【出発前夜】ー不知火夜々の場合ー
「……はぁ」
不知火夜々は、自室のドレッサーの前で、静かに息を吐いた。
整えられた漆黒のロングヘアが、鏡に映る。
艶やかな睫毛の奥で揺れるのは、“完璧な先輩”を演じる仮面の下、少女のような動揺だった。
「温泉旅行、ねぇ……ふふ、慰安旅行って、名ばかりなんじゃないの?」
形のいい唇がふっと笑みに歪む。
でも、それは決して余裕の笑みではなかった。
(だって、コウくんも来るんでしょう? 二泊三日……同じ宿……同じお風呂……)
夜々は、クローゼットの奥から一枚のバスウェアを取り出した。
“混浴対応”の下着一体型バスタオル――通称「バスドレス」。
(混浴、って明言されてたわけじゃない。でも……もしも、そうなったら――)
鏡の前に立ち、肌に滑らせてみる。肩を出し、胸の形にぴったり沿うそのバスウェアは、**“戦う女の武装”**だった。
「似合ってる……かな。ねぇ、コウくん……見てくれる?」
小さくつぶやく声が、あまりにも甘かったことに気づいて、夜々は頬を赤らめた。
(ダメよ、不知火夜々。あなたは年上の余裕を見せる立場。……でも、でも……)
引き出しから小さなポーチを取り出す。
その中には、使ったことのない――けれど一応持っていた“嗜みとして”のアイテムが、ひとつだけ。
「使うなんて、思ってないわよ? ただ……ね、可能性として、ほら」
自分で自分に言い訳しながら、ポーチの奥にそれを忍ばせる。
それだけで胸が高鳴るのが悔しい。
だって、自分はもう二十歳を過ぎた大人。コウくんより、ずっと年上なのに。
(……でも、恋に“年上の余裕”なんて、意味がないのかもね)
リップと香水を丁寧に選びながら、夜々は「誘うシナリオ」をいくつも妄想した。
夜のバーでふたりきり――
少し酔ったふりをして、肩にもたれかかる――
ふざけた拍子に、指が触れて、頬が寄って――
(あぁ……だめね、これ完全に未成年に手を出すパターンじゃない……)
だが、彼はもう十八歳。
“恋”をしても、許される年齢だ。
(本当に、抱きしめられたらどうしよう)
化粧ポーチを閉じ、夜々はベッドに腰掛けた。
そのままスマホを手に取り、ロック画面を眺める。
そこには、彼とふたりで撮った小さな写真――
打ち上げの帰りに、なんとなく撮った、たった一枚の記念写真。
「……コウくん、誰と混浴するのかしら」
唇を尖らせて、ふっと息を吐く。
いつも涼しい顔でからかってきた自分が、今や逆の立場。
焦って、嫉妬して、見えない未来に心が追いつかない。
(……だから、私もちゃんと勝負しないと)
夜々はクローゼットの奥から、小さなボトルを取り出す。
それは、お気に入りのバスオイル――ほんのりスモーキーで、夜の香りがする。
「混浴なんてなかったら、……私から誘ってもいいわよね?」
その声はどこか、震えていた。
けれどその瞳は――
明日の“勝負”に向けて、静かに火を灯していた。




