プロローグ GMは俺!?賽は投げられた!
夏の盛りも過ぎ、LinkLive事務所の窓から見える空に、ほんの少しだけ秋の気配が混じり始めた九月のある日の午後。
俺――天城コウは、事務所の共有ラウンジで、ようやく訪れた穏やかな時間を噛みしめていた。隣のソファでは義妹のひよりがスマホで次の配信ネタをリサーチしており、その向かいではメグが何やら熱心にノートPCに向かっている。上の階から時折聞こえてくる夜々先輩のバイオリンの音色も、今ではすっかり日常の一部だ。
『ご近所ハーレム』なんていう、ラノベのタイトルみたいな生活が始まってからというもの、俺の日常は常に誰かの気配と、甘くて騒がしいハプニングに満ちていた。風邪を引けば三方向から看病され、親が来れば修羅場と化し、ボイスドラマの練習をすれば唇が触れる寸前までいく。……うん、やっぱり平穏とは言い難い。
だが、不思議と、その騒がしさが心地よいと感じ始めている自分もいた。
「――はい、皆さん、お待たせしましたーっ!」
そんな感傷に浸る俺の思考を、ラウンジのドアを勢いよく開ける音と、底抜けに明るい声が打ち破った。声の主は、我らがマネージャー・神代カオルさん。その手には分厚い企画書の束。そして、その笑顔は、これから何かとてつもなく面倒なこと……いや、面白いことが始まるときの、いつもの笑顔だった。
「次の大型コラボ企画が、ついに社長決裁おりましたー!」
神代さんはそう高らかに宣言すると、テーブルの中央に企画書をドサリと置いた。その場の全員の視線が、自然と表紙に吸い寄せられる。
【LinkLive秋の特別配信企画『サイコロ片手に異世界転生!?VチューバーたちのTRPG奮闘記』】
「……てぃーあーるぴーじー……?」
ひよりが、不思議そうに首をかしげる。
「テーブルトーク・ロールプレイングゲームの略だよ、ひよりちゃん!電源を使わない、会話とサイコロと想像力で進めるアナログのRPG!今、V界隈でめちゃくちゃ流行ってるやつ!」
すかさず解説を入れたのは、もちろんメグだ。その目は、すでに企画書に釘付けになり、キラキラと輝いている。いや、ギラギラ、という方が正しいかもしれない。
「ふぅん……つまり、盤上の遊戯ということかしら。まあ、悪くないわね。頭脳戦は得意な方よ」
いつの間にかラウンジに現れていた夜々先輩が、腕を組んで涼しい顔で言う。その言葉に、同じくどこからともなく現れたみなとさんも静かに頷いた。
「……なるほど。プレイヤーの個性とアドリブ力が試されるコンテンツ、ということですね。データ収集の観点からも興味深いです」
「るる、サイコロ振るの、大好きです!」
「わ、わたしも……皆さんと一緒に、物語を作れるなら……参加、してみたいです……」
るるちゃんといのりちゃんも、興味津々といった様子でテーブルを覗き込んでいる。
ヒロインたちの反応は上々。企画自体は、確かに面白そうだ。Vチューバーの配信コンテンツとして、それぞれの個性を存分に発揮できるだろう。
……そう、問題は、ただ一つ。企画書の二枚目に書かれていた、とある一文だった。
【ゲームマスター(GM):レイ】
「………………はい?」
俺は、自分の目を疑った。俺が、GM?物語の進行役であり、審判であり、このゲーム世界の神、だと?
