追放された偽物聖女は、辺境の村でひっそり暮らしている
匂いたつ土の香りに、薬草を摘んでいたリサは顔を上げた。その瞳は曇りのない春空、髪は春の穏やかな日差しの色。ただ、見つめる先の空には分厚く濁った雲が流れ、眩しい太陽はその姿を隠そうとしていた。
「……濡れる前に帰らなきゃ」
念のためカゴに布をかけ、小屋へと急ぐ。うなじの後ろで結んだ三つ編みが、パタパタとしっぽのように跳ねた。
すると、ちょうど扉の前にカスパーがその隻腕で杖をついて立っていた。カスパーはリサの家から少し離れたところに住んでいて、年のせいか膝が痛くて仕方がないといつも嘆いている。
リサが駆け寄ると、気付いたカスパーが振り向き、その白い眉尻を嬉しそうに下げた。
「ああ、リサ。よかった、留守かと思ったんだけれど」
「ごめんなさい、ちょうど薬草を摘みに行っていまして。もしかしてしばらく待っていらっしゃいました?」
挨拶もそこそこに扉を開け、リサは椅子を勧める。カスパーは膝が悪くて長く立っていられないし、なによりもうすぐ雨が降るから普段より痛みがひどいはずだ。
「ありがとう、リサ。大丈夫だよ、本当に来たばかりだから」
「お薬が切れましたか? それともなにか別に気になることが……」
「いや、いつもの薬をもらいに来ただけだよ。リサのお陰で、膝の痛み以外はすっかりよくなってね」
カスパーは左足の膝小僧の内側を撫でる。いつもの症状だと確認できたリサは「それならよかったです」と摘んだばかりの薬草を脇に置いた。
「お薬をご用意しますから、少しお待ちくださいね……あら」
調合済みの薬を棚から取り出しているとき、リサの耳に、遠くから蹄の音が届いた。
「……馬の音がしませんか?」
「ん? 私には分からんよ、年を取ると耳が遠くてねえ」
いいや、間違いなく聞こえる……。リサは薬を置き、注意深く耳を澄ませた。二頭以上いるし、その音はどんどん近くなっている。この小屋は辺境の村のそのさらに端で、何かの通り道というわけでもない。ということは、目的地はこの小屋……。
もしかして、バレてしまった。さっと顔から血の気が引くのを感じたとき、ドンドンドンとけたたましいノック音が響いた。
「聖女はここか?」
次いで、バンッと大きな音と共に扉が開けられた。あまりの乱暴さに、開けられたというよりは蹴り上げられたかのようだった。古く粗末な扉は、ギイギイと揺れながら、前後だけではなく上下にも揺れていた。
やってきたのは騎士の二人組だった。固まっているリサととぼけた顔で振り向くカスパーを見比べ、彼らはリサに対して眦を厳しく吊り上げる。
「貴様……貴様が聖女だな? 今すぐ来てもらおう」
「ち、違います……私は、聖女ではありません」
ふるふるとリサは弱々しく首を横に振った。騎士の一人が「嘘をつけ!」と声を張り上げる。
「この村に聖女がいると聞いた。村の病人や怪我人を治療して回っているようだな。ここから10キロと離れない国境沿いで紛争が生じ、死傷者が多くでた。いまは沈静化しているが、このままではこの村も危ないのだぞ。それを、ただ一人の老いぼれの治療に忙しいからと嘘をつくのか?」
「いえ、それは誤解でして……私はあなた方が求めるような聖女ではなく」
「騎士様、この子のいうとおりです」
ゆっくりとカスパーが腰を上げ、それを見たリサは慌ててその腕に手を置き押しとどめようとする。しかし、カスパーは老人とは思えない強さでリサを制しつつ立ち上がった。
「この子はなにも特別な力で我々を治してくれるわけじゃない。そこをご覧ください、これでもかと葉っぱが並んでおるでしょう。この子がそこの山で摘んでくるもんです」
騎士の視線は疑うように棚を一瞥する。カスパーもその視線を追って「あの葉っぱを擦って、それはもう苦い苦い薬を作るんですよ」と冗談交じりに顔をしかめた。
「しかし、その薬がよく効きましてね。うちの村では少々怪我してもそんなおおごとにはならんくなったし、そこのばあさんは腰が痛まんくなったし、あっちの子どもが元気に生まれたのもそう。私も、ない腕が痛むことはなくなりました。だからうちの村では、この子を聖女のようだと言っとるんですよ」
「ふん、詭弁だな」
失ったはずの腕が痛むことは仲間からよく聞いて知っている。だからこそ、それを和らげるなど聖女の特別な力によるものに違いないと、騎士は一蹴した。
