幕間:「はじめての『お兄ちゃん』」
⚫︎「再婚と、雨の日の傘」
お母さんの再婚が決まったとき、私は正直、あまりピンと来なかった。
だって、お父さんって呼ぶ人が変わるだけで、私の毎日はきっと変わらない――
そう思っていたから。
でも、引っ越したその日、私は“天城家”という知らない家の玄関で、知らない男の人と、知らない男の子に出迎えられた。
「ひよりちゃん、だよね。今日からよろしくね」
優しそうな声でそう言ったのは、新しいお父さん。
隣に立ってたのが――
「…………」
無言で、軽く頭を下げた中学生くらいのお兄さん。
それが、天城コウ。
私の“義理の兄”になった人だった。
最初は、何も話さなかった。
いや、話せなかった。
私は「兄妹」なんて初めてだし、彼もたぶん、戸惑ってたんだと思う。
でも……ひとつだけ、はっきり覚えてる。
その人の声が――とても、落ち着いてて、あたたかかった。
引っ越し作業の最中、ふと彼が母に話しかけた時。
「こっちはもう運んだから」
そのひとことだけだったのに、なんだか心臓が小さく跳ねたのを、私はまだ覚えてる。
学校でも、こっそりと“再婚”の話は広まってた。
「ひよりんってさ、新しいお兄ちゃんいるんでしょ?」
「えー? 血繋がってないのに、兄妹って変じゃない?」
……なんか、すごくモヤモヤした。
別に変じゃない。私は何も間違ってない。そう思ってるのに、なぜか胸の奥がざわざわした。
そんなある日。
梅雨の始まりだった。空はずっとどんよりしていて、私はうっかり傘を忘れたまま、学校を出た。
小さな体に、大粒の雨。
水たまりを避ける余裕もなくて、靴下までぐしょぐしょだった。
バス停の前で立ち尽くしていたら――
「……ひより」
突然、聞き覚えのある低めの声がした。
顔を上げると、そこには制服姿のコウ兄が立っていた。
「っ……お兄ちゃん……?」
いや、当時はまだ“お兄ちゃん”なんて呼んだことなかった。
私は彼を「天城くん」って、どこか他人行儀に呼んでたはずなのに。
そのとき、なぜか自然と口をついて出てしまったのだ。
「……傘、忘れたの」
そう言った私に、彼は無言で、自分の傘を差し出した。
「入れ。濡れるぞ」
ほんのひと言。
でも、それがとても――嬉しかった。
ふたりで一つの傘に入って歩く道。
「……濡れない?」と聞いたら、彼は小さく首を横に振った。
「……ひよりってさ、名前変わってるけど……なんか、似合ってるな」
ぽつりと言われて、私は驚いた。
だって、誰にも名前のことなんて褒められたことなかったから。
「……ありがと」
耳まで熱くなって、私はうつむいた。
なんでだろう。名前を褒められただけなのに、胸が、ずっとドキドキしてた。
雨の音に紛れるように、小さく心臓の音が聞こえる気がして。
横を歩くその人が、ちょっとだけ“特別”に思えて――
この時、たぶん私は、もう“家族”以上の何かを求めてたのかもしれない。
家に着いたとき、私の髪は少しだけ濡れていた。
「風邪、ひくなよ」
そう言って、彼がタオルを持ってきてくれた。
その声がまた、やさしくて。
……ああ、この声、きらいじゃない。
この人のとなり、居心地がいい――って思った。
だから、私は小さな声で尋ねてみた。
「……お兄ちゃん、って、呼んでもいい?」
彼はちょっとだけ目を丸くして――
「……うん」
静かに、でもしっかりとうなずいた。
その瞬間。
私は、世界がすこしだけ、きれいに見えた気がした。
ーーー
⚫︎「その声が、わたしを救った」
それからの毎日は――静かで、やさしくて、でも、少しだけくすぐったかった。
「ひより、朝だぞ」
低くて優しい声で起こされるのも、
「忘れ物ないか?」って学校の前で言われるのも、
いちいち胸がきゅってなるから、困る。
だって、そんな“お兄ちゃん”の声が、
ずっと耳に残って離れないんだもん。
それでも、まだ私は“義理の妹”って立場に遠慮してた。
遠慮して、甘えることも、わがまま言うことも控えてた。
あの人は、たぶんそんな私の気配にも気づいてたと思う。
でも、何も言わずに、ただ“そばにいてくれる”だけだった。
……それが逆に、苦しくなる日もあった。
その日は、学校でちょっとしたトラブルがあった。
グループの子たちと意見が合わなくて、私が言った言葉が原因で――
「ひよりって、空気読めないよね」とか
「声可愛いからって、調子に乗ってんじゃないの」とか。
そう言われたとき、私は何も言い返せなかった。
言葉に詰まって、ただ笑ってごまかすことしかできなくて。
夕方、家に帰って、自分の部屋のベッドにうつ伏せになって、
ようやく――泣いた。
枕が濡れるくらい、わんわん泣いた。
でも、誰にも気づかれたくなかった。
だって、泣いてるところを見られるの、恥ずかしいから。
でも――。
「ひより、入るぞ」
その声に、びくっと体が跳ねた。
入ってきたのは、もちろん……お兄ちゃんだった。
「……っ、入らないでって言ったでしょ!」
思わず怒鳴ってしまったけど、それでも彼は、
静かに私の隣に座って、何も言わずに待ってた。
やさしい沈黙。
それが、逆に涙を誘うってこと、知ってる?
