プロローグ 賽は再び投げられた、ただし行き先は地獄行き
あの伝説の(そして俺の胃を物理的に破壊した)TRPG配信から、数週間が過ぎた。アスファルトを焦がすような猛暑は鳴りを潜め、LinkLive事務所の窓から見える空には、どこか柔らかな秋の気配が漂い始めている。
季節の移ろいとはかくも穏やかなものかと、俺――天城コウは、事務所の共有ラウンジでようやく訪れた平穏という名の凪を、冷めかけたコーヒーと共に静かに噛みしめていた。
ソファの隣では、義妹のひよりが小さな頭をこてんと傾けながら、スマホ画面に映る次の配信ネタを真剣な眼差しでリサーチしている。
その向かいでは、葛城メグが「うおおおお!」とか「てぇてぇ(尊い)がすぎる!」とか、時折小さな雄叫びを上げながら、猛烈な勢いでキーボードを叩き、何やら新しい企画書と格闘中だ。
上の階から微かに聞こえてくる不知火夜々先輩のバイオリンの音色も、今ではすっかり俺の日常を彩るBGMの一部となっていた。
『ご近所ハーレム』
ラノベのタイトルのような、そんな非現実的な言葉が、俺の現実になって久しい。
風邪を引けば三方向から過剰なまでの看病という名の波状攻撃を受け、実の両親が来れば即席の恋愛裁判が開廷し、ボイスドラマの練習をすれば唇が触れる寸前までいく……。うん、平穏とは程遠い。
だが、その絶え間ない騒がしさが、不思議と心地よいと感じ始めている自分も、確かにいたのだ。
「――はい、皆さん、お待たせしましたーっ!」
その感傷に浸る俺の思考は、ラウンジのドアを爆風と共に開けるような勢いと、底抜けに明るい声によって、あっけなく打ち破られた。声の主は、我らがマネージャー・神代カオルさん。
その手には分厚い企画書の束。
そして、その悪戯っぽい笑みは、これから何かとてつもなく面倒なこと……いや、面白いことが始まるときの、いつもの笑顔だった。
「次の大型コラボ企画が、ついに社長決裁おりましたー!」
神代さんはそう高らかに宣言すると、テーブルの中央に企画書をドサリと置いた。その場にいた全員の視線が、まるで磁石に吸い寄せられる砂鉄のように、自然と表紙に集まっていく。
【LinkLive秋の特別配信企画『無人島サバイバルアイランド!〜イカダを作って脱出せよ!〜』】
そのタイトルを目にした瞬間、事務所の穏やかだった空気は、まるで真空パックでもされたかのように一瞬で張り詰めた。
「……む、無人島?」ひよりの声が、かすかに震える。
(ここから、ひより視点)
無人島……サバイバル……?え、それってつまり……都会の喧騒から離れて、お兄ちゃんと二人きりで……夜は焚き火を囲んで、満点の星空の下で語り合ったり……危険な獣に襲われそうになった私を、お兄ちゃんが「ひよりは俺が守る!」って言って、ぎゅってしてくれたり……吊り橋効果で、ドキドキが止まらなくなっちゃったりするやつ!?
きゃああああああ!何これ!神代さん、もしかして神様なの!?