「そのような薬があるものか。大方、薬草を煎じるふりをして聖女の力を使っているのだろう」
「もしそうなら、この子は落ちこぼれの聖女ですぞ。なんたって薬は苦いし、飲んでも立ちどころに傷が癒えるわけではありませんからなあ」
「いま痛みが消えたと言ったではないか」
「そりゃ、薬を飲んでる間だけですな。正確には薬をちゃんと飲んで、何日か経ったらちょっとマシになっとる。もちろん我々年寄りにとってはありがたいことですけども、それだけですからなあ」
困ったもんだと言わんばかりにカスパーはかぶりを振った。
「それでももし聖女なら、酒を薬に変えてくれんかねえ」
「カスパーさん、お酒は駄目だって言ってるでしょ!」
ホッホッホと笑ってはいるが、あながち冗談でもなさそうだ。かばってくれたとは分かりつつも、リサはつい呆れてしまった。
騎士たちは顔を見合わせる。確かに薬草が置いてあるし、もしかすると本当に聖女ではないのかもしれない。しかし、カスパーがリサのために嘘をついている可能性もある。なにより騎士団が危機に瀕しているのは事実だ。
「話は分かった、だが一度騎士団まで来ていただく」
「え……」
「我が国の状況をその目で見てもらう。そうすれば気も変わるだろう」
「だ、だから私は、聖女ではないのです! 離してください!」
「やめなさい!」
リサは問答無用で腕を掴まれ、それを止めようとしたカスパーは思わず杖を離してしまい、盛大に転んでしまった。
「カスパーさん! 離してください、カスパーさんは膝が悪いんです!」
「お前が大人しく来ればいい話だ! いいから来い!」
痛い……! 抵抗したその腕に爪が食い込んだ。
もしこのまま連れていかれてしまったら、カスパーさんの薬はもちろん、他の方への薬も処方することができなくなる……! リサは頭の中に村の人々の顔を浮かべ、薬の処方順序を素早く確認した。
「カスパーさん、カスパーさんの薬は棚の2段目、右から3つめです。申し訳ないんですが、明日か明後日にはピーアさんがいらっしゃるのでそのときは3段目一番右側の薬とそのすぐ下の薬を合わせていただいて――」
「こちらは急いでいるんだ! 喚いてないで早く――」
そのとき、再び蹄の音が響いた。騎士まで含めてそろって顔を向けると、まるで疾風のような勢いで馬が駆けてくる。
騎乗の男が騎士だと気付いたリサは、ますます体を硬くした。服の様子からして彼らの上官、ということは、彼らが手間取っていることを知り加勢しに来たのかもしれない。今度こそ、聖女として連れていかれてしまう……。
開け放たれた扉の前で馬が止まる。濃いブラウンのたてがみの立派な馬だった。そこに乗る男は、無愛想で粗削りながらも凛々しい顔をしている。髪の色は馬とおそろいだ。
「村での略奪は団規違反だが?」
「も、申し訳ございません、ユリウス騎士団長!」
静かな怒った声に、騎士は慌ててリサの腕を離すと共に敬礼した。リサも、自分が怒られているわけではないと分かっても背筋を震わせた。
「しかし略奪などではなく、こちらの村に“聖女”がいるとの噂がございましたので、騎士団のために連れて参ろうと考えた次第でございます!」
でも、この現場に駆けつけて真っ先に略奪を疑い騎士を咎めるなんて、話の分かる方なのかな……? カスパーのそばに屈みつつ、リサは見ず知らずの騎士相手に、胸に淡い希望を抱く。
「……“聖女”だと?」
が、その単語を聞いた瞬間に親の仇を見つけたがごとく歪んだ顔と、なにより吐き捨てるような言い方に、再び跳び上がってしまった。まるで聖女を憎んでいるかのようだ。
「は、はい。もちろん、ユリウス騎士団長が“聖女”の存在を否定していらっしゃるのは存じ上げております。ですが、この村ではあらゆる病や怪我を治してまわる聖女がいるという噂でありまして、現にこの女がそうだと……」
「現に? なにか証拠でもあるのか」
ユリウスと呼ばれた騎士は、そこで騎士達の後ろに視線をやり、馬から降りた。騎士はすぐに道を開けたが、リサは慌てて扉の前に立ちふさがる。
「……なんだ」
「……私は聖女ではありません。お引き取りください」
真っ黒い目に見下ろされ、思わず後ずさりしてしまいそうになった。しかし、聖女を毛嫌いしているのかなんなのか知らないが、薬の棚を荒らされてはたまらない。
