『“わたし”のままで、そばにいて』
あの配信以来──橘いのりは、ほんの少しだけ変わった。
変化はとても些細で、たぶん周囲の誰も気づかない。
けれど、天城コウだけは気づいていた。
通話の最初、いつもぴしっとしていた姿勢が、どこか柔らかくなった。
敬語も、たまに語尾がくだけるようになった。
声に乗る空気が、“構えたプロ”から、“素の少女”へと少しずつ変わってきている。
そんな変化を喜びながらも、コウは無理に踏み込もうとはしなかった。
彼女が話したいことだけを話し、沈黙には沈黙で寄り添う。
それが、いのりにとって一番の“安心”だった。
──深夜0時過ぎ。
今日も通話テストという名目で、ふたりはしれっと繋いでいた。
「今日の新衣装、すごく反響あったね。白狐風ってコンセプト、ぴったりだった」
「ありがとう、先輩。……でも」
「でも?」
「ちょっと……恥ずかしかったんです。あんなに褒められると」
「……似合ってたよ。本当に」
通話越しなのに、いのりの吐息が、ほんの少しだけ弾んだのがわかる。
「……先輩のそういう声、本当に……心臓に悪いです」
「ん?」
「なんでもないですっ」
あわてて言葉を切るいのりに、コウはくすりと笑った。
「……ずるいです、そういうところ」
彼女の声には照れと、かすかな甘えが混ざっていた。
まるで、本当に“年相応の少女”のように。
しばらく沈黙が続いたあと、いのりがぽつりと呟く。
「……わたし、少しだけ、変わったと思いますか?」
「うん。……変わった、というより“戻ってきた”って感じかな」
「戻る……?」
「いのりちゃんが、いのりちゃん自身に」
「仮面じゃなくて、“本当の自分”に戻ってきてる」
──沈黙。
──呼吸。
「……そんなふうに言ってくれる人、初めてです」
「……先輩って、ほんとに……ずるい」
その言葉のあと、いのりはふと語り始めた。
「小さいころ、ずっと年上の人に囲まれて育ったんです」
「親も、兄も、学校でも、“えらいね”“賢いね”って、褒められるのが普通で……」
「でもそれって、“ちゃんとしてる”ことが前提で。間違えたら、もう子ども扱いすらされなくなる気がして」
「気づいたら、怖くなってました。“間違えられない自分”しか愛されない気がして……」
「だから、“完璧なV”でいなきゃって、必死だったんです」
深夜の通話の中、誰にも言えなかった心の声がこぼれていく。
コウは何も言わず、ただ静かにその声を聴いていた。
いのりの声は、やがて少しずつ柔らかくなっていく。
「でも、先輩と話してるときだけは……少しだけ、子どもでいられる気がします」
「ちゃんとした言葉じゃなくても、先輩はわたしのこと、見てくれるから……」
「……甘えても、いいですか?」
「もちろん」
──その答えに、いのりは初めて“ためらわずに”笑った。
通話が終わる直前。
いのりが、ふと、何気ない声で言った。
「先輩」
「ん?」
「……高校生になったら」
「……デート、してくださいね」
「……え?」
「ふふ……今の、録音してもいいですよ? 証拠として」
「もちろん制服で行きます。お弁当も作って……、ちゃんと大人っぽいの、選んで」
「でも……そのときは、“完璧”じゃなくて、“わたし”のままで、行ってもいいですか?」
画面越し。
姿は見えなくても、その表情が思い浮かぶほどに、声があたたかくて、真っ直ぐだった。
──14歳の少女が初めて見せた、“素の笑顔”。
その約束が、ただの冗談ではないと気づいたとき。
コウの胸の奥に、小さな灯りがともった。




