『文化祭前夜、二人きりの“約束”』
文化祭前日の夜。
LinkLive事務所のイベントスペースは、祭りの前の独特な静けさと、心地よい達成感に満ちていた。壁には各チームが作り上げた装飾が施され、床にはペンキの匂いや木材の香りがかすかに残っている。数時間前までの喧騒が嘘のように、今はただ、スポットライトだけがステージの中央をぼんやりと照らしていた。
「――お疲れ様でしたー!」
「メグ、また明日ねー!」
「夜々先輩、お先に失礼します」
メンバーたちが、一人、また一人と帰路についていく。誰もが疲労と、明日への期待が入り混じった、最高の笑顔を浮かべていた。その背中を見送りながら、俺、天城コウは、ステージの袖で最後の備品チェックリストにペンを走らせていた。
(……終わったな、準備)
長かったようで、あっという間の二週間だった。ひよりの喫茶店のメニューに頭を悩ませ、夜々先輩の演劇の無茶振りに応え、みなとさんのお化け屋敷のギミックに感心する。目まぐるしくて、胃が痛くて、でも、どうしようもなく楽しかった日々。
リストの最後の項目にチェックを入れ、ふぅ、と息をつく。静まり返った事務所は、少しだけ寂しい。
「……お兄ちゃん」
不意に、背後からか細い声がした。
振り返ると、そこにひよりが立っていた。帰り支度を終えたはずの彼女が、二つのマグカップを両手に、少しだけ不安そうな瞳でこちらを見ている。温かいココアの湯気が、ステージのスポットライトに照らされて、きらきらと立ち上っていた。
「ひよりこそ。……どうしたんだ、こんな時間まで。先に帰ってよかったのに」
「……うん、ちょっと……話したくて」
彼女はそう言うと、俺の隣に歩み寄り、一つのマグカップをそっと差し出してきた。その指先が、かすかに震えている。
ーーーーー
ダメだ。顔が、ちゃんと見れない。
文化祭の準備、すっごく楽しかった。お兄ちゃんとるるちゃんと、三人で一つのものを作るの、夢みたいだった。
でも、楽しければ楽しいほど、胸の奥がチクって痛むんだ。
喫茶店の準備中、お兄ちゃんは夜々先輩のチームに呼ばれて、演劇の助言をしてた。その時の、二人の距離がすごく近くて。夜々先輩が、お兄ちゃんのネクタイをくいって引いて、耳元で何かを囁いてた。演技指導だって、分かってる。でも、その時の夜々先輩の目は、演技なんかじゃなかった。
お化け屋敷のチェックに行ったときもそう。みなとさんと、専門的なプログラミングの話で盛り上がってて。私が知らないお兄ちゃんの顔。私が入れない、二人の世界。
ドラフトで、お兄ちゃんと同じチームになれて、天国みたいに嬉しかったのに。
現実は、少しだけ違った。お兄ちゃんは、チームひよりの“お兄ちゃん”であると同時に、“みんなのレイくん”だった。
分かってる。お兄ちゃんは優しいから。誰にでも手を差し伸べる。それがお兄ちゃんのいいところだって、誰よりも私が知ってる。
でも、この祭りが終わったら?
また、日常が戻ってくる。お兄ちゃんが、私だけの“お兄ちゃん”じゃなくなってしまう、あの日常が。
それが、怖くて、寂しくて……たまらないの。
ーーーーー
俺は、彼女の瞳の奥に揺れる寂しさを、痛いほど感じ取っていた。差し出されたココアを受け取ると、その温かさが、今の彼女の心そのもののように思えた。
「お兄ちゃん……」
ひよりが、意を決したように口を開く。
「明日、文化祭が終わったら……少しだけ、時間くれる?」
その声は、夜の静寂に溶けてしまいそうなくらい、か細く震えていた。
ステージの成功を願う気持ちと、その先にある“終わり”を恐れる気持ち。その二つが、彼女の中でせめぎ合っている。
俺は、黙ってココアを一口飲んだ。甘くて、優しい味が、疲れた体に染み渡る。そして、静かに口を開いた。
「……ああ、いいよ」
その答えに、ひよりの肩からふっと力が抜けるのが分かった。
「でも、ただ時間をやるだけじゃつまらないだろ?」
「え?」
俺は、悪戯っぽく笑ってみせた。
「前に、ボイスドラマの練習したの、覚えてるか?」
その言葉に、ひよりの肩が、びくりと跳ねた。
あの、リビングで二人きり。唇が触れるか触れないかの、あの甘くて苦い練習の記憶。忘れるわけがない。
俺は、彼女の瞳をまっすぐに見つめて、続けた。
「もし、明日の文化祭が……ひよりが満足できるくらい、最高のステージにできたら」
一呼吸置いて、俺は告げた。
「……あの時の“約束”、少しだけ、先に進めてやってもいい」
それは、紛れもなく、あのキスシーンの練習の“続き”を意味していた。
しかも今度は、“練習”としてではない、というニュアンスを込めて。
その言葉の意味を理解した瞬間、ひよりの大きな瞳から、ぽろり、と大粒の涙が一粒、こぼれ落ちた。
でもそれは、さっきまでの不安に濡れた涙ではなかった。
「……うんっ!」
彼女は、マグカップをぎゅっと握りしめ、涙で濡れた顔のまま、最高の笑顔で力強く頷いた。
「絶対、成功させる!お兄ちゃんが、世界中のみんながびっくりするくらい、最高のステージにするから!」
その顔には、もう迷いの欠片もなかった。俺のたった一言が、彼女の心に、明日へ向かうための、何より強い光を灯したのだ。
しかし。
その甘い約束の瞬間を、物陰から静かに見つめる影があった。
――不知火夜々。
忘れ物を取りに事務所へ戻った彼女は、偶然、ステージ袖で交わされる、コウとひよりのやり取りの全てを目撃してしまったのだ。
ーーーーー
……天城くん。
あなた、あの子にだけは、あんな顔をするのね。
まるで、宝物に触れるかのような、優しい手つき。慈しむような、温かい眼差し。
私には決して向けられることのない、特別な、甘い空気。
……胸の奥が、焼けるように熱い。
これが、“嫉妬”という感情なのね。年上としてのプライドも、女王としての矜持も、この熱の前では、なんて無力なのかしら。
“練習の続き”ですって?ふざけないで。
あの子があなたに焦がれる気持ちが本物なら、この私の、あなたを求める気持ちだって、嘘じゃない。
いいわ……望むところよ。
私は静かに踵を返し、音を立てずに暗い廊下へと消える。その瞳には、穏やかならぬ決意の炎が、静かに、しかし激しく燃えていた。
明日のステージ。そこで、思い知らせてあげる。
ひよりちゃんが“約束”という名の未来に夢を見ているのなら、私は“今、この瞬間”の熱で、あなたの心を奪ってみせる。
本当にあなたの心を奪うのが、健気な妹(あの子)なのか、それとも、すべてを支配する女王(この私)なのかを。
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コウとひよりの、二人だけの“約束”。
それを目撃してしまった、夜々の“決意”。
そして、何も知らずに、それぞれの部屋で、それぞれの想いを胸に眠りにつく、みなと、メグ、るる、いのり。
文化祭前夜。
それぞれの恋心が、静かに、しかし確実に頂点へと達していく。
物語は、もう誰にも止められない速度で、運命の当日へと突き進んでいくのだった。