海陵王と杖罪
暴虐な帝王として知られる海陵王。彼がどのような人物だったのか、知られざる一面を『金史』より読み解いていこうと思います。
今回は『金史』巻七十六 列伝十四の蕭玉伝から、海陵王の杖刑に対する考えを見ていきましょう。
前回と前々回、海陵王は重臣を杖刑に処し、他にも重臣を杖刑処すことが多いですが、『金史』巻七十六 列伝十四の蕭玉伝には海陵王の言葉としてこのように記されています。
文思署令の閻拱と太子詹事の張安の妻が悪事を行い処罰された。その際に両人から言い分を聞かずに、記録では聞いたことにしていた。海陵王は怒り、蕭玉・左丞の蔡松年・右丞の耶律安礼・御史中丞の馬諷をそれぞれ程度に応じて杖刑とした。蕭玉らが参内して謝罪すると、海陵王は言った。
「人臣となって己の好悪により勝手に威福を成し、人を畏れさせた。唐の魏徴・狄仁傑・姚崇・宋璟は威により人を畏れさせたことは無い。威により人を畏れさせたのは楊国忠の類である。」
それから左司郎中の吾帯と右司郎中の梁球の方を向いて言った。
「我が父が宰相、蕭斛律が左司郎中、趙徳恭が右司朗中であったとき、下吏の任用について協議したが、多くを自分の都合で決めた。汝らは自分たちの好悪で刑を決めるべきではない。朕は汝らを信頼して任じているが、過ちがあれば必ず処罰する。古には大臣に罪があれば数千里遠方に流しており、その往来に疲れ果てて途中で死ぬ者もいた。朕はそうせずに過ちがあれば杖刑に処し、杖刑が終われば元の地位に戻す。赦すべきでない者がいれば場合によっては死に至らしめる。汝らはよく職務に努めるように。」
張浩が周福児を通じて奏上したため杖刑に処されると、蕭玉も共に杖刑となった。このとき海陵王は群臣に言った。
「張浩は大臣であるのに直接奏上せずに人を介して奏上した。これは職務を軽んじるものである。蕭玉は朕を苻堅に例えた。その舌を切り釘で礫にしたいところであるが、功があるので今のところは我慢しよう。大臣を杖刑に処すとき、その者の体が痛いであろうが朕も辛い。しかしそうせねばならない場合がある。汝らはこのことをよくよく考えるように。」