3-1再びの目覚め
山を叩く激しい雨音と、建物の隙間を抜ける風の泣き声だけが、古びた小屋の中に響いていました。
人里を離れ、命からがら辿り着いたこの場所は、ひどく埃っぽく、湿った土の匂いが充満しています。
リゼッタは隅に積み上げられた腐りかけの藁の上に身を横たえ、浅い呼吸を繰り返していました。
脇腹の銃創は熱を持ち、心臓の鼓動に合わせて鈍い痛みを刻んでいます。憲兵から逃れる際に闇の力で強引に止血したものの、即席の包帯はすでにどす黒い血に染まっていました。
(……寒い。……あんなに、熱かったのに)
数日前まで、彼女は国の実権を握る「聖女」として、豪奢な屋敷の主でした。しかし今、彼女は主人殺しと国家転覆の罪を着せられた指名手配犯です。
バルガスの完璧な裏切りによって、彼女が築き上げた地位も、富も、そして「救済」という名の大義名分も、すべてが幻のように消え去りました。
リゼッタは震える手で、懐に押し込んでいた白く小さなエプロンを取り出しました。
それは、アンナが別れを告げた際、邸宅の権利書の上に丁寧に畳んで置いていったものです。
燃え盛る屋敷を脱出する間際、彼女が反射的に掴み取ったのは、金貨でも宝石でもなく、持ち主のいなくなったこの布切れだけでした。
泥と返り血で汚れ、ぼろぼろになったエプロンを、リゼッタは顔に押し当てました。そこからはもう、アンナが淹れてくれたお茶の香りも、彼女自身の温もりも、何ひとつ感じられませんでした。
(アンナ……。あなたの言った通りだわ。私は、あの人たちと同じ『怪物』になってしまった……)
自分の正義を証明するために、善良な子爵を地獄へ突き落とし、子供たちを戦う道具に変えた。
その結果、残ったのは自らの命を蝕む傷と、誰にも看取られることのない孤独な死の予感だけでした。
バルガスに利用され、盤上の「燃え滓」として捨てられた今になって、ようやく彼女は理解しました。
自分が手に入れた「牙」は、結局、誰の喉笛を食い破ることもできず、ただ自分自身の心を切り裂いただけだったのだと。
「……ごめんなさい……アンナ……」
意識が混濁する中、リゼッタの目から一筋の涙が零れ落ち、泥だらけの頬を伝いました。
闇を呼び出すための「加虐心」も「傲慢さ」も、今の彼女には欠片も残っていませんでした。
そのまま、深い闇の底へと引きずり込まれるように、リゼッタは意識を手放しました。
血に汚れたエプロンを、壊れ物を抱くように胸に抱いたまま。
霞む視界に映ったのは、荒削りの丸太が組まれた無骨な天井でした。
かつて、主人を殺して行き場をなくした彼女をバルガスが「保護」した、あの日と同じ状況。
バルガスの屋敷で目を覚ました時、彼女の身体は最高級のシルクのシーツに包まれ、部屋には高価な香油の香りが漂っていました。あの時、バルガスは彼女の力を「有益な投資対象」として見定め、慇懃な笑みで彼女を迎え入れたのです。
(……また、私は拾われたの……?)