冗談じゃない。俺はプレイヤーとして、のんびり村人Aでも演じていたいんだ。
「か、神代さん。これ、何かの間違いでは……?俺、TRPGなんてやったことありませんし、そもそも進行役なんて柄じゃ……」
「大丈夫、大丈夫!」
神代さんは、俺の肩を力強くバンバンと叩いた。
「今回の企画で一番重要なのは、プレイヤーたちがどれだけ自由に暴れられるか、なのよ。そのためには、どんな無茶振りにも対応できて、どんなカオスな状況でも最終的に物語をまとめ上げられる、強靭な精神力と柔軟な対応力を持つGMが必要不可欠なの」
「……それ、俺じゃなくて月詠ルイ先輩とかの方が適任じゃないですか?」
「ルイくんはね、プレイヤーとして参加してもらうの。彼、サイコロ振ると絶対に変な目しか出さないから、そっちの方が面白いんだ」
「ひどい!」
逃げ道が、ない。俺が絶望に打ちひしがれていると、ヒロインたちからの追い打ちが始まった。
「お兄ちゃんがGMなの!?やったー!じゃあ、ひよりがどんなことしても、優しく許してくれるよね?」
ひよりが、キラキラした瞳で俺の腕に抱きついてくる。その瞳には「お兄ちゃんなら私のワガママ全部聞いてくれるよね?」という無言の圧力が込められている。
「コウくんがGMとか、最高じゃないですか!神采配!これで心置きなく、最高のロールプレイに没頭できるッス!」
メグはすでにガッツポーズだ。彼女の言う「最高のロールプレイ」が、シナリオを根底から覆すような無茶苦茶なものであることは、想像に難くない。
「ふふ、天城くんがGMですって?……まあ、いいわ。あなたなら、私の壮大な物語を、きちんと描写してくれるでしょうから」
夜々先輩は、不敵な笑みを浮かべている。彼女の言う「壮大な物語」とは、十中八九、世界征服の物語だろう。
俺は、助けを求めるように神代さんを見た。しかし、彼女はにっこりと微笑むと、こう言い放った。
「というわけで、決定でーす!GMのコウくんには、シナリオ作成からお願いするわね!参考資料、あとで送っておくから!」
「ええええええええええ!?」
俺の悲鳴は、ヒロインたちの歓声にかき消された。
こうして、俺の意思とは完全に無関係に、LinkLive史上最大級のカオス企画の、最高責任者に任命されてしまったのだった。
◇
それから数日間、俺は地獄を見た。
大学の講義の合間を縫ってTRPGのルールブックを読み込み、初心者でも楽しめるような王道のファンタジーシナリオを夜なべして書き上げた。
タイトルは『笑顔のクリスタルを取り戻せ!~魔王に支配されたお菓子な国~』。うん、我ながら分かりやすくて平和なシナリオだ。これなら、あいつらが多少暴走しても、軌道修正は可能なはず……。
そして迎えた、キャラクター作成の日。
事務所の会議室に集まったヒロインたちは、それぞれキャラクターシートを手に、目を輝かせていた。俺はGMとして、彼女たちの創造の物語に、一抹の不安を抱きながら耳を傾ける。
「はいはーい!じゃあ私から!ひよりのキャラクターはね……」
ひよりが自信満々に差し出したキャラクターシート。そこに描かれていたのは、白銀の鎧に身を包み、大きな剣を携えた、凛々しい女騎士のイラストだった。
名前:ヒヨリ・アマギ
職業:聖騎士
設定:幼い頃に生き別れた、世界で一番大好きなお兄ちゃんを探して旅をしている。お兄ちゃんは、優しくて、強くて、黒髪で、ちょっとだけ鈍感。口癖は「お兄ちゃん、どこにいるのー!」。兄以外の人間には基本的に興味がない。
ステータス:筋力MAX、体力MAX、信仰心MAX。……知力と知覚は、初期値のまま。
「……ひより。お前のキャラクター、完全に俺を探すことしか考えてないだろ」
「えへへ、バレた?」
「バレバレだよ!というか、知覚が低いから、たぶん目の前に俺がいても気づかないぞ、こいつ!」
「大丈夫!愛があれば見つけられるもん!」
愛は万能じゃないんだよ……。俺は早くも頭痛を覚えながら、次のキャラクターシートに目を移した。
