プロローグ
小学生最後の夏休み。
なのに、私は——なんだか取り残されたみたいに、部屋でぼーっとしていた。
外は青空。真昼のセミが、ジジジジッと元気よく鳴いている。
でも、私の心は、ちょっと曇り空。
「……はぁ」
机の上には、半分終わった自由研究と、まだ手をつけていない読書感想文。
それに、次の配信の台本メモ。
Vtuberとしてのお仕事は大好きだけど、こういう時は……小学生としての私が、ちょっぴり寂しくなる。
パパとママはお仕事で忙しいし、
仲のいい友達は、家族旅行やサマーキャンプでいない。
みんなのグループチャットには、「海行ってきた!」「花火大会めっちゃきれいだった!」なんて写真が次々送られてくる。
「いいなぁ……」
スマホを置いて、ベッドにごろんと寝転ぶ。
視界の端にぬいぐるみのウサギちゃんがいて、なんとなく愚痴をこぼした。
「私だって、夏休みの思い出……作りたいよ」
思い出、という言葉を口にした瞬間。
脳裏に浮かんだのは——
あの人の笑顔。
優しくて、ちょっとだけ頼りなくて……でも、すごく安心する声。
私の世界を、あたたかくしてくれる人。
「……もしできるなら、あの人と……」
小さく呟いて、両手で顔を覆った。
だめだ、考えただけで心臓がくすぐったい。
そんな時だった。
スマホがピコンと鳴る。
《事務所からの連絡:急ぎのロケ取材に参加できますか?》
「え、ロケ?」
内容を確認すると、近くの水族館と動物カフェの取材らしい。
子供目線の感想が欲しいとかで、急遽《るる☆るん!》に声がかかったみたい。
ちょっとだけ迷ったけど……考える間もなく返信した。
《はい!行きます!》
——だって、夏休みの思い出になるかもしれないから。
*
翌日。
待ち合わせ場所の駅前に向かうと、そこには……レイさんこと、天城コウさんが立っていた。
「おはよう、るるちゃん」
「……あっ」
思わず立ち止まってしまう。
陽射しを浴びて立つその姿は、なんだか映画のワンシーンみたいで。
胸の奥が、一気に熱くなる。
「えっと……今日のサポート、僕が担当になったんだ。よろしくね」
「よ、よろしくお願いします……」
心臓がドキンと鳴る。
だって、こんなの——
(これって、もしかして……デートじゃない……!?)
もちろん仕事だってわかってる。
でも、二人で並んで歩くこの感じは……ちょっとだけ、夢みたい。
水族館の前に着くまでの道のりも、なんだかいつもより短く感じた。
通りのガラスに映る二人の姿を、ちらっと見てしまう。
ちょっと背伸びしたワンピース、ツインテールのリボン……
私、ちゃんと“女の子”に見えてるかな。
「るるちゃん、暑くない? 水分ちゃんと持ってる?」
「あ、はい……持ってます。ありがとうございます」
自然と頭を撫でられて、びくっとした。
子供扱いのはずなのに……手のひらのぬくもりが、なぜか全身に広がっていく。
(も、もしかして……夏休みの神様が、くれたごほうび……?)
そんなことを考えているうちに、水族館の入口が見えてきた。
青いガラスと、キラキラ光る海のポスター。
胸の奥で、夏休みの一日が、きらめきだした——。
水族館の自動ドアをくぐった瞬間、ひんやりとした空気に包まれた。
外の真夏の暑さが嘘みたいで、思わず「わぁ……」と声が漏れる。
「涼しいね、るるちゃん」
「はいっ……! うわぁ、天井にお魚がいっぱい……!」
目の前には、青いトンネル水槽。
頭上を大きなエイがゆったり泳ぎ、その下をカラフルな魚たちが群れをなして通り過ぎていく。
光が水面でゆらゆら揺れて、まるで海の中にいるみたい。
「ふふ、目がキラキラしてるよ」
「えっ……!」
思わず彼の顔を見上げると、優しい笑顔。
その瞬間、心臓がキュッとなる。
だめだ、さっきから心臓のドキドキが止まらない。
(これ……仕事のロケ、なんだよね……? でも……)
ゆっくり歩きながら、壁沿いの水槽を見て回る。
小さな熱帯魚が群れを作って泳ぐたび、思わず彼の腕をつついてしまう。
「見てください! ニモです!」
「あ、本当だ。かわいいなぁ」
「こっちはドリーですよ、映画の!」
気がつけば、自然に彼と並んで笑い合っている。
こうやって二人きりで過ごす時間が、まるで本当のデートみたいに思えてくる。
*
次のコーナーは、クラゲの幻想的な展示。
薄暗い部屋に青やピンクの光がゆらめき、無数のクラゲがふわふわ漂っている。
「うわぁ……すごい……」
「きれいだね」
無意識に、一歩彼のそばに寄る。
暗いから、なんだか自然と距離が近くなる。
肩が触れそうで、触れない……その空気だけで胸がドキドキする。
「るるちゃん、ほら……」
気づけば、彼の手がそっと私の方へ伸びて——
小さな手のひらに、何か冷たいものが触れた。
「ひゃっ……!」
「あ、ごめん。アイス食べる?」
彼が差し出したのは、売店で買った小さなアイスバーだった。
不意打ちにびくっとした私を見て、くすっと笑う。
「……びっくりしました……」
「ごめんごめん。暗いからね」
でも、その笑顔を見たら、文句なんて言えなかった。
代わりに、口にアイスを運んだ瞬間——
「あっ」
ポタッ、と溶けたアイスが私の指先に落ちた。
慌てて拭こうとすると、彼がさっとハンカチを差し出す。
「ほら、貸して」
「え、あ……」
優しく、指先を包むように拭われた。
その瞬間、全身に電気が走ったみたいに熱くなる。
(ちょっ……これ……やばい……!)
指先に残る彼のぬくもり。
ハンカチの柔らかさと、かすかに香る洗剤の匂い。
全部が、心臓をくすぐる。
「……はい、きれいになったよ」
「あ、ありがとうございます……」
目を合わせられない。
でも、心の奥ではずっと叫んでいた。
(これ、これって……絶対、デートでしょ……!デートだよ、ね?)
*
その後も、水族館の中をゆっくり歩いた。
大きなイルカの水槽や、色とりどりのサンゴ礁。
どれも綺麗だったけど——
いちばん心に残ったのは、
彼と並んで見上げた、青いクラゲの光だった。
外に出ると、眩しい夏の日差しが戻ってきた。
でも、心の中はもう水族館みたいに、静かであたたかい青色で満たされていた。
(……この夏、思い出がひとつできちゃった……)