「貴様が聖女かどうかなどどうでもいい」
「きゃっ」
そんなリサの肩を掴み、ユリウスは半ば無理矢理小屋の中に入ると――その場に屈み、カスパーに肩を貸して助け起こした。
「やあ、すみませんね、どうも」
「隻腕で杖をつきながら地面に這いつくばるのはやめておけ。背中と腰もやりたいなら別だがな」
そのまま、カスパーをもとの椅子に座らせ、杖も持ちやすい位置に引っ掛けてやる。唖然とするリサを無視し、ユリウスは騎士2人に向き直った。
「“聖女”の噂があるとのことだが、具体的にどういうことだ。大方“聖女のようだ”という話ではないのか」
「は……それは……そうかもしれませんが」
「しかし、現にどんな怪我も病も治すのだと……」
「どう治している。長々とまじないでも唱えているのか? それとも、神々しい光でも放つのか?」
そうだというのならば、確かに聖女と認めよう。そう馬鹿にしたように鼻で笑われ、騎士達はさらに口籠った。
「……そういった話は、ありませんが……」
「大体、この老人を見れば分かるだろう。聖女なら彼の腕をもう一度生やしてやればいい。それをしていないということは、そんなことはできないということだ」
そのとおりだ。騎士達は再び顔を見合わせた。本物の“聖女”がどんなにすごいのかは知らないが、もし彼女が“聖女”なら、この老人はもっとピンピンしているはずだ。腕は生えないとしても、杖をつかねば歩けないというのはおかしい気がする。
早とちりだったかもしれない……。そんな空気が流れ始めたところで、ユリウスはリサに顔を向けた。
「貴様は聖女ではない。そうだな?」
そんなことあるはずがない――そう言いたげな強い意志を感じる瞳に、リサは文字どおり生唾を呑んだ。
「……はい。違います」
騎士達の顔には落胆が浮かんだが、ユリウスはまったく構う様子なく「分かったら早く戻るぞ」と外へ顔を向けた。
「雨が降る前に陣営を整えておく必要がある。こんなところで油を売っている暇があるなら木でも運んでいろ」
「は、失礼いたしました」
「俺ではなく、家主らに謝ったらどうだ」
「……失礼しました」
上官に言われて渋々頭を下げる彼らに、リサは口も開かずにおいた。
ユリウスは「早くしろ」と部下を追い立て、小屋の外に出てから二人に向き直る。
「部下が迷惑をかけた。すまなかったな」
にこりとも笑わず、そのわりに騎士達のかわりにしっかりと頭を下げる。今度のリサは、その姿に呆気に取られたせいで「あ、いえ……」程度しか声が出なかった。
その顔は扉を閉めるときにいささか歪み、しかしそのまま出て行った。
「……災難だったなあ」
蹄の音が去るのを聞いた後、カスパーが溜息を零した。
「……ごめんなさい、カスパーさん。私のせいで面倒事に巻き込んでしまって」
「せいだなんてとんでもない、勝手にやってきたのは向こうだからね」
「どこも打ちませんでしたか? ちょっと見せてくださいね」
カスパーのことだから、怪我をしてもなんともないと言うに決まっている。リサは慎重に袖を捲り、そっと様子を確認した。
「しかし、紛争が起こっていたというのは困るね。村に戦火が及ばなければいいんだが」
「ええ、本当に。……死傷者も多いということでしたね」
あらゆる怪我や病を無限に治癒する力など持っていない。でも、薬草の心得くらいはある。もし、自分が手伝うことで少しでも楽になる人がいるのなら……。それに、またこうして小屋にやって来られて、カスパー以外の人達にも迷惑をかけられては困る。
リサがそう悩んでいることに気付き、カスパーは穏やかな目を優しく細めた。
「リサ、君は優しい子だから気にしているんだろう。私達のことは気にしないでいいんだよ」
「……そんなわけにはいきません。もし騎士団の方々がこの村を荒らすようなことがあったら」
「さっきのユリウス殿が統括しているなら大丈夫だろう。年寄りに優しい者に悪者はおらん」
「それは……そうですが……」
リサの頭には、ユリウスが真っ先にカスパーを助け起こした様子が浮かぶ。しかし、自分に向けられた視線はどういう意味だったのだろう。憎悪とまでは言わないし、嫌悪とも違う……あれはいったい……。
「まあリサ、そう気にすることはないさ。どうせこの村には略奪するようなものもない」
カスパーは呑気に笑うが、そう言われても気になるものは気になるのだ。リサは空と同じように暗い顔をしたままだった。
