本音で囁いたの、あなただけ
夜の事務所って、どうしてこんなに静かなんだろう。
誰もいないフロア、足音だけが響く通路。
それだけで、心臓が変なリズムを刻む。
収録ブースのドアの前で、深呼吸をひとつ。
扉の向こうでは、すでに“あの子”がセッティングを終えて、私を待っている。
《レイ》。
今日のコラボ、タイトルは——『恋人ASMR・真夜中の二人だけの囁き編』。
はい、完全に“狙い撃ち”のやつ。
神代マネージャーがにこにこしながら企画書を出してきたとき、
**「よし、やってやろうじゃない」**って即答した自分を、今は呪いたい。
ガチャリ、とドアを開けると——
「夜々さん、こんばんは」
《レイ》が、笑顔でこっちを見た。
ほんの少し、緊張したような目。
(ずるい。そんな顔されたら、平常心でいられるわけないでしょ……)
「……待たせたわね。テスト音声、入れましょうか」
「はい」
淡々と。冷静に。
そう演じながら、私はブースのイスに腰を下ろした。
バイノーラルマイク。だるまの耳。
もう見慣れたはずなのに、今日だけは、特別な意味を持って見える。
リハーサルは短く済ませた。
お互いに“慣れてきた”のが分かる。
でも、心の奥は、全然慣れてない。むしろ、前よりずっと不安定。
「本番、入りますー」
ブース越しのスタッフの声。
録音の赤ランプが点灯した瞬間、世界が変わる。
私たちの周囲には、誰もいない。
——でも、マイク越しに“無数の誰か”が、息をひそめてこちらを聴いている。
そして、最初のセリフは私だった。
《ノワール=クロエ》:「……ねぇ、聞こえてる? あなたのこと、呼んでるの。心の奥で——ずっと、ね?」
(これは、演技。これは、演技。これは、演技……)
そう念じながら、私は右の“耳”に顔を寄せる。
そっと吐息を混ぜて、甘く、低く、囁く。
「……もう、他の子の声、聞かなくていいの。わたしだけで、満たしてあげるから」
マイクから、自分の声が返ってくる。
耳元で自分が囁いてるみたいで、頭がクラクラした。
そして、今度は《レイ》のターン。
《レイ》:「……君の声だけで、心がいっぱいになる。もう……それ以上、何もいらない」
その声が、“役”なのか“本音”なのか、分からなかった。
でも、分かってた。
……あの子の“本気”が、マイクを通して伝わってくるってことだけは。
(ああ、もう限界かも……)
次のセリフが台本にないことくらい、自分が一番よくわかってる。
でも、言う。
マイクじゃなくて——彼の“本物の耳”に向けて。
そっと、手を伸ばす。
彼の肩越しに回って、左耳のすぐそばへ唇を近づけた。
「……本音で囁いたの、あなただけよ。わたし、演技じゃなくて——」
そのときだった。
「うおっ!? あっ……!?」
バン!と扉が開いた。
「やばっ、すっごい空気……って、え!? ご、ごめん!!」
神代マネージャーだった。台本を手に、全力で突入してきた。
私は、反射的に距離を取る。
レイも、急いでイスを回してマイクから離れる。
顔と顔、たぶんあと5センチで触れるところだった。
……くそぉぉぉぉぉぉぉ、誰だよ今のタイミングで!!
「き、緊急で台本差し替えになったって社長から……わわっ、空気……やば……ごめん、マジでごめん!!」
カオルさんは、背中からオーラが出てる勢いで後退していった。
あたしもレイも、しばらく固まったまま、動けなかった。
「……あ、あのっ」
レイが口を開いた。
「……僕、さっきの夜々さんの声……演技じゃないって、思っていいんですか?」
「……どうかしら?」
背中を向けて答える。
顔、真っ赤で見せられる状態じゃない。
「でも、ひとつだけ言っとくわ。次また中途半端な囁きしたら——」
「はい?」
「……そのときは、“本人としての返事”してもらうわよ?」
「っ……!」
レイの息遣いが止まった。
静かすぎて、マイクの電源切り忘れてないか不安になるくらい。
でも、たぶん。
この沈黙こそが、今の答えだった。