しかし、漂ってくる匂いは香油ではなく、煮え立つ野草の苦い香りと、獣の脂の匂いでした。
リゼッタが横たえられていたのは、磨き上げられた大理石の寝台ではなく、手作り感に溢れた粗末な木製のベッドでした。
身体の下にあるのは使い古され、あちこちが擦り切れた硬いマット。
身に纏わされていたのは、清潔ではあるものの、何度も継ぎ接ぎされた麻の布でした。
ふと、枕元に視線を向けると、そこには泥と血を落とし、綺麗に畳まれたアンナの白いエプロンが置かれていました。
「お、きがついた」
不意にかけられた声に、リゼッタは僅かに肩を揺らしました。
暖炉の前で鍋をかき混ぜていたのは、十歳にも満たないであろう一人の少年でした。彼の服装は、山で狩ったのであろう動物の毛皮を、お世辞にも上手とは言えない縫い目で繋ぎ合わせた、野性味溢れるものでした。
少年は煤で汚れた顔に人懐っこい笑みを浮かべ、リゼッタの方へと歩み寄ってきました。
バルガスのような「計算された慈悲」も、アンナのような「献身的な憐れみ」もそこにはありません。
ただ、倒れている人間を見つけたから連れ帰ったという、動物的なほどに純粋な厚意だけがそこにありました。
「ひどい傷だったけど、じいちゃんの薬草が効いたみたいだな。あんた、うなされてたぞ」
少年は手製の木皿に盛った温かなスープを差し出しました。
かつて「人造魔導士」という兵器として生み出され、利用価値だけで測られてきたリゼッタにとって、この見返りを求めない素朴な手助けは、凍てついた心を微かに、しかし確かに揺さぶるものでした。
「よくわかんねーけど、その汚い布、なんか大事そうに持ってきたけど、それだけでよかったか?」
少年の無遠慮な言葉に、リゼッタは枕元に置かれたエプロンを、壊れ物を扱うような手つきで引き寄せました。
泥と血に汚れ、かつての純白を失ったその布切れは、今の自分そのもののようでした。
かつてバルガスの屋敷で目覚めたときは、失ったものを数える余裕すらありませんでした。
しかし今は、この「汚れた布」だけが、自分がかつて人間として存在していたことを証明する唯一の欠片に思えたのです。
「……ええ、これだけでよかったの。ありがとう」
掠れた声で礼を言うと、少年は「ふーん」と興味なさそうに鼻を鳴らしました。
少年が火にかけた鍋を覗き込む際、めくれた毛皮の隙間から、彼のうなじに刻まれた「召喚奴隷」の印がリゼッタの瞳に飛び込んできました。
(この子も……私と同じ)
リゼッタは息を呑みました。
身体を拭われ、手当てをされた際に、少年もリゼッタの身体にある同じ印に気づいたのでしょう。
同類を見つけたという驚きも、あるいは同情もなく、ただ「同じ仕様の道具」を拾ったときのような淡々とした空気が少年の周囲には漂っていました。
「……あんた、それ。いつからここに?」
「覚えてねーよ。ずっと前、施設を逃げ出したんだ。追いかけてくる奴らもいたけど、山の中まで来れば、あいつら勝手に足滑らせて死んでった。それから、じいちゃんに拾われてここで暮らしてんだ」
少年は淡々と語りながら、慣れた手つきで木皿に粥を盛り付けました。
しかし、リゼッタの鋭い観察眼は、小屋の中に漂う「欠落」を感じ取っていました。
部屋の隅、窓から差し込む僅かな光を浴びる場所に、手作りの小さな祭壇がしつらえられていました。
そこには、使い古されたナイフと、古びたパイプ、そして一輪の野花が供えられています。
じいちゃんと呼ばれた人物を弔うように。
小屋の中には少年の気配以外、人の営みの気配がありません。
積まれた薪の量も、用意されている食器の数も、すべてが「一人分」であることを示していました。
少年は「じいちゃん」が今もどこかにいるかのような口ぶりでしたが、その言葉には、喪失を認めれば自分までもが消えてしまうのを恐れているような、危うい静けさが混じっていました。
かつてバルガスは、リゼッタという道具に価値を見出し、金と野心で塗り固めた居場所を与えました。
けれど、この少年が与えてくれたのは、継ぎ接ぎだらけの毛皮と、誰の野心も混じらない、ただ生き延びるためだけの温かな粥。
「ほら、食えよ。食わないと死ぬぞ。死んだら、その布もただのゴミだ」
少年のぶっきらぼうな促しに、リゼッタは震える手で木皿を受け取りました。
湯気と共に立ち上る土の匂いが、鼻の奥を突き抜けます。
リゼッタは一口、重い粥を口に運びました。
かつて味わった最高級の茶や菓子よりも、その温かさはひどく暴力的に、リゼッタの凍てついた心を解かそうとしていました。




