マイクに乗せた、演技じゃない“好き”
収録当日。
LinkLive本社の地下にある第3スタジオは、プロの仕事場特有の、静かで張り詰めた空気に満ちていた。壁一面に貼られた吸音材が、外の世界の音をすべて遮断している。ガラスの向こう側では、ディレクターや音響スタッフが、こちらを真剣な眼差しで見つめていた。
「……おはよう、お兄ちゃん」
「……おう、おはよう」
防音ブースの中で、俺とひよりはぎこちなく挨拶を交わした。昨夜の“寸止め事件”以来、俺たちはまともに目を合わせることができずにいる。一つ屋根の下、朝食の時も、家を出る時も、ずっと微妙な距離感が続いていた。
(やばい……意識、しすぎだろ、俺……)
目の前にある、高性能なコンデンサーマイク。その向こう側に立つ、ひより。今日の彼女は、学校の制服ではなく、少しだけ大人びて見える白いブラウスを着ていた。髪も、いつもより丁寧に巻かれている気がする。その一つ一つが、俺の心臓を無駄に刺激してくる。
(どうしよう、お兄ちゃんの顔、ちゃんと見れない……。でも、今日だけは、絶対に“ゆうか”になりきらなきゃ。ゆうかの、ううん……“わたし”の気持ちを、ちゃんと声に乗せなきゃ……!)
ひよりがヘッドホンをつけながら、ぎゅっとスカートの裾を握りしめているのが見えた。彼女もまた、俺と同じか、それ以上に緊張しているのだ。
「――では、テストから入ります。最初のシーンから、軽く声を出してみてください」
ガラスの向こうから、ディレクターの声がヘッドホンに響く。
俺たちは頷き合い、台本に目を落とした。
赤く灯る「RECORDING」のランプ。
その光が、まるで舞台の幕開けの合図のように見えた。
収録は、驚くほど順調に進んだ。
一度マイクの前に立てば、俺たちはプロだ。昨夜までの気まずさが嘘のように、俺は“拓海”に、ひよりは“ゆうか”に、ごく自然に入り込むことができた。
いや、順調すぎた、と言った方が正しいかもしれない。
「……すごいな、二人とも。今日の演技、神がかってるぞ」
休憩中、ディレクターがブースに顔を出して、感嘆の声を漏らした。
「なんていうか……リアルすぎるんだよ。本当にそこに“拓海”と“ゆうか”がいるみたいだ。特に、お互いを見る時の、ちょっとした息遣いとか……」
俺とひよりは、顔を見合わせ、曖昧に笑うことしかできなかった。
違うんです、ディレクター。それは神がかった演技なんかじゃない。
昨夜の練習で、お互いの心に火をつけたまま、消化不良でここにいる、ただの兄妹の“素”なんです、と。
そして、物語はクライマックスへと向かっていく。
雨の夜、ずぶ濡れになったゆうかを拓海が抱きしめ、想いを告げるシーン。
俺たちは、マイクの前で再び向き合った。
「……ひより、大丈夫か?」
俺が小声で尋ねると、彼女は力強く頷いた。その瞳には、もう迷いはなかった。
収録再開。
俺は、台本のセリフを、すべての感情を込めて紡いだ。
「……もう、妹だなんて思えない。一人の女の子として、お前が好きだ」
ひよりが、息を呑むのが分かった。
そして、震える声で、最高の告白を返してきた。
「……わたしも。ずっと、ずっと前から……お兄ちゃんが、好きでした」
その声は、完全に“ゆうか”であり、そして、紛れもなく“ひより”自身の声だった。
ガラスの向こうで、スタッフたちが息を呑んでいるのが気配で分かる。
そして、ついに最後のト書き。
『――見つめ合う二人。拓海は、ゆうかの濡れた頬にそっと手を添え、ゆっくりと顔を寄せる。そして、深く、長いキスを交わす』
来た。
俺とひよりは、視線を交わした。