「……泣くなよ、なんて言わない。でも、全部抱え込むのはなしだ」
彼の声が、落ち着いた低さで響いた。
「……泣いていい時くらい、ちゃんと泣いていいんだよ」
その瞬間、私は――壊れた。
「……っ、うわぁぁぁん……っ!」
彼の制服の袖をぎゅっと掴んで、私は子どもみたいに泣いた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……私が悪かったのかな……っ」
そう言った私に、彼は、そっと頭を撫でてくれた。
優しい手のひらが、髪を何度もなでてくれるたびに、
私は“わたし”に戻っていく気がした。
「ひよりは、悪くない」
彼はそう言ってくれた。
「誰かを思って言ったことなら、それでいい。たとえ誤解されたとしても」
「でも、傷ついたなら、それはちゃんと悲しんでいいことだろ?」
その言葉に、私はまた涙がこぼれて、
でも、不思議と、少しだけ笑えた。
「……ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
「私、いつか……お兄ちゃんみたいに、なれるかな」
「……どんな意味で?」
「んー……強くて、優しくて、声がかっこよくて、でもドジでちょっと鈍感で……」
「悪口入ってないか?」
「ふふっ。ちょっとだけね」
笑ってから、私はぽつりと言った。
「……私ね、たぶん、お兄ちゃんの声が、世界で一番好き」
彼は、それを聞いて――
「……ありがとな」
ちょっと照れくさそうに、でも本当にうれしそうに、笑った。
その顔を見た瞬間。
胸がぎゅーってなって、わけもなく、顔が熱くなった。
その夜。寝る前。
私は初めて、こっそり録音していた“お兄ちゃんの声”を聴いた。
「ひより、朝だぞ」
「風邪ひくなよ」
「泣いてもいいんだよ」
優しいその声に包まれて、私は、夢の中でまた彼の名前を呼んだ。
――“お兄ちゃん”って呼べることが、こんなに幸せだなんて。
私はきっと、もうあのときから、
お兄ちゃんに恋してたんだ。
ーーー
⚫︎「はじめての『お兄ちゃん』」
それからの私は、ちょっとだけ変わった。
毎朝「おはよう、お兄ちゃん」って言えるようになったし、
学校で嫌なことがあっても「お兄ちゃんの声聞けば大丈夫」って思えるようになった。
……ううん、たぶん、それだけじゃない。
きっと私は――お兄ちゃんを“独り占め”したくなってたんだと思う。
お兄ちゃんってね、すごく天然で。
クラスの女の子に「声、かっこいいですね!」って言われてても、
「え? 俺? いや、普通じゃない?」とか平気で返しちゃう。
道に迷って泣いてる子どもを助けたり、
スーパーで荷物落としたおばあちゃんをさりげなく拾ったり。
そういう“かっこよさ”を、本人は全然わかってない。
だから、心配になっちゃうの。
ある日、休日に一緒にショッピングモールへ行くことになった。
お兄ちゃんが新しいイヤホンを見たいって言うから、ついていっただけなのに……
「えっ、妹さん? かわいい~!」
店員さんのお姉さんが私を見て、ニコニコと話しかけてきた。
「お兄さん、彼女さんと来たのかと思っちゃった♪」
「いやいや、妹です」
お兄ちゃんは笑って否定したけど……
そのあとでお姉さんがちょっとだけ、さみしそうな顔をしたのを、私は見逃さなかった。
――あれ、イヤだった。
なんでかわからないけど、イヤだった。
だって、あの人、私のお兄ちゃんなんだよ?
