エピローグ『祭りのあと、本当の始まり』
祭りの熱狂が、まるで遠い夢のように静かに冷めていく。
深夜のLinkLive事務所。イベントスペースには、撤収作業を終えた後の、独特な静寂と達成感だけが満ちていた。床にかすかに残る甘いポップコーンの匂い。壁に貼られたままの、手作りの装飾。そして、誰にも使われることのなくなったステージを、常夜灯だけがぼんやりと照らしている。
そのステージの上で、俺、天城コウとひよりは、二人きりで客席の暗がりを眺めていた。
数時間前まで、ここは数万の熱狂と、数えきれないほどのサイリウムの光で埋め尽くされていた。そして、六人のヒロインたちが、たった一人の男の子に向けて、それぞれの“本気の想い”を叫んだ場所。
あの公開告白バトルロイヤルは、すでにネットニュースやまとめサイトで「伝説の神回」として、凄まじい勢いで拡散されているらしい。
「……すごかったね、今日」
ぽつりと、ひよりが呟いた。その声は、祭りの喧騒を吸い込んで、少しだけ大人びて聞こえた。
「……ああ。心臓がいくつあっても足りなかった」
俺は苦笑しながら答える。本当に、そうだった。ひよりの涙ながらの告白、夜々先輩の宣戦布告、そして、全員からの真っ直ぐな言葉。あのステージの上で、俺は世界で一番幸せで、世界で一番追い詰められた男だった。
ひよりは、ステージでの告白の答えを急かすようなことはしない。ただ、隣に座る俺の横顔を、じっと見つめている。その視線が、心地よくて、少しだけ、くすぐったい。
やがて、彼女は意を決したように、俺の服の袖を、小さく、きゅっと掴んだ。
「……お兄ちゃん、約束、覚えてる?」
その声に、俺の心臓が、とくん、と静かに跳ねた。
忘れるわけがない。文化祭前夜、二人きりの事務所で交わした、あの甘い約束。
「忘れるわけないだろ」
俺はそう言うと、彼女の方に向き直った。ひよりの大きな瞳が、不安と期待に濡れて、常夜灯の光を映してきらきらと揺れている。
俺は、ゆっくりと、彼女の頬にそっと手を添えた。ひんやりとした夜の空気とは裏腹に、彼女の肌は驚くほど熱かった。
顔を、寄せる。
ひよりも、おびえることなく、まっすぐにその視線を受け止める。
シャンプーの甘い香り。震える長いまつ毛。ほんの少しだけ開かれた、桜色の唇。
あのボイスドラマの練習の夜と同じ、唇が、触れるか触れないかの、もどかしい距離。
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息が、できない。
お兄ちゃんの手が、私の頬に触れてる。あったかい。優しい。
顔が、近い。
あの練習の時よりも、もっとずっと、お兄ちゃんの瞳は真剣で……私の全部を見透かされそう。
約束、覚えててくれた。
ステージ、頑張ってよかった。大好きだって、勇気を出して、叫んでよかった。
そのご褒美が、今、ここにある。
もう、目を逸らさない。逸らしたくない。
だって、私は、もうただの“妹”じゃないんだから。
ーーーーー
お互いの呼吸が混じり合うほどの距離で――俺は、ぴたりと動きを止めた。
ひよりの瞳が、不思議そうに、小さく揺れる。
「……まだ、早い」
俺がそう囁くと、彼女は一瞬だけきょとんとした顔をして、それから、ふわりと、花が綻ぶように笑った。
「……うん、知ってる」
二人は、どちらからともなく、ふっと笑い合った。
今はまだ、このもどかしい距離が、二人にとって一番心地いい“答え”だった。キスをすることだけが、全てじゃない。こうして、お互いの気持ちを確かめ合って、同じ未来を見つめている。それだけで、十分すぎるほど幸せだった。
でも、いつか必ず、この距離がゼロになる日が来ることを、二人はもう疑っていなかった。それは、言葉にしなくても伝わる、確かな想いだった。
その頃。
祭りの熱をそれぞれの胸に抱きしめたまま、アパート『メゾン・サンライト』に戻ったヒロインたちもまた、眠れぬ夜を過ごしていた。
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【夜々の部屋:303号室】
(ここから、夜々視点)
「私の男にする、か……」