昨夜、あと数センチのところで中断された、あの“空気”が、この防音ブースの中に再現される。
俺は、ゆっくりとひよりに顔を近づけた。
実際にキスはしない。マイクが、俺たちの息遣いと、唇が触れ合う寸前の音を拾ってくれれば、それでいい。
分かってる。頭では、ちゃんと分かっているんだ。
でも。
ひよりが、そっと目を閉じた。
その、あまりにも無防備で、すべてを受け入れるかのような表情を見て、俺の中の何かが、音を立てて壊れた。
マイクが拾っていたのは、たぶん、俺の荒くなった呼吸の音。
ひよりが小さく息を吸い込む音。
俺が、彼女の頬に手を伸ばした時の、微かな衣擦れの音。
そして、言葉にならない、お互いの想いが飽和した、濃密な沈黙の音。
それは、どんな効果音よりも、リアルで、甘くて、切ない“キスシーン”だった。
「――カット!……オ、オーケー!素晴らしい……!」
ディレクターの声で、俺たちは呪縛が解けたように、はっと我に返った。
ひよりは顔を真っ赤にして俯き、俺は喉の渇きを覚えた。
収録は、大成功に終わった。
帰り道。夕暮れの光が差し込む街を、俺とひよりは無言で歩いていた。
今日の演技を褒められ、次の仕事の話も出た。嬉しいはずなのに、心がずっと、ざわついていた。
「……あのさ、ひより」
先に沈黙を破ったのは、俺だった。
「昨日の、練習のとき……」
ひよりの肩が、びくりと跳ねる。
「……俺、本気で……キス、しそうになった」
言ってから、自分の言葉の重さに、自分で驚いた。でも、嘘はつけなかった。
ひよりは、立ち止まり、俯いたまま、小さな声で答えた。
「……わたしも」
「……え?」
「わたしも……して、ほしかった……」
その言葉に、今度は俺の足が止まる。
心臓が、大きく脈打った。
ひよりは、顔を上げて、俺をまっすぐに見つめていた。その瞳は、もう潤んではいなかった。
「お兄ちゃん」
「……なんだ?」
「お兄ちゃんは、優しいから……きっと、一線を引こうとしてくれると思う。『妹だから』って」
「……」
「でもね、わたしは、もう嫌なの」
彼女は、一歩、俺に近づいた。
「“妹”じゃなくて、“ひより”として、見てほしい。お兄ちゃんにとって、たった一人の、特別な女の子になりたい。……だから、約束して」
「……約束?」
「わたしが18歳になったら……その時は、ちゃんと“女の子”として、私を見てくれるって。今日の、このキスシーンの続き……ちゃんとしてくれるって!」
力強い、宣言だった。
それはもう、健気な妹の願いなんかじゃない。
一人の女性としての、覚悟のこもった言葉だった。
俺は、しばらく何も言えなかった。
ただ、彼女の真剣な瞳に、吸い込まれそうになっていた。
やがて、俺はふっと息をつくと、観念したように、でも優しく笑った。
「……わかったよ。約束だ」
「……ほんと?」
「ああ。……だから、それまで、中途半端な覚悟で俺を煽るなよ?」
「……うんっ!」
ひよりの顔が、夕陽の中で、ぱっと輝いた。
それは、俺が今まで見た中で、一番美しい笑顔だったかもしれない。
俺たちの間にあった、もどかしくて、名前のなかった関係。
それに、今日、一つの名前がついた。
それは“恋人”ではないけれど、ただの“兄妹”でもない。
“約束”という名前の、未来への切符だ。
このボイスドラマがどう評価されるかなんて、もうどうでもよかった。
俺は、マイクに乗せた、演技じゃない“好き”の音を、確かに聞いた。
そして、彼女もまた、俺の“本音”を、きっと受け取ってくれたはずだから。
台本の外で始まる、俺たちの本当の物語。
その最初のページが、今、静かにめくられた気がした。




