『一杯のワインと、ほどける距離』ご褒美タイム:夜々編
旅館のバーラウンジは、どこか現実から隔絶された空気に包まれていた。
間接照明の灯り、カウンターの奥に並ぶワインボトル、低く流れるジャズの旋律。
その空間に、一枚羽織った薄手のガウン姿の女性が、ひとり、ぽつんと座っていた。
「……来たわね」
夜々は、手にしていた赤ワインのグラスをくるりと回しながら、ゆっくりと振り返った。
その視線の先――コウが、戸惑いながらも歩み寄ってくる。
「遅くなって、ごめんなさい。ちょっと、メグの花火に付き合ってて……」
「いいのよ。勝ち取った権利だもの。文句なんて、言わない」
言葉は笑っていた。けれど、その奥に、わずかな棘が混じっていることにコウは気づいた。
「……あの子たちね、可愛いわよ。素直で、まっすぐで、傷つくことも怖がらない」
夜々はグラスを傾けて、赤いワインを口に含んだ。
「でも、私は……そういうの、ちょっとだけズルいと思ってるの」
「ズルい?」
「ええ。自分の想いをぶつけるって、ほんとはすごく勇気がいる。でもあの子たちは――好き、って、簡単に言える。……私は、そんなふうに、できないの」
夜々の指が、ゆっくりとグラスをなぞる。
その指先は細くて、儚げで、でも確かに熱を帯びていた。
「……ねえ、コウくん。私のこと、どう思ってる?」
突然の問いに、コウは目を見開く。
「どう、って……それは……」
「“年上の余裕があって、からかってくる人”――そう思ってるんでしょ?」
「いや、そんなこと――」
「あるでしょ? 自分でも気づいてないかもしれないけど、あの子たちに向ける視線と、私に向ける視線、違うもの」
夜々は立ち上がり、グラスをカウンターに置いた。
そして、カウンターの隣に腰掛けるコウの横に、すっと身を寄せた。
「……だから、今日はちょっとだけ、ズルくなってもいい?」
「え……?」
彼の肩に、ゆっくりと頭を預ける。
その瞬間、微かに濡れた髪がコウの首に触れて、甘いシャンプーの香りがふわりと鼻をくすぐった。
「ねえ……知ってる? これ、完全に“酔ってる女のフリ”してるの」
「っ……」
「でも、本気で酔ってるのは、たぶん――」
夜々は、そっと顔を上げた。
その瞳が、まっすぐにコウを見つめる。
「……あなたの、声と、優しさに。酔ってるのよ、ずっと前から」
あまりに真っ直ぐな言葉に、コウの言葉が詰まった。
その隙を縫うように、夜々は身を乗り出して、彼の胸元にそっと指を這わせた。
「……あら、ちょっと鼓動、早い?」
「それは、ずるいって……夜々さんが……」
「そうよ。ずるいの、今夜は。勝ち取った“デート券”なんだから。……使いきらなきゃ、もったいない」
夜々は立ち上がり、そのまま彼の手を引いた。
カウンター奥の奥――バーラウンジに併設された、ちょっとした休憩室。
「……ここ、使っていいって、さっきマネージャーに聞いたの。――ふたりきりでも」
扉が閉まる音。
薄暗い室内には、小さな間接照明だけが灯っている。
「ねえ、コウくん。……お願いがあるの」
「……はい」
「このガウン、ほどいてくれる?」
「……っ!?」
「嘘よ。……でも、ちょっとだけ、触れてみて」
そう言って夜々は、自分の手を、コウの手に重ねた。
薄布一枚。その下には何も身に着けていない。
それを、はっきりと、手のひら越しに感じてしまう。
「ね? びっくりした?」
「……はい。正直、すごく……」
「でも、不思議ね。触れられると、こっちも――嬉しくなっちゃう」
そう呟いて、夜々はそっと、コウの胸に額を預けた。
そして、小さく、小さく囁く。
「ねえ、コウくん。……もっと、私のこと、見て?」
「見てますよ。ちゃんと」
「……そうじゃない。私を、女として、ちゃんと――」
コウの腕が、ゆっくりと夜々の背を包む。
その温もりに、夜々の呼吸が震える。
「……ああ、もう。ほんとに、本気になっちゃいそう」
その言葉は、もはや冗談ではなかった。
でも夜々は、それでも――幸せそうに、笑っていた。
「ありがとう。……今夜のこと、ずっと覚えてるから」
そっと、彼の肩に頭を預けた夜々は、しばらくそのまま、静かに目を閉じた。
まるで、大切な夢に包まれるように。