誰にも渡したくない。
笑ってる顔も、優しい声も、私だけのものだったらいいのに。
帰り道、私はちょっと黙り込んでた。
お兄ちゃんは「どうした?」って心配してくれたけど、
本当のことなんて言えなかった。
『店員さんに嫉妬してました』なんて、子どもっぽすぎて言えないし。
その夜、私はちょっとした“作戦”を決行することにした。
――“甘える妹モード”全開作戦、だ。
「お兄ちゃん、今日寝る前に絵本読んで?」
「え、もう小学生なんだろ? 自分で読めるじゃん」
「でもでも! お兄ちゃんの声で聞きたいの!」
ちょっと強引にお願いして、布団の中で待っていると……
ほんとに来てくれた。
そして、低くて柔らかい声で、「にじいろのさかな」を読み始めてくれた。
――だめだ、ずるい。この声、やっぱりずるいよ。
目を閉じると、耳にだけ“お兄ちゃん”が入ってくる。
この空間に二人だけ、閉じ込められてるみたい。
「……もう寝たか?」
「寝てませーん」
「そっか、じゃあ続き……」
「お兄ちゃん」
「ん?」
「……ずっと、わたしのお兄ちゃんでいてくれる?」
ちょっとだけ、間が空いた。
でも、お兄ちゃんは――ゆっくりと、うなずいてくれた。
「もちろんだよ」
「他の誰かのじゃなくて、わたしだけの、お兄ちゃんだよ?」
「ひよりが望む限り、俺はひよりのお兄ちゃんだよ」
その言葉を聞いた瞬間――私の中の何かが、決まった。
「……じゃあ、決めた。わたし、大きくなったらお兄ちゃんのお嫁さんになる」
「お、おい」
「いいの、決めたの! だからそれまで、ずっと隣にいてね」
「……そ、それは……」
「お兄ちゃん、拒否しちゃダメ」
「わかったよ、じゃあ、ひよりが高校生になるまで保留ってことで」
「うんっ!」
小さな恋の約束は、あの夜――布団の中、
お兄ちゃんの声に包まれた空間の中で、そっと結ばれた。
大人になった今も、覚えてる。
あの声。あの約束。
……でも、今はまだ言えない。
この気持ちを“恋”だって口にするには、少しだけ、勇気が足りないから。
だけど、いつか。
いつかぜったい、またあの声で言ってほしい。
「お前は、誰より大切な妹だ」って。
――ううん、違う。
「妹」じゃなくて、
「一人の女の子として、大切にするよ」って。
その日を、私はずっと待ってるんだ。
ーーー
⚫︎「“好き”って言えない距離で」
中学生になった私は、少しだけ“大人っぽく”なったと思う。
身長も伸びて、制服のスカートも少し長くなって、
クラスの男子に「お前、雰囲気変わったな」なんて言われたりして。
だけど――
お兄ちゃんの前に立つと、どうしてだろう。
私は、今でも小学三年生の頃に戻っちゃう気がする。
「なぁ、ひより。お前最近、ずいぶん配信頑張ってるらしいな?」
夕飯のあと、リビングでお兄ちゃんが笑いかけてきた。
あの優しい声。耳がくすぐったくなる。
「う、うん……ありがとう、見てくれてるの?」
「たまにな。あの“ひよこまる”ってキャラ、けっこう癒し系で良いと思う」
「~~~っ! そ、それ言わないでよっ、恥ずかしい!」
「なんでだよ。可愛いと思うけどな?」
……ずるい、そういうの。
冗談じゃなく言ってくるの、反則。
心臓がきゅってなる。鼓動が速くなるのが自分でもわかる。
でも、私はもうあの夜みたいに
「お兄ちゃんのお嫁さんになる」なんて、言えない。
だって、今の私は――
お兄ちゃんの隣に立つには、まだまだ子どもすぎるから。
お兄ちゃんは大学生になって、
一人暮らしを始めて、なんだか急に“遠く”なった。
前みたいに、すぐ隣で声が聞けるわけじゃない。
帰ってくる日も、まちまち。
それに、大学の話をしてるときの笑顔――
知らない人たちの中で楽しそうにしてるその顔が、
少しだけ“私の知らないコウくん”に見えて、苦しくなる。
ある日、私は自分の配信でポロッと口にしてしまった。
《ひよこまる♪》:「……お兄ちゃんの声、最近聞いてないなぁ」
それだけで、コメント欄が一気にざわついた。
『え、ひよこまるって“兄”いたの!?』
『リアル兄好きとか尊い』『ガチ実話なの?』『台本???』
焦って話題を変えたけど――
「やっちゃった……」
マイクをオフにしたあと、私は崩れるようにソファに倒れ込んだ。
泣きたくなった。
ううん、ちょっと泣いた。
自分の気持ちが、自分でも制御できなくなってるのが悔しくて。
でも、数分後。
スマホに着信が来た。
《コウにぃちゃん》
その表示に、心臓が跳ねた。
「……もしかして、配信見てた?」
『ああ。……ひより、疲れてるか?』
その声が、優しくて、柔らかくて――
私の中の感情が、堰を切ったようにあふれ出した。
「ううん、だいじょぶ……だいじょぶ、だから……」
『無理すんな。お前は、頑張りすぎるとすぐ崩れるクセあるからな』
「……っ、そんなこと、ないもん」
『あるよ。俺、ずっと見てきたし。』
――ずるい。なんでそんなに、
私の弱いところ、ちゃんとわかってくれるの。
「……ねぇ、お兄ちゃん」
『ん?』
「わたしの声、ちゃんと届いてる?」
『届いてるよ。ひよりの声、誰よりも』
「そっか……なら、よかった……」
たったそれだけで、世界がやさしくなった気がした。
お兄ちゃんの“声”は、私にとって
世界でいちばんのおまもりなんだ。
だけど、もう一つだけ。
もう一つだけ、わがままを言ってもいい?
