後日譚:骨の雨が降る夜に
【1】消えた影
郁が消えてから、宗像の部屋には静寂だけが残った。
雨の滴は窓を叩き、まるで河のように床に流れ込む。
だが、その水音すらも、宗像には遠く、呆けたノイズに過ぎなくなっていた。
彼はもうカメラを構えることもなかった。
フィルムも現像液も、すべて捨て去った。
なぜなら、シャッターの向こうに写るべき“被写体”は、もはやどこにもいないからだ。
壁に貼られた写真は、すべて燃えつきた跡だけを残して黒焦げになっていた。
あのとき郁が「もう焼かなくていい」と言った言葉が、太い軋み音となって今も心に鳴り響いている。
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【2】残響の檻
夜ごと宗像は、部屋の隅に積まれた骨壷を開けては、そこにうめるように呟いた。
「郁……おまえは、どこにいるんだ」
だが返ってくるのは、雨音だけ。
壷の中の小さな白い骨――指の骨か、足の骨か――を見つめても、もう名前も思い出せなかった。
「おまえの笑顔は、どんなだっけ」
あの無垢な笑い声を記憶しようとしても、指先に残るのはただ寒気と乾いた埃だけだ。
宗像はもがきながら、ひとり部屋の中を歩き回る。
壁に設えた鏡に映る自分の顔は、すでに他人のそれのように歪んでいた。
頬と額には何度もカメラをぶつけた跡があり、目元には深い裂け目のような傷が走っている。
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【3】失明の鼓動
ある晩、宗像は眠りに落ちたまま、膝を折って倒れていた。
目を覚ますと、自分の両手が血に染まり、窓ガラスを絶え間なく爪で削っていることに気づく。
「まだ、映らない……」
爪の先に小さなガラスの欠片が刺さっても、宗像は痛みを感じなかった。
ただ、“映像を取り戻せ”という何かに駆られるまま、夜を引き裂き続ける。
気づけば、部屋の内側の窓は粉々になり、雨の滴が無防備に吹き込んでいた。
宗像は雨粒を指で掬い、舌に乗せた。
「……味がしない」
その舌先に、塩分も甘みも感じられない。
宗像はそのまま倒れ込み、窓の外を見上げた。
真っ黒な夜空に、骨のように白い稲妻が走った。
その閃光が、室内の惨状を一瞬だけ照らし出す。
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【4】骨の雨
雷鳴とともに、雨が激しさを増した。
一粒一粒が、まるで小さな骨のかけらのように、重く、冷たく、無慈悲な音を立てて降り注ぐ。
宗像は立ち上がり、震える手で骨壷を掴んだ。
蓋を外すと、中には白骨のかけらが崩れんばかりに詰まっている。
「郁……おまえのすべてを、この雨に還す」
そう言いながら、宗像は壷の骨をひとつずつ、窓の外へ投げ捨てていく。
雨粒と混じり合い、骨の破片は夜空へと消えていった。
一時間ほど浴び続けたとき、骨壷は空になり、宗像の手だけが震えを残した。
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【5】沈黙の残滓
骨をすべて放ち終えた後、宗像は初めて「静かだ」と思った。
雨は止み、雷鳴は遠ざかり、世界は深い闇に包まれている。
部屋の中には、粉々のガラスと、濡れた床だけが残っていた。
宗像の瞳には、もう涙ひとつ映っていない。
「……終わったのか?」
自分自身に問いかける声さえ、もうそこにいなかった。
宗像はゆっくりと背を伸ばし、かすれた声で笑った。
「――おまえは、もう見えない」
その言葉が、部屋のあらゆる隙間へ吸い込まれていく。
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【6】新しい朝へ
夜が明けると、宗像は窓際に佇み、濡れたアスファルトの向こうを眺めていた。
雨上がりの湿った匂いが、ぽつりぽつりと足元に落ちてくる。
カメラもフィルムもすべて失い、骨すら手放した宗像には、もはや“見るもの”が何ひとつ残っていない。
それでも、胸の奥には静かな高鳴りがある。
――この先、何を撮ればいいのか。
――誰を見つめればいいのか。
答えはわからない。
けれど宗像は、かすかな指先の震えを頼りに、
新しいレンズも、新しい被写体も、探しに出るだろう。
それが狂気なのか、再生なのか、宗像本人にも判別がつかない。
ただ、また雨がやってくる日まで、彼は歩き続ける。
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―終幕―




