番外編:『ピントの合わない夜』
夜中の三時、宗像は目を覚ました。
雨はまだ降っていた。寝室の小さな窓を叩く音は、規則的すぎて耳に残る。
隣では郁が眠っている。
口を少し開け、布団から片足を出している無防備な姿。
宗像は煙草に火を点け、起き上がった。
煙が濡れた部屋に滲んでいく。
リビングの机の上には、現像待ちの写真が散らばっていた。
郁が風呂場で倒れた夜のもの、店から血だらけで帰ってきた夜のもの、
そして、宗像を見上げて笑っているもの。
ピントが合っていない。
ぶれているのではなく、郁の顔だけがぼやけて見えた。
「……なんだこれ」
宗像は舌打ちをした。
いつも完璧に撮れているはずの“被写体”に、わずかな違和感が残る。
目を細めても、現実の郁の顔が思い出せない。
昨日、郁が何を話していたかも覚えていない。
“好き”だの、“ずっと一緒にいたい”だの、そんな言葉ばかりだ。
宗像はそれをノイズとして処理していた。
けれど、ふと頭をよぎる。
(あいつの、どの顔が一番よかったっけ……)
それが記憶のどこにも残っていない。
いつでもそばにいたはずなのに、郁の顔だけが霞むように消えていく。
宗像は再び煙草をくわえた。火はすぐに消えた。
雨音が激しくなる。
郁の寝息が、微かに聞こえた。
その呼吸音に、なぜか一瞬だけ、宗像の胸が詰まる。
(ああ、うるせえな)
そう呟きながら、宗像はカメラを手に取った。
そして寝室に向かう。
郁の枕元に立ち、静かにシャッターを切る。
一枚、また一枚。
光のない部屋で、宗像の指先だけが動いていた。
郁は目を覚まさなかった。
口元には、かすかな笑みの跡があった。
宗像はその顔を見て、カメラを下ろした。
(これが、あいつの、顔……だったか?)
心臓の奥が、少しだけざらついた。
それを、宗像は“エラー”だと判断する。
「……もう一度撮るか」
今度は目を覚ました郁が、少し困ったように笑う。
「起きちゃった……また撮ってたの?」
「ああ。寝てろ」
郁は素直に目を閉じた。
宗像はもう一度ファインダーを覗く。
でも、またぼやけていた。
ピントを合わせても、郁の顔だけが、どうしても。
(……うるせえな)
宗像はそう繰り返すしかなかった。
⸻
―了―




