『ひよりの声、僕の心』
夕方の配信を終え、マイクを切った瞬間、ようやく緊張が解けた。
「……ふぅ」
配信中は“ひよこまる”として振る舞っていた俺の声が、自然と地声に戻る。
肩にかかる妙な疲労感と、それに似合わぬ高揚感が、同時に身体を包んでいた。
けれど、それ以上に残ったのは――ひよりのあの言葉だった。
『なんか……私より、うまく“ひよこまる”やれてる気がして、ちょっとだけ、悔しい』
少しだけ、寂しそうだった。
いや、少しだけ、じゃないのかもしれない。
俺が代わりに“ひよりの居場所”を守ったつもりでも、
その“居場所”を失いかけてるのは、ひより自身だ。
***
「お兄ちゃん」
風呂上がりの濡れた髪をタオルで雑に拭きながら、ひよりがリビングに入ってきた。
オーバーサイズのTシャツに短パンという、危うい格好。
けれどそれよりも――その目が、どこか言葉を探しているようだった。
「さっきは……ごめんね。変なこと言って」
「変じゃないよ。……本音だろ?」
返した言葉に、ひよりは小さく頷いた。
「うん。でも、ちょっと嫉妬したの。……自分の声なのに、お兄ちゃんの方が、上手く届けてる気がして」
「……俺だって、そんなつもりなかった。演技も演出も全部、お前の力だよ」
「でも、声はお兄ちゃんの声でしょ?」
その一言に、俺は言葉を失った。
たしかにそうだ。
アバターも、言葉も、動きも、全部“ひよこまる”のもの。
けれど――声だけは、俺のものだった。
「……不思議だよね」
ひよりがぽつりと呟く。
「誰かの代わりをしてるだけなのに、コメントで“好き”とか“惚れた”とか言われると……なんか、自分じゃないのに、ちょっとドキドキする」
「……それ、俺もだ」
思わず、本音が漏れた。
“代打”であることのはずなのに、
誰かに向けた言葉が、いつしか自分の声として返ってくる。
それは、嘘と本音の狭間。
仮面の奥に、いつしか本物の感情が混ざり始める。
***
「……じゃあさ、お兄ちゃん」
タオルを首にかけたまま、ひよりが俺の目を見つめてくる。
「一つだけ、聞いていい?」
「ん?」
「配信中の、“あれ”。」
「“あれ”って?」
「……“ぎゅー”って、言ったじゃん」
「……あー……」
完全に黒歴史入り確定のあのセリフ。
どうやら視聴者人気の高い台詞だったらしく、今朝も数十件引用されていた。
「……アレって、演技? それとも……本気?」
その問いかけは、まっすぐだった。
まるで――“妹”ではなく、“女の子”として投げかけられたような。
だけど、すぐに答えられなかった。
(本気じゃない。けど、嘘でもない)
ひよりが困っていて、俺は彼女を守りたかっただけだ。
だけど……演じるうちに、なぜか気持ちが乗ってしまっていた。
画面の向こうの視聴者にじゃない。画面の裏にいる、本当のひよりに。
……そんな自分に気づいてしまったから。
「……あれは、演技“じゃないかも”」
中途半端な答えだった。
けれど、ひよりはそれを聞いて、微笑んだ。
「そっか。……じゃあ、私も同じだね」
「え?」
「昨日、“ありがとう”って言ったのも、“声かっこよかった”って言ったのも――」
ひよりが、少しだけ頬を染めて、言葉を継ぐ。
「……本気だったよ」
心臓が跳ねた。
この子は、俺の妹だ。家族だ。
なのに今、その表情は、明らかに“それ以上”の何かを含んでいた。
俺が見たことのない、ひよりの顔。
***
「……お兄ちゃん」
「……ん」
「今日の“ぎゅー”は、私にも言ってくれたって思って、いい?」
心臓が跳ねた。二度目だ。
だけど今度は、ちゃんと目を見て言えた。
「……ああ。“ぎゅー”って、言ったのは――お前のこと、想ってたからだよ」
ひよりが、驚いたように目を見開く。
でも、すぐに――子どもの頃と同じように、くしゃっと笑った。
「そっか。じゃあ……私も、もうちょっとだけ、わがまま言っていい?」
「なに?」
「“中の人”は、お兄ちゃんのままでいて。もうちょっとだけ……私の代わりでいてほしいの」
その言葉は、確かに甘えだった。
けれど、俺はそれを拒む理由がもう、なかった。
――だって俺も、すでに“誰かのための声”に、本気になりかけていたから。