一人、ベッドの上で天井を見上げながら、ステージでの自分の言葉を反芻する。
「……本当に、言っちゃったわね、私」
顔が、熱い。ワインを飲んでもいないのに、頬が燃えるように火照っている。
あのステージの上で、私は完全に“不知火夜々”だった。《ノワール=クロエ》の仮面なんかじゃなく、一人の女として、彼に牙を剥いた。
ひよりちゃんの、あの純粋な告白。あれは、強敵だわ。でも、だからこそ燃える。
恋は、いつだって奪い取るもの。正々堂々と、正面から、あなたの心をいただいてみせるわ、天城くん。
私はスマホを手に取ると、新しいプレイリストを作成した。タイトルは、『彼を落とすための勝負曲』。……ふふ、次の戦いは、もう始まっているのよ。
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【メグの部屋:202号室】
「っしゃあああああああ!最高の文化祭だったああああ!」
私は、部屋着に着替えるのももどかしく、ベッドにダイブした。
今日のコウくん、マジでやばかった!ステージの上で、ヒロイン全員に囲まれて、真っ赤になって……でも、逃げずに、ちゃんと「最高のヒロインだ」って!あんなの!あんなの、全乙女ゲームのグランドルートでしか見られないやつじゃん!
「次はリアルイベントで告白だ!作戦ノート、更新しなきゃ!」
私は勢いよく起き上がると、ノートPCを開いた。次の企画、次のイベント、コウくんを最高に輝かせて、そして、その隣に立つための、最高のシナリオを考える。マネージャー見習いとしても、一人の恋するオタクとしても!私の戦いは、まだまだこれからなんだから!
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【みなとの部屋】
「……最高のヒロイン、か」
シャワーを終え、静かな部屋で一人、その言葉を反芻する。
ステージの上で、私はただ「一緒にごはんが食べたい」としか言えなかった。他の子たちみたいに、大胆な告白はできなかった。
でも、彼は、そんな私にも「ヒロインだ」って言ってくれた。
……悪くない響き。
ううん、すごく、嬉しかった。
私の居場所は、彼の隣にあるのかもしれない。派手な言葉はいらない。ただ、穏やかな日常を、一緒に。
私は、そっとスマホのアルバムを開いた。文化祭の準備中に、こっそり撮った彼の横顔。その写真を見つめながら、静かに、でも確かな決意を胸に刻んだ。
るるやいのりも、それぞれの部屋で、胸に灯った温かい気持ちを、大切な宝物のように抱きしめて眠りについた。
祭りは、終わった。
でも、それは決して物語の終わりではなかった。
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翌朝。
俺が目を覚ますと、スマホの通知ランプが激しく点滅していた。
画面を開くと、そこには、ヒロインたち全員からのメッセージが届いていた。
《不知火夜々》:『昨日はお疲れ様。……まあ、悪くないステージだったわよ。次は、もっと私を満足させなさい』
《葛城メグ》:『先輩!昨日はマジお疲れ様でした!最高の思い出です!で、次のコラボ配信、いつにします!?』
《真白みなと》:『おはよう。昨日はありがとう。……今日の朝ごはん、作りすぎちゃったんだけど、食べる?』
《白瀬るる》:『レイお兄ちゃん!きのうはありがとうございました!るる、また一つ、大人になれた気がします!』
《橘いのり》:『先輩、おはようございます。昨日は、ありがとうございました。……わたしの声、ちゃんと届きましたか?』
そして、ひよりからは。
《天城ひより》:『お兄ちゃん、おはよっ!今日の朝ごはん、何がいい?昨日の“約束”、忘れないでよねっ!』
その一つ一つのメッセージに返信しながら、俺は思わず、くしゃっと笑ってしまった。
(最高のヒロインたち、か……本当に、手に負えないな)
でも、その手に負えない日常が、たまらなく愛おしい。
祭りが終わって、また新しい一日が始まる。
この、騒がしくて、甘くて、どうしようもないくらい愛おしい日々こそが、俺の物語の、本当の舞台なのだから。