その次の昼前のことだった。薬草を採って帰ってすぐ、また少し遠くから蹄の音が聞こえ始めた。
……また、昨日の騎士だ。
やはり、“聖女”だと言い張って連れて行くつもりなのだろう。リサは徹夜で整理しておいた棚を見上げた。当面の薬は作っておいたし、器の下に名前を書いた紙を置いておいた。カスパーが字を読めるので、もしリサがいなくても理由に気付いて薬を配ってくれるだろう。
蹄の音が小屋のすぐ隣までやってきて止まる。リサは諦めて身支度を整え始めた。期待されるような聖女の力は使えないけれど、怪我の治療に役立つ薬は用意しておいた。せめてこれで、怪我に苦しむ人が少しでも減ればいい。
コンコン、とぶっきらぼうなノック音が響いた。リサは溜息交じりに扉を開け――驚いた。立っていたのがユリウスだったからだ。
昨日は「聖女なんていない」と兵を引き上げさせたのに、気が変わったのだろうか。
「……なんでございましょう」
「出掛けるか?」
「え?」
「出掛ける予定があるのかと聞いている」
……暇なら軍に来いと、そういう意味か? 困惑して首を傾げていると、ガラッと木々の転がる音がした。見れば、その足元に木材の入った袋が落ちている。
「……あの?」
「昨日、うちの部下が扉を壊しただろう。修理しにきた」
修理……? リサが目を丸くするのも気に留めず、ユリウスはぶっきらぼうに「扉を外すから下がれ」と顎で指示した。
「……もともと立て付けが悪かっただけですから、壊されたというわけでは」
「俺にはそれを知る術はない」
つまり、可能性がある以上は責任を取ろうということか。おそるおそる後ずさると、ユリウスは蝶番から扉を外す。口調のわりに仕事は丁寧なようだ。
まだ状況を飲みこめずにいるリサの前で、ユリウスは、扉を入口に合わせ、持ってきた木材を当てたり外したりして具合を確かめる。しまいには小屋の前に座り込んでカンカンカンカンと木槌の音を響かせ始めた。
「……あの」
リサは声をかけたが、無視だった。黙々と扉を直している。
雨は今朝やんだばかりで、小屋の前は泥だらけだ。それなのに、騎士の中で最高位の身分にありながら、扉を修繕するためならとそこにためらいなく座り込んで服を汚している。
カスパーのいうとおり、確かに悪い人ではないのかもしれない……。じっと後ろ姿を見つめていると「……“聖女”」突然その単語を口にされ、昨日と同じように跳び上がってしまった。
「……いえ、私は――」
「“聖女”ではないのなら、村の老人どもにはっきりそう伝えろ」
「え?」
「連中は“聖女のようだ”と言っているだけかもしれんが、俺の部下が聞いたように、確かにこの村には“聖女”がいるという噂がある」
ゾッ、とリサの背筋に悪寒が走る。ユリウスは手を止めず振り向きもしなかったが、まるでリサの表情を見ていたかのように「もちろんこの近辺まで来て初めて聞いた話だが」と付け加えた。
「いずれ王都に噂が届かないとも限らん。今のうちに“善人”とでも名前を変えておけ」
「それは……私はまったくもって善い人間ではないので自称するのはおこがましいのですが……」
「そんな話はしていない」
カンッと木槌の音が響き、リサは口を閉じる。ユリウスもそれきり黙って扉を直し続けた。
ほんの数十分後、ユリウスは仕事を終え、扉をはめ直した。ギイギイとまだ木の軋む音はするが、小屋の入口の形にぴたりとはまる。なにより、ユリウスが持ってきた柔らかいベルトのようなものが扉の下についたお陰で、扉を閉めると部屋が密閉され、ほんのわずかな隙間風しか入らなくなった。
「すごい……」
リサは馬鹿みたいに何度も扉を開け閉めした。そのたびに、ヒュオッと短い風の音がして、侵入してくる冷たい風を締め出すように扉が閉まるのが分かる。これなら今年の冬は凍えずに済むかもしれない。
「あの……、ありがとうございました」
「壊したのはこちらだ。じゃあな」
めいいっぱい明るい顔をしたつもりだったのだが、ユリウスはにこりともせず、しかも踵を返した。
しかし、壊れてもいない扉を修理するとおりこして今までよりよくしてもらったのに、何もお礼をせずにいるわけにはいかない。リサは「お待ちください!」慌てて引き留めながら小屋に引っ込み、連行されるときに備えて準備しておいた荷物を掴んだ。外に戻れば、ユリウスは既に馬にまたがって怪訝な顔をしている。そこに、薬の入った袋を差し出した。
