【出発前夜】―天城ひよりの場合―
天城家のリビングには、旅行用のキャリーケースがふたつ並んでいた。
ひとつは大学生の兄――天城コウのもので、もうひとつは妹・ひよりのもの。
ふたりは今夜、同じ屋根の下で、同じ旅への準備をしていた。けれど――心の中は、まるで違う場所にいた。
(や、やばい……やばいって……!)
自室に戻ったひよりは、畳んだ水着を手に、ベッドの上でくるくる転がっていた。
ピンク地に白いフリルのついた、小さめビキニ。――高校生になって初めて買った「勝負水着」だった。
(これ……似合うかな。お兄ちゃん、見てくれるかな……?)
普段は部屋着姿でダラダラしてても、「妹なんだから」とスルーされても、今日は違う。明日からは――。
(混浴って言ってなかったけど、もし万が一……もしも、そういう展開になったら……っ)
想像してしまう。
湯気に包まれた露天風呂、ふたりきりの湯船。
兄の隣に並んで座って、「あついね……」なんて、顔を赤くして言ってみる。
そのあと、ちょっと湯に沈んで、ぽちゃんと肩が触れて――。
(だ、だめ! だめだめだめっ! ……けど、そうなったらどうしようって、準備しておかなきゃ……)
慌ててベッドの下から小さなポーチを取り出す。
中には、つい買ってしまった“勝負下着”と――なぜか“大人の雑誌”が数冊。
(……だって、ちゃんと予習しておかないと……! お兄ちゃん、そういうの慣れてたりしたら、私……)
高校生らしからぬ真剣な眼差しで雑誌をパラパラとめくりつつ、ひよりは顔を真っ赤に染めた。
「はぁ……お兄ちゃん、私のこと……見てくれたらいいのに」
自分が“妹”だってことは分かってる。
ずっと一緒に住んでて、家族みたいな距離感。
でも――。
「……私は、女の子なんだよ?」
誰もいない自室で、小さくつぶやく。
クローゼットを開けて、いくつかの浴衣を並べてみる。
それから、リップグロスと軽いアイシャドウもポーチに詰めた。
(……全部、ちゃんと準備しておかないと。明日、チャンスがあるかもしれないから)
ポーチの中に手を伸ばし、そっと触れたのは――一枚の小さなレースの布。
薄い、でもちょっと大人っぽく見える、黒のランジェリー。
(……下着見られるなんて、絶対イヤ。だけど……でも、可愛いって思ってくれたら……)
わかってる、自分の体はまだまだ子供っぽいってことも。
けれど、最近ほんの少しだけ、胸がふくらんできて。
それを、お兄ちゃんがちょっとでも“女の子”として見てくれたら――。
「……やっぱり、ちょっと、勝負……しちゃおっかな」
お風呂あがりに着るルームウェアも、ちょっとだけ丈の短いものを選んだ。
恥ずかしいけど、「何も知らない妹」って顔は、もう、していられなかった。
ポーチを閉じて、キャリーケースに水着と一緒にそっとしまい込む。
荷物を閉じたその瞬間――リビングから、お兄ちゃんの声が聞こえた。
『ひよりー、荷造り終わった? 飲み物持ってくけど、なんか欲しいのある?』
「えっ!? あ、うんっ、えっと……い、いちごオ・レっ!」
変な声になってしまった自分に慌てて口を押さえた。
(あああ……なんで、こんなことで緊張してんの私……!)
でも、しょうがない。
だって――明日からは、ただの兄妹じゃいられない気がするから。
「……お兄ちゃんの、隣、ずっと、空いてるといいな」
そう言って、小さなため息と一緒にベッドに身を投げた。
その唇には、ほんのりと桜色のリップが光っていた。




