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ベランダ越しの恋と、風邪引きの夜

AM 8:00 - ベランダは恋の最前線

ご近所ハーレム生活が始まって数日。俺の日常は、平穏と修羅場が交互に押し寄せる奇妙なリズムを刻み始めていた。


その日も、朝から穏やかじゃない。

「ふぅ……やっぱり晴れた日の洗濯は気持ちいいな」

俺がベランダで洗濯物を干していると、まるで示し合わせたかのように、隣の202号室の窓がガラッと開いた。


「コウくーん、おはよー! いい天気だね! 今日も一日、推し活がんばるぞー!」

ヘッドホンを首にかけたメグが、満面の笑みでぶんぶんと手を振ってくる。うん、朝から元気で何よりだ。


「おはよう、メグ。そっちも洗濯か?」

「ううん、推しのポスターを天日干ししようと思って! 湿気は大敵だからね!」

「ポスターを天日干し……? それ、色褪せないか?」

「大丈夫! UVカットフィルム貼ってあるから!」


オタクの情熱は時として科学の領域に踏み込むらしい。俺が感心していると、今度は頭上から、少しだけ不機嫌な、しかし鈴の鳴るような声が降ってきた。


「……下の階は朝から騒がしいわね。もう少し静かにできないのかしら」

見上げると、3階のベランダから夜々先輩が布団をパンパンと叩きながら、こちらを見下ろしていた。今日の彼女は、部屋着だろうか。いつもよりラフな、シルクっぽい生地のガウンを羽織っている。その姿は、生活感があるはずなのに妙に色っぽくて、目のやり場に困る。


「あ、夜々先輩! おはようございます!」

メグが元気よく挨拶するが、夜々先輩はふんと鼻を鳴らした。

「おはよう。あなた、毎朝そんなに元気なのね。燃費が悪そう」

「先輩こそ、そんな優雅に布団叩いて……。実は夜、寂しくて眠れなかったりします?」

「するわけないでしょ! 私はいつでも安眠よ。……あなたと違って、壁越しにゲーム実況の絶叫が聞こえてくることもないし」

「うぐっ……! そ、それは、昨日のボス戦がアツすぎて……!」


バチチッ。

ベランダ越しに、また見えない火花が散る。俺はそっと視線を逸らし、空を見上げた。青い空が目に染みる。

(なんで俺、女子二人のマウント合戦を最前列で浴びてるんだ……?)


このアパート、壁はそれなりに厚いはずだが、ベランダに出れば当然声は聞こえる。つまり、物理的な距離の近さが、心の距離まで無理やり近づけてくるのだ。そしてそれは、甘いハプニングだけじゃなく、こういう小さな戦争も生み出す。