「……扉のお礼です。瓶に入っているものは痛みがひどいときに一匙、水に溶いてお飲みください。三日以内に使いきって、古くなったものは捨ててください。袋に入っているものはよく洗った傷口に貼ってお使いください、こちらは葉の色が変わらない限りは使えます」
「扉は詫びだと言った。礼は要らん」
「でも、もともと壊れていなかったと言ったじゃありませんか。それに、どうせ数日で使い切らなければいけないものです」
じろ……とユリウスは袋を睨んでしばらく黙っていた。
「……そういうことなら、いただこう」
ひょいと片手が軽々と袋を取り上げた。瓶も入っていてそれなりに重たいはずだが、さすが騎士団長だ。
「……昨日いらした方々がおっしゃっていましたが、死傷者の数が多いのですか?」
「この村までは被害は及ばん」
死傷者の数が多い、つまり紛争は激化している、したがってこの村も巻き込まれるのではないかと危惧するかもしれないが、その点は心配ない、と……。間をすっ飛ばした返事にはいささか反応が遅れてしまった。リサとしては、もっと純粋に騎士団の状態を心配したつもりだったのだが。
「では、昼時に邪魔した」
「あ、いえ……ありがとうございました……」
颯爽と馬を駆る後ろ姿を見送りながら、リサは扉の前で立ち尽くす。
やっぱり、悪い人じゃないのかもしれない。それでも、聖女だと騎士団に連れていかれるのはごめんだ。
そして次の日、やはり昼時に再び蹄の音が聞こえてきた。三度目となればさすがに音で区別がつく、ユリウスの馬だった。
ノックされる前に扉を開けると、やはりユリウスが馬から降りるところだった。リサが出てきているのを見て眉を吊り上げたが、すぐに「忙しい時間帯にすまないな」と口早に謝罪した。
「いえ……あの、今日は一体……?」
「昨日もらった薬が大変よく効いて助かった」
「あら、それはよかっ――」
「だからその礼をしに来た」
「え? いえあれは扉のお礼で……」
お礼にお礼は不要です、そう口にする前にユリウスは馬から荷物をおろす。その手にあったのはパンや肉にワイン――騎士団内で配給される食事だった。
「これ……これは、ユリウス様のものではないのですか?」
「俺が礼をするのに俺以外のものを持ってくるわけあるか」
「そういう意味ではありません!」
薄々気付いていたことだが、リサは遂に確信した。
このユリウスという騎士団長は、“いい人”なのだ。部下が勝手に村娘を訪ねたことに謝罪し、その不始末と思しきものを当然のように引き受け、自分以外の村と部下の安否しか頭にない。そのせいでところどころ会話が噛みあわない。持ってきた食事も、どう見ても丸々一食分だ。見るからに豪勢ではないところも、このユリウスならば「騎士団長にも部下と同じ食事を」と指示した様子が分かるようだ。
馬鹿正直と紙一重ともいえる“いい人”。困惑しているうちに、ユリウスは食事の入ったバスケットをリサに押し付けた。
「確かに渡した。では」
「いえ、あの、ですから、薬は扉のお礼でしたし、薬が少々多すぎたとしてもこの食事こそお礼にしてはいただきすぎで……」
「俺は見合うと判断した」
リサの薬にはそれだけの価値があった――そう言ってもらえるのは嬉しく、つい頬を緩めてしまうが、もらい過ぎには変わりない。その不釣り合いな対価関係を受け入れるわけにはいかなかった。が、ユリウスは耳を貸さずに馬に乗ろうとしている。
「では、一緒にいただきませんか」
手綱を引き、今にも駆けようとしていた手が止まる。急に命令を変えられた馬はブルルッと少し憤慨し、ユリウスの手が「悪かった」とその首を撫でた。
「……それは貴様にやった。俺の食事ではない」
「私がいただいたものですから、私が誰と食べようと自由でしょう?」
じと……と黒い目が再びリサを睨み付ける。しかし、初めて会ったときとは異なり全く怖くない。なんならおそらく、睨んでいるつもりはない。考え込んで難しい顔になっている、その程度なのではないか。目つきが悪くて損するタイプかもしれない。
「……では世話になる」
ユリウスを小屋に招き入れたリサは、テーブル越しにユリウスを見て少々不思議な気分になった。ただでさえこの村には若い男はいないうえ、ユリウスは平均的な男性よりも体格がいい。そのせいで、小屋の中にいるユリウスが、ごっこ遊びの家の中に入ってきた大人のように見えてしまうのだ。
