過去編『さよなら、やさしい人』
郁が「普通」でいられた時間は、たぶん十七歳までだった。
家庭は壊れていた。
父は女を連れ込み、母は薬を飲み、郁は学校で嘘ばかりついた。
「恋人、できたんだ」
「お母さん、最近元気でさ」
「進学、推薦でいけそうなんだ」
どれもこれも、本当のことにしてほしくてついた嘘だった。
けれど、そのたびに空っぽになるのが自分で、自分でいることがつらくなった。
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十八になったとき、母が失踪した。
家には鍵も通帳も、何も残っていなかった。
代わりにあったのは、クシャクシャに潰れた薬の空シートと、
「ごめんね」という三文字。
その日から、郁の家は“住所だけの空間”になった。
家ではなく、ただの箱。
電気が止まり、水道が止まり、最後に止まったのは郁の感情だった。
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十九の夏、郁は初めて身体を売った。
きっかけなんて、なかった。
ただ、「お金がいる」と思って、スマホで調べた店に電話をかけた。
「かわいい顔してるし、人気出るよ」と男に言われたとき、
郁は初めて“自分”に値段がついた気がして、少しだけ安心した。
笑って抱かれ、壊れて抱かれ、傷だらけの夜を重ねた。
それでも死ななかった。
自分の身体は、意外としぶとい。
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ある日、客の男に殴られて、郁は路地裏で倒れていた。
唇が切れて、視界が歪んでいた。
そのとき、光のない目が自分を覗き込んだ。
「……動けるか?」
男はカメラを構えながら言った。
郁は、神様だと思った。
こんな自分を見てくれた人間は、初めてだったから。
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宗像の家に連れて帰られて、郁は初めて「家っぽい場所」にいた。
冷蔵庫の音や、洗濯機の残り香、風呂の排水音――
全部がやさしくて、全部が懐かしかった。
郁はそこに住むことを選んだ。
愛されたかったからじゃない。
自分の形を、そこに置いておきたかったからだ。
「俺、ここにいていい?」
宗像は面倒くさそうに答えた。
「好きにしろよ。家賃は払えよ」
郁は笑った。
この人は、愛してくれないだろうな、と思った。
でも、それでもいいと思った。
壊れてしまった自分を、何も言わず受け入れてくれる気がしたから。
それは愛じゃなくて、執着の始まりだった。
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―つづく―




