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重い足音が廊下で止まった瞬間、リゼッタの体は反射的に強張った。
ノックもなしに、粗末な木の扉が軋んだ音を立てて開く。
入り込んできたのは、冬の夜気だけではない。
鼻をつく安酒の臭いと、獣のような脂ぎった体臭。下男だった。
リゼッタは繕い物をしていた手を止め、ゆっくりと顔を上げる。
その瞳からは、恐怖も、嫌悪も、一切の感情が消し去られていた。
そうでもしなければ、この瞬間に発狂してしまうことを、彼女は経験から知っていたからだ。
「……旦那様のお相手は済んだのか」
男が卑猥な粘り気を帯びた視線で、リゼッタの全身を舐め回す。
主人の「残り物」をあさるハイエナのような目。リゼッタはただの「物」として、そこに存在することを強要されていた。
「だったら、次は俺の番だろ。……おい、突っ立ってないでさっさと準備しろ」
男が顎をしゃくった先には、薄汚れた寝台がある。
リゼッタは無言で立ち上がった。唇を血が滲むほど噛み締め、奥歯が砕けそうなほど力を込める。
(私は石だ。感情のない、ただの人形だ)
心の中で呪文のように繰り返す。
視界の端で、男がベルトを外す音が聞こえた。
リゼッタは天井の染みの一点を見つめたまま、自らの魂を肉体から切り離した。
氷が張るような冷たい井戸水を、リゼッタは何度も何度も頭から被っていた。
肌が赤くなり、感覚が麻痺しても、手は止まらない。
硬いブラシで皮膚を削り取るような勢いで、腕を、首筋を、胸を擦り続ける。
「落ちない……」
掠れた声が漏れた。
いくら洗っても、あの男たちの脂ぎった手の感触が、皮膚の下にこびりついている気がした。
耳元で囁かれた卑しい言葉が、鼓膜の奥で反響し続けている。
主人の傲慢な暴力と、下男のねっとりとした欲望。
二つの異なる、けれど等しくおぞましい「汚れ」が、リゼッタという存在を塗りつぶしていく。
ガタガタと震えが止まらないのは、寒さのせいなのか、それとも魂が拒絶の悲鳴を上げているからなのか。
濡れた髪から滴り落ちる水が、足元の泥と混じり合う。
自分はこの泥と同じだ、とリゼッタは思った。誰かに踏みつけられ、汚され、それでも声を上げることすら許されない路傍の泥。
ふと、自分の腕に新しい痣が増えていることに気づく。リゼッタは虚ろな目でそれを見つめ、やがて力なくその場に座り込んだ。
月明かりだけが、うずくまる彼女を冷ややかに照らしていた。
ボロ雑巾のように硬い床へ投げ出されたリゼッタは、身体を丸めて荒い呼吸を整えていた。
擦り切れた肌が痛む。男たちの粘ついた体液と、暴力の跡が、皮膚の上で焼き鏝のように熱を持っていた。
これまでは、ただ耐えていれば嵐は過ぎ去ると信じていた。心を殺し、石になれば、痛みを感じずに済むと自分を騙していた。
けれど、今夜は違った。
リゼッタの中で、何かが音を立てて千切れ飛んだのだ。
(痛い、辛い、怖い……いや、違う)
暗闇の中で、リゼッタはカッと目を見開いた。
乾ききった瞳の奥で揺らめくのは、弱々しい嘆きではない。
どす黒く、ドロドロと煮えたぎるような激情だった。
あの下卑た笑い声をあげる下男の喉を、食い破ってやりたい。
高みの見物で私を玩具にする領主の目を、この指で抉り出してやりたい。
「……殺してやる」
ひび割れた唇から、呪詛のような言葉が零れ落ちた。
一度口にすると、それは堰を切ったように溢れ出した。
「殺したい。殺したい。あいつらを、私をこんな目に遭わせた全てのものを、一人残らず」
救いなんていらない。神への祈りなど、とうの昔に捨てた。
今、私が欲しいのは、慈悲深い救済ではない。この底なしの地獄を、奴らの血で染め上げるための「力」だ。
「誰でもいい……悪魔でも、魔獣でも構わない。あいつらを殺せる力をくれるなら、私は何だって差し出す……!」
魂の底から絞り出すように叫んだ、その時だった。
ドクン、と。
リゼッタの背骨に沿って、異常な熱が走った。
殴られた痛みとは違う。身体の内側から焼き尽くすような、強烈な灼熱感。
「あ、が……っ!?」
リゼッタは背中を反らし、苦悶の声を漏らす。
衣服の下、肩甲骨のあたりに刻まれていた奇妙な痣――生まれつきリゼッタが背負っていた「召喚印」が、衣服を透かすほどの強烈な輝きを放ち始めていた。
暗い部屋が、禍々しくも美しい光に満たされていく。
その光はリゼッタの殺意に応えるように、激しく、脈動していた。