山羊の乳とチーズを用意しながらユリウスを見ていたリサは、その違和感にふふっと笑いを零してしまう。
「なんだ。俺の顔がおかしかったのか」
「いえ、珍しいお客がいるものだと思ってしまったのです。いま、騎士団はお昼の休憩時間ですか?」
パンにナイフを入れると、思ったよりは硬かったが、それでも普段口にするパンよりはずっと柔らかかった。この土地では豪華な食事をとることはできないとはいえ、騎士団であればそれなりのものは配給されているのだろう。
午後、カスパーが来る予定だからとっておこう。そうしてパンの半分をユリウスの前に置き、もう半分をバスケットに戻すと、途端にユリウスの顔が険を帯びた。
「やってくる村の連中に分けるつもりか?」
「え? ええ……」
「俺は貴様の薬の対価としてこの食事を持ってきたんだが」
トンッと指がテーブルを打つ。
「対価に不釣り合いだと半分返すのはまだ分かる。が――施しの精神はご立派だが――俺にも失礼だと思わないのか」
そう言われて初めて自分の過ちに気付き、リサははっと息をのむ。今度は本当に睨まれていた。
「……それは……そのとおりでございました。せっかくのご厚意を無下にしまして、失礼しました」
「大体、そのたった半分のパンで何ができる。一人の老人に与えてそれで終いだ。そのとき他の連中にはなにを渡す? 同じパンを食わせてやれないなら、まあ確かに貴様は“聖女のようだ”とは呼ばれなくなるだろうな」
鋭い言葉に、キリッと胸が痛んだ。
“なぜ私はだめなのですか?”“私が貴族ではないからですか?”――そう言われたことがあった。
“他人を差別するあなたは聖女なんかじゃない”と。
「……パンを渡すのは、貴様ではなく我々だ」
顔を上げると、ユリウスはもうリサを睨んではいなかった。
「人は貪欲だ。与えられたものに最初は感謝しても、いつか当たり前になり、感謝しなくなる。過剰に与えれば、その過剰さを裕福さと勘違いして筋違いの恨みや妬みさえ抱く。身の丈に合わぬ施しを与えれば、貴様も村人も不幸になるぞ」
「……この村の人は、そんな方ではありません」
「そうかもしれんな。しかし過剰な善意は他人を狂わせる」
黙り込んだリサの前で、ユリウスは自分のパンをかじった。自分のものをバスケットに戻して村人へ分け与える足しにすればいい――なんて躊躇いは微塵も見えなかった。
「失うことに合理はなくとも、得るためには対価が必要だ。貴様は仕事をしたから食事という対価を得た。村の連中も食事を欲するなら対価を要する。分かったら黙って食え」
“この子を治して”“だって“簡単に治すことができるんでしょう”――リサはまた昔のことを思い出す。
「……はい」
そっとパンにかじりつく。切ったときに感じたとおり、スープに浸す必要がないほど柔らかかった。
でも、本当に、自分だけがこれを食べていていいのだろうか。心がまだ晴れないでいると、ユリウスが溜息を零した。
「……村の連中が既に対価を払っているのは承知している」
「……え?」
「この地は辺境ゆえに紛争も多く、騎士団のために特別な負担も課せられてきた。そのわりに、いやそれゆえにというべきか、生活が貧しいのはここ数日で見てとれた。責任を持って我々が対処するから、余計なことはするな」
それきりユリウスは黙って食事を続けた。リサもパンをかじりながら、じっとユリウスの言葉を考えていた。
食事を終えると、ユリウスは「邪魔をした」とすぐに立ち上がり小屋を出て行く。答えを得たリサは、その後ろ姿を追いかけた。
「私の薬、買い取っていただけますか?」
馬に乗ったユリウスは答えなかった。リサはさらに付け加える。
「薬草を摘むだけでしたら、私以外の人にもできます。森に入る体力のない人には煎じてもらいます。それでいかがでしょう?」
そこまで聞いて、初めてユリウスは笑みを零した。会って三度目にして初めて見る笑みに、リサの心臓が少し跳ねる。
「いいだろう。いつ取りにくればいい」
「三日後……いえ、二日後の夕暮れに」
「承知した。質のいいものを頼む、リサ」
あれ、名前、知ってたんだ。後ろ姿を見送りながら、驚きの混ざった不可解な感情が、胸を鳴らしていた。