「……また、会いたいな」
『今週末、ちょうど帰るつもりだった。実家、掃除して待っててくれ』
「うんっ……!」
電話を切ったあと、私は思わず、
スマホを抱きしめてベッドにダイブした。
会える――お兄ちゃんに、会える。
でも、きっと私はまた“好き”って言えない。
だってそれは、妹のくせにって、言われちゃいそうだから。
でもね、お兄ちゃん。
私、ちゃんと“女の子”として見てもらえるように、頑張るから。
きっといつか、「妹だから」じゃなくて――
「ひよりだから」って、言ってもらえるように。
……そのときまで、待っててね。
ーーー
⚫︎「一番近くて、遠い存在」
春が来る。
桜のつぼみが膨らみはじめて、制服のリボンも新しくなる。
あと数日で中学を卒業する私は、
鏡の中の自分を見つめながら、そっとため息をついた。
「……あれ、もう少し大人っぽくなってると思ったのに」
頬に手を当ててみるけれど、
中学生らしい丸みはまだ残っていて、どこか頼りない。
でも、私は知ってる。
自分の心だけは、あのときより――
お兄ちゃんに出会った日より、ずっと強くなったって。
中三の秋、私ははじめて泣いた。
“誰かに恋をしてしまった自分”に気づいて、
どうしようもなく胸が苦しくなって、
逃げるように配信を休んだ日があった。
言い訳はたくさんあった。
テスト期間だったから。
風邪を引いていたから。
ちょっと機材トラブルがあって。
でも本当は違う。
お兄ちゃんが、大学の女友達と映っているSNSの写真を見て――
勝手に拗ねて、勝手に落ち込んで。
“妹”のくせに、そんな感情を持った自分が嫌になった。
「ひより、最近どうした?」
ある日、お兄ちゃんが唐突に電話をくれた。
『声が聴きたくなった』なんて、
さらっと言うから、もうやめてって思った。
そんなふうに優しくされたら――
“妹”でいるのが、どれだけ苦しいか知らないくせに。
「……ごめんね。最近、ちょっと自分がわからなくて」
そう答えると、お兄ちゃんは一拍置いてから、
柔らかい声でこう言った。
『ひよりが、ひよりである限り……俺は大丈夫だよ』
その一言で、涙が止まらなくなった。
卒業式の前夜、私は決意した。
この気持ちを、隠したままじゃいられない。
“妹”の仮面を被ったまま、
お兄ちゃんの隣にいたくない。
だから、私は――
いつか本当の“ひより”として、彼の隣に立つんだ。
そのために、私は決めた。
高校進学を機に、Vtuberとして本格始動する。
今までは趣味だった活動を、
自分の「声」で誰かを癒やす、本気のステージに変える。
お兄ちゃんみたいに。
あの日、私を笑わせてくれた“コウくん”みたいに。
いつか、彼に追いつくために。
そして――
春のある日。
私の部屋で、制服姿のまま彼に向かって言った。
「ねぇ、お兄ちゃん。わたし、Vtuber、本気で頑張るから」
「うん、応援してるよ」
「……だから、声が出せなくなったときは――」
「?」
「そのときは……お兄ちゃんに、“中の人”やってほしいな」
一瞬、彼は驚いた顔をした。
でもすぐに、あの優しい笑みを浮かべて、
「任せとけ」と言ってくれた。
その瞬間、私の“恋”は、未来に繋がった。
まだ言えない。
“好き”なんて言葉、きっと重すぎるから。
でも、私はちゃんと、
この距離を越える準備をしてる。
だから待ってて、お兄ちゃん。
“妹”から“パートナー”になって、
いつか――“恋人”になれる日まで。
私は、あなたのいちばん近くで、
いちばん遠い場所から、走り続ける。
それが、私の“恋”のスタートライン。
──そして、この物語の“はじまり”のページ。