


 あるのは、枯葉を踏む音、湿った風の匂い、そして生と死の明確な境界線だけでした。


 少年は川辺で石を積み上げ、魚を追い込む罠を教え、茂みに潜んでイノシシの通り道を観察する方法をリゼッタに叩き込みました。


「息を殺せ。自然の一部になれ。あんたが『人間』でいるうちは、獲物は寄ってこねーぞ」


 泥にまみれ、爪の間に土を詰まらせながら、リゼッタは必死に食らいつきました。


 かつての彼女なら、指先一つで影を操り、森ごと獲物を飲み込むこともできたでしょう。


 けれど、この山で少年に教わる「生き方」には、自分の手足を動かし、知恵を絞ってようやく一食を得るという、ひどく純粋な充足感がありました。


 夕暮れ時、仕留めた小さな獲物を運びながら、リゼッタは以前から抱いていた疑問を口にしました。少年のうなじに刻まれた、自分と同じ召喚奴隷の印を見つめながら。


「……その力を使わないの? あなたは適性がありそうだけど、指を鳴らすだけでイノシシくらい仕留められるはずよ」


 少年の歩みが、ぴたりと止まりました。


 彼は振り返らず、ただうなじを無造作にさすり、吐き捨てるように言いました。


「……んなもん、使う気にならねーよ。それは俺の力じゃねえ。『与えられた』だけの呪いだ」


「呪い……?」


「ああ。……身の丈に合わねえ力は、自分自身を滅ぼすんだよ。……じいちゃんは、俺のその力が暴走して死んだ。俺が制御しきれなかった『デカすぎる力』が、俺の一番大事なもんを壊したんだ」


 少年の声は、どこまでも平坦で、それゆえに重い後悔が滲んでいました。


 彼にとって、召喚印の力は「救い」ではなく、自らの無力さを象徴する「罪」そのものでした。自分の手で握れるナイフ、自分の足で走れる距離、自分が引き絞れる弓の重さ。


そ うした、自分自身で責任を持って扱えるだけの「身の丈の力」でなければ、本当の意味で生きているとは言えない。


 それが、彼が孤独な山生活で辿り着いた哲学でした。

「あんたも、その背中のモンに頼りすぎたから、そんなボロボロになってここまで流されてきたんじゃねーのか?」


 リゼッタは絶句しました。


 バルガスの野心に乗せられ、巨大な権力を振り回し、アンナの心さえも見失った日々。


 あれはまさに、身の丈を超えた力に振り回され、自分自身を焼き尽くしていた時間でした。


「……そうね。私は、自分の器を勘違いしていたのかもしれないわ」


 リゼッタは、懐にある血に汚れたアンナのエプロンをそっと手で確かめました。


 泥と汗にまみれ、獲物の血を浴びた今の姿の方が、あの豪奢な黒いシルクを纏っていた頃よりも、自分が「リゼッタ」という一人の人間に近づいているような気がしたのでした。



 山での暮らしは、リゼッタの魂から「偽りの貴族」の脂を削ぎ落とし、代わりに野性的な強さを刻み込みました。


 数日が過ぎ、彼女は今や一人で渓流の魚を捕らえ、森の奥で小ぶりなイノシシを仕留めるまでに成長していました。


 仕留めた獲物を肩に担ぎ、手足の傷や泥も厭わず山小屋への家路を急いでいた時のことです。


 不意に、背後の茂みから低い声がかけられました。


「止まれ。そのまま動くんじゃねえぞ」


 リゼッタが反射的に身を低くすると、木陰から少年が姿を現しました。彼は鋭い視線を山の下へと向けています。


 少年――カイトは、リゼッタが担いでいる獲物を指差し、さらに声を潜めました。


「小屋に、国の憲兵が来てる。……ちっ、また来たか」


 カイトによれば、かつて彼が施設から逃げ出した直後はよく憲兵が山を捜索していたようですが、ここ数年は足が遠のいていたといいます。


「……どうして今さら、こんな山奥に」


 リゼッタの問いに、カイトは答えませんでした。


 しかし、リゼッタには心当たりがありました。バルガスが自分を「国家転覆の首謀者」として指名手配し、血眼になって追わせているのです。


「……たぶん、私を探しに来たのね」


 二人は息を殺し、深い茂みの中に身を潜めてやり過ごしました。


 ほどなくして、諦めた憲兵たちが山を下りていく軍靴の音が遠ざかっていきます。


 沈黙が流れる中、リゼッタは泥に汚れた自分の手を見つめました。


 カイトが教えてくれた「身の丈の生き方」は、彼女に本当の安らぎを与えてくれました。


 けれど、彼女がここに留まれば、この静かな山小屋もカイトの平穏も、バルガスの野望に焼き尽くされてしまうでしょう。


「カイト……私はもう、ここにいないほうがいいわ」


 リゼッタが静かに告げると、カイトは意外そうに眉を寄せました。


「……別に、ずっといてもいいんだぞ。あんた、狩りも上手くなったし、一人分くらいなら食わせてやれる」


 それは、打算も野心もない、純粋な好意からの誘いでした。


 バルガスが与えた「黄金の檻」よりもずっと温かく、尊い申し出。


 しかし、リゼッタの瞳には、以前のような絶望も空虚もありませんでした。


「ありがとう。でも、行かなければならないの。……私には、まだやり残したことがあるわ」


 リゼッタは、懐に大切にしまっていたアンナの白いエプロンをそっと手で確かめました。


「私の力を、間違った使い方をさせた男がいる。いえ、彼一人の責任とは言わないけれど……でも今、そいつが、私たちと同じような子供たちを、また地獄へ連れ戻そうとしているの。私が始めたことよ。だから、私が終わらせなきゃいけない」


 その言葉には、誰かの命令でも、歪んだ加虐心でもない、


 リゼッタ自身の強い意志が宿っていました。かつて「力」に溺れて大切なものを見失った彼女は、今、自らの過ちを清算するために、再び下界へ戻る決意を固めたのです。


「手助けは必要か」


 カイトの問いは、以前のような突き放すような響きではなく、自分と同じ烙印を背負う者への、静かな共感を含んでいました。


 リゼッタは、腰に差したカイトの古いナイフの柄をそっと撫でました。


 かつての彼女なら、迷わず強力な「兵器」を求めたでしょう。


 しかし、今の彼女は小さく首を振りました。


「いいえ。あなたは、ここで『カイト』として生きて。……これは私の過去が生んだ怪物との戦い。私が自分の手で終わらせなければならないことなの」


 カイトは鼻を鳴らし、それ以上は何も言いませんでした。


 ただ、彼は小屋の奥から、自分が使っていた予備の古い外套と、数日分の干し肉を包んだ布をリゼッタに差し出しました。


「……身の丈に合わねえ力は使うなよ。あんたがそのナイフで届く範囲だけが、あんたが本当に守れる世界だ」


「……ええ。忘れないわ」


 リゼッタはカイトから受け取った外套を羽織り、深くフードを被りました。


 アンナの白いエプロンは、一番肌に近い場所に、彼女の覚悟を支える楔のように仕舞われています。


 リゼッタは一度だけ振り返り、カイトと、その背後にある小さな祭壇に黙礼を捧げました。


 そして、かつて自分が頂点に君臨し、そして全てを失ったあの街――バルガスが今なお醜悪な野望を肥大させている場所へと、迷いのない足取りで下り始めました。


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