その日の午後、リサは村を周り、薬草摘みの手伝いを頼んだ。難色を示した者はおらず、皆こころよく引き受けてくれた。
二日後の夕暮れ、約束どおり現れたユリウスは、薬を確認するとすぐに重たい袋を置いた。予想できたことだが、見れば、中には大金が詰まっている。
「……あの……ユリウス様ご自身の給金ではありませんよね?」
「先日の話をして俺が身銭を切るほど馬鹿に見えるか? 辺境伯から引き出したものだ。騎士団内でよく効くと評判になっていたお陰で高値で買い取らせることができた」
それならよかった。胸を撫で下ろし、他の人達が誤解しないうちにと仕事に応じて金を分ける。皆から口々に感謝されながら金を分配し終えた後、リサは、ユリウスが馬から降りたまま待っていたことに気が付いた。
「……あの、どうかなさいました?」
「いや。いい関係だと見ていただけだ」
「ええ、この村の方々は穏やかで優しくて、いい人ばっかりですから」
「それでも、人は変わると言っただろう」
親切や厚意を受け取っているうちに、それが当たり前になってしまうから。前回と同じで、妙にその点を強調するものだ。
「……ユリウス様にもご経験があったのですか?」
「いや。俺にはなかった」
本当だろうか? 訝しんだが、ユリウスは薬の袋を馬に積み始めながら「保管方法に制限はあるか」と誤魔化した。
「湿気の多いところにはおかず、あまり暑いところには保管しないようにしていただければ大丈夫です」
「そうか。次はいつ来ればいい」
「そうですね……毎日採っていては森も枯れてしまいますし……。ああいえ、でも、別の種類のものであればすぐに採集して薬にできますから――」
あれ、と喋っていてリサは戸惑った。
ユリウスのしたことは、自給自足生活のこの村に外部と取引できる仕事を与えるということだった。みんな、薬草摘みは喜んでやってくれたし、いまそこでもお金が入ったことに喜んでいる。だからユリウスが薬を買い取ってくれるのはこの村のためになる。
しかし、そうではなく、いまの自分は“ユリウス様がすぐ来てくれるように”と──自分は、村のためではなく自分がどうしたいかを考えたのではないか?
なぜそんなことを考えてしまったのか。リサは一人で戸惑いながら「でも、騎士団で必要になるものは痛み止めくらいで……」と言い訳をした。
「他の種類の薬は、必要ありませんよね……」
「それは物によるとしか言いようがないな。例えば、そうだな、質の悪い酒を飲んで次の日に使い物にならなくなる馬鹿もいる。そのときに――」
「それならトーリン草とスピナッチを混ぜたものを飲めば多少気分が良くなると思います!」
渡せる薬がある! 思わず身を乗り出してしまった後で、目を丸くしたユリウスを見て我に返った。
「す、すみません……つい……たまにカスパーさん――あの隻腕の方がこっそりお酒を飲むんですが、次の日に気分を悪くしたときにはそれを……お役に立てると意気込んでしまいまして……」
嘘だった。役に立てるなんて殊勝な気持ちはどこにもなかった。
ただ、ユリウスがここに来てくれる口実が欲しかった。
それにユリウスが気付くはずもない。そうか、と無愛想な顔を少し明るくするだけだ。
「それはあると助かるな。領主が欲しがるとは限らないから最初の薬ほど高値で買い取れるかは分からないが……」
「構いません、だって――」
ユリウスに会えるのなら、そう言いかけて慌てて飲みこんだ。
「……鎮痛の薬を高く買っていただけるのですから、滋養の薬は安くても、合わせれば適正な価格になりますでしょう? それで充分です」
「村の連中がそれでいいなら、こちら側が応じることに問題はない。労働力が余っていてそれを活用できるなら互いにいい関係になるが、金に目のくらんだ連中が働き過ぎないようには見張っておけ」
無茶をして体を壊さないように、と心配してくれているのだ。ユリウスの言葉の訳し方が分かってきたリサは、クスクスと笑ってしまった。ユリウスは怪訝な顔をしたが、特に問いただしはせずに馬に乗る。
「それで、結局何日後だ」
「あ、そうですね……また二日程度いただければ……」
明日も来てくれたらいいのに。そう思ったが、理由はなかった。ユリウスも「分かった、二日後だな」と頷いただけだった。
「ではまた来る」
リサは、きれいに手入れされた尾が揺れながら遠ざかるのをじっと見つめた。
ユリウス様も、用がなくても来てくれればいいのに。
