『LinkLiveの扉と、声のルール』
翌日。
俺――天城コウは、なぜか都内のとある高層ビルにいた。
目の前にそびえるガラス張りのエントランス。自動ドアの向こうには、受付嬢とセキュリティゲート。
ひよりから送られてきたメッセージは、たった一言。
『事務所に挨拶だけ来てくれる? マネージャーに会ってほしいの』
そして今、その“マネージャー”に案内されて通された会議室の中で、俺は完全に固まっていた。
***
「……で、君が“ひよこまる”の代打くんか」
目の前に座っているのは、スーツ姿の細身の男性。
黒縁メガネに柔らかい物腰、そして掴みどころのない笑み。
彼の名は――神代カオル(かみしろ・かおる)。
Vtuber事務所《LinkLive》のマネージャーにして、業界ではやり手として有名らしい。
「ひよりちゃんから連絡があってね。急な代役だからって聞いてたけど……まさか、お兄さんだったとは」
「……す、すみません。勝手なことして……」
思わず深々と頭を下げる俺。
だが、神代は穏やかに首を振った。
「いやいや、むしろ感謝してるよ。“ひよこまる”があのタイミングで復活するなんて、業界全体がザワついてたからね。昨日の視聴者数、見た?」
「……正直、ビビりました」
「うん、あれだけの数字を出せる“素人”はまずいない。演技力は素人っぽいけど、リアルさが逆に良かったって評判なんだよ。“本当に彼氏できた説”が、真実味ありすぎて」
「……は、はあ……」
なんだその不名誉な評価は。
***
神代は、テーブルに一枚の書類を置いた。
「で、ここからが本題。正式に“代役”として活動を続けるなら、LinkLiveとの契約が必要になる」
「契約……ですか」
「もちろん“中の人”を偽ってるってことは、社外秘。ひよりちゃんも了解してる。だけど、配信の質と管理、安全面のためにも、形だけでも書類を通しておきたいんだ」
俺の視線が、契約書の文字を追う。
“準所属タレント(仮名義)”という言葉が、なんだか不思議だった。
まさか、自分がこんな書類を目にする日が来るなんて。
「ちなみに活動名は、**《レイ=アマギ》**で登録予定。君の声に合わせて、ちょっと厨二寄りにね」
「……レイって、俺の名前じゃなくて?」
「もちろん、ひよりちゃんが名付けたよ。“お兄ちゃんのイケボに似合いそうだから”って」
なんだその照れる由来は。
けれど、口元が自然とゆるんでしまう。
名前に込められた想いが、どこかくすぐったかった。
***
神代は一息ついて、ふと声を落とした。
「ただし、いくつか“ルール”がある」
「ルール……?」
「これは、君が“中の人”として活動するうえで、避けては通れない壁でもある。たとえば――」
彼は指を一本立てた。
「ひよりちゃんとの関係は、“完全に秘密”。例え身内でも口外しないこと」
「……もちろん、です」
「二つ目。配信中の“キャラ崩壊”は厳禁。あくまで“ひよこまる”であり、レイ=アマギであること」
「了解しました……たぶん」
「三つ目。万が一、バレたときの対応はすべて事務所主導。絶対に独断で反応しないこと」
「……はい」
どれも、当然といえば当然のルール。
けれど、改めて聞くと――自分が踏み込もうとしている場所の重さが伝わってきた。
これは、ただの遊びじゃない。
誰かの声になるということは、その人の“人生”の一部を背負うことなのだ。
「……覚悟、できてる?」
神代が、静かに尋ねてくる。
その目には、軽口とは違う真剣さがあった。
俺は、答えた。
「……はい。ひよりのこと、守りたいですから」
その言葉に、神代は微笑んだ。
「よろしい。じゃあ、明日から本格始動だ。さっそくユニットの新ビジュアルと、兄妹のやりとり企画を考えようか」
「……え、それ、もう動いてたんですか?」
「当然。《ひよりとレイ》兄妹甘々ユニット、爆誕だよ?」
思わず頭を抱える俺の横で、
神代は悪戯っぽく笑いながら、こう続けた。
「君の声、いい“商品”になるよ。――業界一の、甘々兄としてね」
***
帰り道。事務所を出て駅へと向かう途中、ひよりからメッセージが届いた。
『契約、お疲れ様!レイ=アマギ、かっこいい……♡』
『これから、二人で一緒に頑張ろうね、お兄ちゃん!』
その言葉が、素直に嬉しかった。
まだ、配信者としての自覚はない。
けれど――この声で、誰かの支えになれるなら。
そう思った自分が、確かにいた。