「サバイバル!?マジすか!?」
ひよりとは全く別のベクトルで、メグの目が、獲物を見つけた肉食獣のようにギラついた。
彼女の脳内では、すでに「無人島限定レアMOB討伐クエスト」や「コウくんとの協力クラフト神動画」といった企画が、秒速で10個は生成されているに違いない。
神代さんは、俺たちの反応に満足そうに頷くと、それはもう楽しそうに説明を続ける。
「そう!今回は、このメンバー全員でカスタムマップの無人島に降り立ち、島に隠された素材を集めて、全員が乗れる巨大なイカダを完成させ、脱出していただきます!その一部始終を、もちろん生配信よ♡」
企画概要がスクリーンに映し出される。
そこには、あまりにも無慈悲な、しかし神の采配としか思えないチーム分けが記載されていた。
【脱出クラフトチーム】:イカダの設計と建造を担当する、いわば頭脳・技術班。
メンバー:レイ(天城コウ)、ひよこまる♪(天城ひより)、メグ、Inori∞Link(橘いのり)
【食料調達チーム】:メンバーの生命線である食料を確保する、サバイバル班。
メンバー:ノワール=クロエ(不知火夜々)、しろみな(真白みなと)、るる☆るん!(白瀬るる)、月詠ルイ
「お兄ちゃんと一緒のチーム……!やったぁ!」
ひよりが、感極まった様子で俺の腕にぎゅっと抱きついてくる。
その瞳は「二人で愛の船を造ろうね♡」と雄弁に語っていた。
うん、その船、たぶん日本には帰ってこれないタイプのやつだ。
いつの間にかラウンジに現れていた夜々先輩は、そのチーム分けを見て、ふっと優雅に微笑んだ。
「食料調達……ふふ、いいじゃない。サバイバルとは、すなわち“狩り”。
弱肉強食の世界、わたくしにこそふさわしい舞台ですわ」
(ここから、夜々視点)
食料調達、ね。悪くないわ。むしろ、私のためのステージじゃない。
無人島という閉鎖された空間。そこでは、都会のルールなんて通用しない。
生きるための本能が剥き出しになる。
……天城くん。あなたが狩られる側になるかもしれないのよ?この私に。ふふ、楽しみだわ。
あなたが空腹に耐えかねて、私の前にひざまずく姿を想像するだけで……ゾクゾクする。
彼女の言う“狩り”の対象に、島の生態系だけでなく、俺の心まで含まれている気がして、背筋が凍った。
「食料……ということは、料理も、ですね。……腕がなります」
静かに呟いたのは、みなとさんだ。彼女はすでにスマホを取り出し、何やらメモを取り始めている。
たぶん「無人島で入手可能な未知の食材リストと、それに最適な調理法に関する考察」とかだろう。
彼女の脳内では、すでに未知のモンスターを使ったフルコースのレシピが組み立てられているに違いない。
「るる、動物さんとお友達になって、木の実を持ってきてもらうの!」
るるちゃんは純粋な瞳を輝かせている。
うん、その純粋さが、食料調達チームにとっては最大の障害になる予感しかしない。
そして、同じチームのルイ先輩は、どこからか取り出したスケッチブックを広げながら、物憂げな表情で言った。
「食料とは、生きるための芸術だ。この島の自然が織りなす色彩……私の創作意欲を刺激するよ」
……ダメだこの人。絶対サバイバルする気がない。
全員のやる気は最高潮。だが、俺だけは気づいていた。
このチーム分け、あまりにも……あまりにも偏りすぎていると。
クラフトチーム。冷静に分析してみよう。
まず、ひより。彼女の頭の中は「お兄ちゃんとの愛の巣建設」でいっぱいだ。イカダの材料は、すべて豪華なベッドとハート型の窓に変換されるだろう。
次に、メグ。彼女は「サバイバル」という言葉を「レアアイテムハント」と誤訳している。イカダの帆になる布は、伝説のMOBを包むためのマントになるに違いない。
そして、いのりちゃん。彼女の神託は「たぶん、あっちに光るものが……」というレベルの曖昧さだ。我々を導くどころか、遭難のど真ん中に突き落とす可能性の方が高い。
……つまり、俺一人でイカダを造れと?無理ゲーすぎる。
では、食料調達チームはどうか。
夜々先輩。彼女は“狩り”と言っているが、その基準は完全に“美学”だ。
泥臭い作業は絶対にしないし、獲物が美しくなければ見向きもしないだろう。
みなとさん。彼女は完璧な料理を作るだろう。
ただし、出汁にこだわりすぎて、食材をすべて使い果たす未来しか見えない。
るるちゃん。島の動物はすべて彼女の友達になる。
つまり、食料は一切増えない。むしろ、俺たちが動物に食べられないように守ってくれる。
そして、ルイ先輩。彼は芸術活動に勤しむだろう。
砂浜に描かれた彼の傑作は、腹の足しにはならない。
……つまり、全員飢えると?
まともに機能する未来が、1ミリも見えない。
俺が絶望に打ちひしがれていると、神代さんがパンッと手を叩いた。
「――というわけで、配信は明後日から!皆さん、サバイバルに必要な“覚悟”だけは、各自準備しておくように!」
神代さんの最後の言葉が、これから始まる地獄への片道切符のように、俺の耳に重く響いた。こうして、俺の胃が再び休息を失うことが、確定したのだった。