2-4手を染める
カッセル子爵の没落は、バルガスの計略とリゼッタの「権勢」が完璧に噛み合った結果でした。
本来、清廉潔白な子爵を公金横領で訴えるなど、バルガスのような男の独力では不可能です。彼の言葉は常に疑われ、証拠は精査されます。しかし、そこに「亡きバルトロメ卿の正当な相続人」であり、バルガスの不正な徴税記録の被害者とも目されていたリゼッタが、バルガスの用意した偽造書類を「グランツ家の記録にある事実」として承認したことで、世論は一気に傾きました。
公聴会の最後、カッセル子爵は憲兵に取り押さえられながら、血を吐くような思いで声を張り上げました。
「何かの間違いだ! 私は断じて、物流の整備資金を私物化などしていない! グランツ令嬢、貴女ならわかってくれるはずだ、あの記録は――!」
子爵の悲痛な叫びは、ホールに虚しく響き渡りました。彼は、自分と同じように「公務に誠実であろうとする者」として、リゼッタに救いを求めたのかもしれません。
しかし、リゼッタは何も言いませんでした。
彼女はただ、壇上から崩れ落ちる子爵を、感情の失せた冷たい瞳で見下ろしていました。
その視線には、怒りも、憎しみも、ましてや良心の呵責など微塵もありません。
あるのは、自らの足元で無様に這いずり、名前を呼ぶ男を、ただの「除去すべき岩盤」として認識する、絶対的な支配者の拒絶でした。
(……ごめんなさいね)
リゼッタの沈黙が、子爵の有罪を決定づけました。権威あるグランツ家が認めた「悪行」を疑う者は、もはやこの場に一人として存在しませんでした。
絶望が支配する公聴会の広間に、カッセル子爵の、獣の咆哮にも似た叫びが轟きました。
「ま、まさか貴様……はかったな! 仕組んだのは、貴様たちだったのか!」
憲兵の拘束を跳ね除けんばかりに身を乗り出した子爵の目は、怒りと悲しみで血走り、真っ赤に染まっていました。その凄まじい眼光が、壇上のリゼッタを射抜きます。
「私の名誉など、今さらどうでもいい! だが……だが、私の領民たちはどうなる! 私が守ってきたあの地を、あそこに生きる清らかな民たちを、貴様らのような血も涙もない魔物の手中に放り出すわけにはいかないのだ!」
子爵が守ろうとしていたのは、自らの地位ではなく、彼を信頼し、共に生きてきた領民たちのささやかな平穏でした。物流の要衝としての利権が奪われれば、そこは強欲な徴税と軍事利用の拠点に変貌し、民の暮らしは根底から破壊される。
彼は、自分を破滅させた謀略の先に、愛する民たちの地獄を見ていたのです。
「頼む、リゼッタ……! 私をどう扱おうが構わない。しかし、彼らだけは、領民たちだけは巻き込まないでくれ……!」
涙と共に絞り出されたその必死の訴えを、リゼッタは、一瞥をくれるだけで切り捨てました。
その瞳には、侮蔑さえありませんでした。
ただ、進むべき道の上をまっすぐ見つめるだけで平坦な冷たさがあるだけでした。
彼女の背後で響く絶叫を振り返ることもしませんでした。
彼女にとって重要だったのは、これでようやく「自立の場」を作るための絶対的な権益が手に入った、という事実だけでした。
カッセル子爵から奪い取った物流の要衝には、かつての穏やかな風景を塗りつぶすように、高い城壁に囲まれた巨大な施設『グランツ慈恵院』が完成しました。
表向きは身寄りのない子供たちに教育を施す救済の聖域でしたが、その実態はリゼッタの歪んだ理想とバルガスの冷徹な野心が交差する、国家を揺るがすための「苗床」でした。
ある日の午後、リゼッタは施設のバルコニーから、広場で訓練に励む少年少女たちを眺めていました。
傍らではアンナが、リゼッタが彼らに与えた焼き菓子を子供たちが嬉しそうに頬張る様子を見て、感極まったように瞳を潤ませています。
「リゼッタ様、見てください。あの子たちが笑っています。あなたがカッセル子爵領を引き継ぎ、この場所を作ってくださったおかげです」
アンナの向けた無垢な感謝に対し、リゼッタは穏やかな笑みを返しましたが、その内面では全く別の思考が渦巻いていました。