次は、夜々先輩だ。彼女は優雅な手つきで、芸術的なまでに美しい魔女のイラストが描かれたシートを差し出した。
名前:ノワール・フォン・クロエ
職業:魔女王
設定:没落した王家の末裔にして、古の魔術を操る気高き女王。世界を自らの美意識で染め上げるため、魔王の地位すらも奪い取ろうと画策している。美しいものと、自分に傅く忠実な下僕をこよなく愛する。
ステータス:知力MAX、魔力MAX、カリスマMAX。……協調性は、ゼロ。
「……先輩。これ、主人公パーティのメンバーじゃなくて、ラスボスの設定じゃないですか?」
「あら、失礼ね。私はただ、自分の望む結末を、自分の手で掴み取りたいだけよ。そのためには、魔王すらも私の駒にするわ」
ああ、もうダメだ。この人、絶対にシナリオを乗っ取りに来る。俺は胃のあたりをそっと押さえた。
そして、メグ。彼女は、もはやキャラクターシートというより、何かのグッズの企画書のようなものを提出してきた。
名前:メグ・ラブリィ
職業:トレジャーハンター(盗賊)
設定:伝説のアイドルグループ“LinkLive STARS”の初代センターが使っていたとされる、伝説の武具「セイクリッド・ライトスティック」と「ゴッドコール・うちわ」を探し求める、俊足の盗賊。どんな危険な罠よりも、限定グッズの売り切れの方が怖い。
ステータ-ス:敏捷性MAX、幸運MAX、手先の器用さMAX。……物欲も、MAX。
「メグ……お前のキャラクター、目的が清々しいほどに不純だな……」
「当たり前じゃないですか!冒険の目的は、名声でも平和でもない!“推し”への愛ッスよ!」
たぶん、魔王が限定グッズを持っていたら、彼女はあっさり世界を売るだろう。
みなとさんは、弓を携えた、物静かなエルフの狩人だった。
名前:シロ
職業:レンジャー
設定:森の奥で、自然と共に生きてきた孤高の狩人。世界の異変を感じ取り、森を出ることを決意した。口数は少ないが、料理が得意で、どんなモンスターの肉でも美味しく調理できる。
るるちゃんは、案の定、動物たちを率いた小さな獣使い。
名前:るるんぱ
職業:ビーストテイマー
設定:すべての動物と心を通わせることができる、心優しき少女。モンスターは倒すものではなく、友達になるものだと信じている。口癖は「みんな、お友達になろ?」
そして、いのりちゃんは、フードを目深にかぶった、ミステリアスな預言者。
名前:イノリ
職業:オラクル
設定:未来を見通す力を持つとされるが、その言葉は常に断片的で謎めいている。「星が囁いています……『たぶん、右』と……」といった、曖昧な神託で仲間を導く(混乱させる)。
……うん。パーティが、完成した。
兄を探すことしか頭にない脳筋聖騎士。
世界征服を企むラスボス系魔女王。
推しグッズのためなら何でもする物欲盗賊。
寡黙なグルメハンター。
モンスターと友達になりたい平和主義者。
そして、方向音痴な預言者。
俺は、目の前に並べられた、あまりにも個性的すぎるキャラクターシートの束を眺めながら、静かに目を閉じた。
俺が心血を注いで書き上げた、心温まる王道ファンタジーシナリオ『笑顔のクリスタルを取り戻せ!』。そのシナリオが、このメンバーの手によって、跡形もなく破壊される未来しか見えない。
「……神様。俺に、このカオスなパーティを導く力を、そして、最後まで耐えきれるだけの強靭な胃袋をお与えください……」
俺の悲痛な祈りは、会議室の喧騒にかき消された。
ひよりが「お兄ちゃん、私のキャラ、もっと強くしていい?」と無邪気に言い、夜々先輩が「私の初期装備は、この“魅了のティアラ”でよろしくてよ」と当然のように要求し、メグが「GM!最初の街に“アニメイト”はありますか!?」と目を輝かせて尋ねてくる。
ああ、もうダメだ。
賽は、とっくに投げられていたのだ。俺がGMに任命された、あの瞬間に。
かくして、視聴者の爆笑と期待、そしてただ一人のGMの絶望と胃痛を乗せて、LinkLive史上、最も予測不能な冒険の幕が、上がろうとしていた。