俺の平穏な日常は、もう洗濯物を干すことさえ、ラブコメイベントの一部と化してしまったのだった。


PM 5:00 - 風邪と、三人の乙女

季節の変わり目に、油断したのがいけなかった。

連日の大学の課題、Vtuberの収録、そしてこの騒がしいご近所ハーレム生活。俺の体は正直に悲鳴を上げたらしい。


「……38度2分。完全にアウトだな……」

体温計の数字を見て、俺はベッドに沈んだ。頭がガンガンする。喉も痛い。


「お兄ちゃん、大丈夫!? お粥作ったから、食べられる?」

ひよりが心配そうな顔で、お盆を手に部屋に入ってくる。その手際の良さは、さすが長年一緒に暮らしてきただけある。


「……悪い、ひより。食欲、あんまりなくて……」

「ううん、いいよ。食べられるときでいいから。それより、薬は? ポカリは?」

「そこに……」


俺が枕元の棚を指さすと、ひよりはテキパキと準備を始める。本当に頼りになる妹だ。

だが、そんな彼女のスマホが、無情にもアラームを鳴らした。


「あ……! 今日の収録……!」

ひよりはハッとした顔でスマホと俺の顔を交互に見た。今日の彼女は、事務所で大事な企業案件の収録が入っている。絶対に休めないやつだ。


「ごめん、お兄ちゃん……! 私、行かなきゃ……! でも……」

「いいから、行ってこい。俺は寝てれば治る」

「でも、一人は心配だよ……」


ひよりが唇を噛んだ、その時だった。

ピンポーン、と部屋のチャイムが鳴った。ひよりが不思議そうな顔で玄関に向かうと、そこにはメグと夜々先輩が立っていた。


「ひよりちゃん、コウくんが学校休んだって聞いたけど、大丈夫?」

「天城くん、風邪を引いたそうね。お見舞いに来たわ」


二人の手には、それぞれポカリのペットボトルや果物の入った袋が握られていた。

その光景を見て、ひよりは一瞬だけ悔しそうな顔をしたが、すぐに何かを決意したように顔を上げた。


「……メグちゃん、夜々さん。お願いがあります」

「……私がいない間、少しだけ……お兄ちゃんのこと、見ててもらえませんか?」


それは、妹としての責任感と、恋する乙女としての嫉妬心がせめぎ合った末に出た、苦渋の決断だったに違いない。


PM 7:00 - 熱に浮かされる距離

ひよりが出て行ってから一時間後。

うつらうつらと浅い眠りを繰り返していた俺の部屋のドアが、そっと開いた。


「コウくーん、生きてるー? ゼリーとプリン、買ってきたよ!」

入ってきたのはメグだった。彼女は足音を忍ばせながらも、その声はいつものように明るい。


「……悪いな、メグ」

「いーのいーの! 困った時はお互い様でしょ! それに、推しが弱ってるところを見られるなんて、ちょっとレアだし……!」

不謹慎な本音が漏れてるぞ。


俺がぼんやりしていると、メグは濡らしたタオルを持ってきて、俺の額に乗せようとした。

「ほら、汗かいてる。拭いてあげるね」

「あ、いや、自分で……」

断ろうとしたが、熱で体がうまく動かない。メグの手が俺の額に触れ、冷たくて気持ちのいいタオルが汗を拭っていく。


その瞬間、メグの動きがぴたりと止まった。

「……」

「……メグ?」

「……うわっ、ちかっ! 顔、良っ! ていうか熱のせいで、なんか……色っぽくなってない!?」

突然、思考がダダ漏れになった。


(ここから、メグの一人称視点)


やばいやばいやばい!

なにこれ!? 額を拭いてるだけなのに、コウくんの顔がめちゃくちゃ近い!

しかも、熱でちょっと目が潤んでて、呼吸も少し荒くて……え、これって公式が提供してくれた最大級のご褒美イベントですか!?

いつもは爽やかなイケボなのに、今はちょっと掠れた弱々しい声……ギャップ萌えで心臓が爆発する!


あっ、待って、タオルずれた。もう一回……。

うわ、まつ毛長っ! 肌きれい! ほんとに男の子!?

ダメだ、これ以上見たら、理性が持たない! 私の中の“限界オタク”が「撮れ!この瞬間を脳に焼き付けろ!」って叫んでる!


(三人称視点に戻る)


「……メグさん? 顔、真っ赤だけど大丈夫か?」

「だ、だだだ、大丈夫! これは、その、部屋が暑いだけだから! じゃあ私、ポカリ置いとくから! また来るね!」

メグは叫ぶように言うと、バタバタと部屋を出て行った。嵐のようなお見舞いだった。


その三十分後。

今度は、ほとんど音もなくドアが開き、夜々先輩が静かに入ってきた。

手には小さな土鍋。ふわりと、出汁のいい香りがする。


「……少しは落ち着いた? お粥、作ってきたわよ。生姜を効かせた、卵のお粥。これなら食べられるでしょ」

そう言って、彼女は慣れた手つきで体温計を俺の脇に差し込み、氷枕の位置を直してくれた。その仕草には、年上ならではの落ち着きと包容力があった。


「ありがとうございます、先輩……」

「いいのよ。後輩が弱っているのを見過ごせないだけ」


そう言って微笑む夜々先輩は、本当に頼れるお姉さん、という感じだった。

……だが。

俺が寝返りを打った瞬間、無意識に、そばにあった彼女の手をぎゅっと握ってしまったらしい。


「っ……!」

夜々先輩の肩が、びくりと跳ねた。


(ここから、夜々の一人-称視点)


……なっ……!?

て、手を、握られた……!?

いや、違う。落ち着きなさい、私。彼は病人。熱に浮かされて、無意識に何かを掴んだだけ。そう、きっと枕か何かと間違えたのよ。


……でも。

あったかい。大きくて、ごつごつした、男の子の手。

弱々しいけど、確かに私を求めるように握られている。

顔が熱い。心臓がうるさい。さっきまでの冷静さはどこに行ったの。


ば、ばかね……。病人のくせに、こんな……無防備なこと……。

振りほどけない。だって、振りほどいたら、彼が……寂しそうな顔をするかもしれない。

……違う。私が、このぬくもりを、手放したくないだけ。


ああ、もう。本当に、ずるい男。

こんなふうに、いとも簡単に、私の“完璧な先輩”の仮面を剥がしていくんだから。


(三人称視点に戻る)


夜々先輩は、顔を真っ赤にしながらも、その手を振りほどくことはなかった。

俺が再び眠りに落ちるまで、彼女はただ静かに、その手を握り返していた。


夜9時。

ひよりが慌てた様子で帰ってきたとき、俺の部屋は静まり返っていた。

熱は少し下がり、俺は穏やかな寝息を立てていた。

テーブルの上には、メグが置いていったゼリーと、夜々先輩が作ったお粥の残りが綺麗に片付けられている。


「……二人とも、ありがとう」

ひよりは小さく呟くと、俺のベッドのそばに屈み込んだ。

そして、眠っている俺の額に、そっと自分の額を合わせた。


「……うん、熱、下がってきた」

安心したように微笑む。


「でも……お兄ちゃんの隣で、看病できるのは、やっぱり私の特権なんだから」

彼女はそう囁くと、俺の寝顔をじっと見つめた。

その瞳には、感謝と、安堵と、そしてほんの少しの独占欲が、静かに揺らめいていた。


壁一枚隔てた恋心は、風邪の熱と共に、さらに温度を上げていく。

このご近所ハーレムは、協力と競争を繰り返しながら、ゆっくりと、でも確実に、俺の心を溶かしていくのだった。

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