リゼッタはかつて泥濘の中で震えていた自分を思い出し、憐れみや名前だけでは決して救われない現実を噛み締めていました。
彼女にとっての救済とは、虐げられた者が二度と奴隷に戻らぬよう、自らの意志で結果を奪い取るための「手段」を与えることだったのです。
地下の深奥ではバルガスが、リゼッタさえも立ち入らせない区画で『第零次再開発計画』の最終調整を進めていました。
石造りの冷たい壁に囲まれた実験室には、鼻を突く薬品の臭いと、肉を焼くような不吉な魔力の焦げ付いた臭いが充満していました。
部屋の隅には、幾つもの巨大な培養槽が並び、その中にはリゼッタを再現しようとして無残に果てた「失敗作」たちが、濁った液体の中で揺れていました。
かつての国家プロジェクトがそうであったように、リゼッタのような強大すぎる出力を持たせようとすれば、器である人間の精神が真っ先に崩壊してしまいます。
バルガスの足元には、自我を失い、異形の肉塊と化したかつての孤児たちが、ゴミのように積み上げられていました。
「……やはり、力だけでは『兵器』にはなれない」
バルガスは冷徹な瞳で、最新の調整を終えた被検体を見つめました。
彼はリゼッタの再現を諦め、代わりに出力をあえて常人の数倍程度に抑え、代わりに「安定性」を最優先させる手法へと転換しました。その安定をもたらしたのは、魔術的な処置ではなく、皮肉にも情緒的な「リゼッタへの忠誠」でした。
泥濘から自分たちを救い出し、名前と場所を与えてくれた女神――リゼッタ。
彼女を神として崇める盲目的な信仰心こそが、暴走しがちな魔力を繋ぎ止める最強の精神的支柱となったのです。
「素晴らしい。彼女という光を信じることで、君たちの醜い魔力は初めて形を成す」
調整を終え、跪く少年たちの瞳には、かつての絶望は消え、狂信的な光が宿っていました。彼らはリゼッタが信じているような「自立した強者」などではなく、リゼッタという太陽を仰がなければ存在すら維持できない、バルガスにとって極めて管理しやすい「忠実な牙」へと作り変えられていました。
バルガスは、自らの筆先で子爵を没落させた時のような慇懃な笑みを浮かべ、少年の一人に短い巻物を手渡しました。
「リゼッタお嬢様は『掃除』に時間をかけすぎる。彼女には引き続き、表舞台で聖女として微笑んでいてもらいましょう。……君たちの最初の仕事は、先日の公聴会で異を唱えたあの商人の暗殺です。跡形もなく、綺麗に消しなさい」
これまでリゼッタに行わせていたのは、法や権勢を用いた「社会的な抹殺」でした。
しかし、完全に統制された魔導師の軍団を手に入れたバルガスは、ついに自らの意思で、直接的な血の粛清へと手を染め始めたのです。
リゼッタという象徴を掲げ、裏で自らの牙を振るう。
バルガスの背後で、培養槽の青白い光が、彼の肥大化した野望を不気味に照らし出していました。
バルガスとリゼッタの権勢は、いつの間にか国家を牛耳る程に至っていました。
バルガスは、リゼッタへの絶対的な崇拝を「精神の鎖」として利用し、かつて国が制御できずに廃棄した人造魔導士の技術を、完璧に統制された私設軍隊へと変貌させていました。
彼は物流の利権を握ることで国家の動脈を支配し、リゼッタという象徴を掲げることで王宮の予算さえも自由に操り始めました。
二人の権勢が重なり合うことで、事態は加速しました。
リゼッタは「数千の孤児を救った聖女」として民衆の熱狂を受け、王族でさえ無視できないカリスマ性を手に入れました。
一方でバルガスは、その背後で自らの意に沿わぬ貴族を武力で次々と排除し、王座さえも射程に収める地位へと登り詰めていきました。
リゼッタは、バルガスの言葉の端々に潜む毒や野心を、泥濘を這いずってきた直感で敏感に感じ取っていました。
鏡に映るリゼッタの顔は慈悲深い聖女のままでしたが、その瞳にはもはや良心の呵責など微塵もなく、ただ目的へと突き進むための冷徹な愉悦だけが宿っていました。
かつて「燃え滓」と呼ばれた少女と、冷酷な役人は、欺瞞と血で塗り固められた階段を駆け上がり、ついには国家の中枢へとその手を伸ばしたのでした。