その願いは、通じることはなかった。ユリウスは、薬を取りにきては次の予定を確認して帰り、また予定通りに薬を取りにくる、そんなことを繰り返すだけだった。まるで淡々と仕事をするように――いや、ユリウスにとっては仕事以上でもそれ以下でもないのだろう。
その代わり、ユリウスの態度は段々と柔らかくなった。最初の、言葉少なく誤解を招く言い方はあまり変わらないが、ものを投げるようなぶっきらぼうな口調ではなくなった。リサと話す時間も少し長くなり、村にいる他の女性さえ、ユリウスのいないところでは「騎士団長様はいい男ねえ」と噂するくらいになった。それを聞いたリサは、ユリウスが村に歓迎されて嬉しいような、ユリウスの良さを知っているのが自分だけでなくて寂しいような、複雑な気持ちになってしまった。
そんなある日、いつもの薬を取りにくる時間、蹄の音が違うことに気が付いた。あの黒いたてがみの馬が「相棒」なんだと聞いていたのに、馬が負傷でもしたのだろうか――そう訝しみながら扉を開けると、やってきたのはいつかの騎士の一人だった。
彼は、馬から降りるやいなや「リサさん、すみません」とぺこぺこ頭を下げた。
「自分はローマンと申します。いつぞやは大変ご無礼を失礼しました」
「いえ……お気になさらず……」
今日はユリウスは? 騎士団のほうで忙しいのか? それともその身に何かあったのか? 不安を浮かべると、ローマンが「騎士団長でしたら、別の土地に遠征中でして」と口にした。
「リサさんのもとへ行く約束があるから、帰りが間に合わなかったら代わりに行くようにと申し付けられていました。次に来る日も確認しておくようにと」
「そうでしたか……」
大事があったわけではない。せめてそれだけ聞ければ安心だ。リサは胸を撫で下ろしながら、しかし落胆しながら、用意しておいた薬を渡した。
「次はいつ参りましょう? 騎士団長からは大体三日置きと聞いておりますが」
「そうですね、いつもそのくらいで……」
曖昧な返事しかできなかったのは、“三日あればユリウスが帰ってくるだろうか”と考えたせいだった。
でも、この予定はなにもリサだけのものではない。もしユリウスが明後日までに帰ってくるとして、二日後には取りに来てくださいと言えば、薬草摘みを手伝っている村人は普段より働かなければならないかもしれないし、いつもより薬が少なければユリウスに調整を依頼しなければならなくなる。
自分の我儘で、周囲に迷惑をかけたくはない。悩んだ末「いつもどおりで、大丈夫です」と伝えた。
「承知しました。……しかし、リサさん、改めまして、初めてお会いしたときは大変ご迷惑をおかけいたしました」
薬を馬に積んだところで、ローマンは深々と頭を下げた。リサの頭はユリウスでいっぱいだったせいで、素直に困惑してしまう。
「ええと……何のことで……」
「……聖女がいるという噂を真に受けて、リサさんを無理矢理騎士団に連れて行こうとしたときのことです。その節は大変失礼しました」
「あ……ああ!」
そうだ、そういえば彼は自分を聖女だと決めつけて小屋にあがりこんだのだ。今となっては全く気にしていないことだったので、リサは本心で首を横に振る。
「いいえ、お気になさらず。お陰様でこうして薬を買い取ってもらえるようになり、村のみんなも少しずつ豊かになりましたから」
「そうですか……いえ、申し訳ないのですが、そう言っていただけると助かります。騎士団長に叱られてしまいました――」
ユリウスはあの場だけではなく、去った後も部下を指導してくれていたのか。そう知ったリサは頬を緩めてしまいそうになり「聖女なんていないのだから、と……」続きに言葉を失った。
そういえば、そうだった。ユリウスは親の仇とでもするような顔をして、聖女の存在を否定していた。だから、リサも最初は、ユリウスに対して少し壁を作ってしまっていた。
「……ユリウス様は、過去になにかあったのでしょうか? 例えば……、聖女に騙されたなど……」
言いながら喉が閉塞感に襲われる。ローマンは「いえ、そうは聞いておりませんが……」と首を横に振りながらも、そう言われてみればとでもいうように顎を指で挟んだ。
「あの方は、かつてご家族を亡くされたそうです。もしかすると、そのお方が聖女に救ってもらえなかったのかもしれませんね……」
ドク、と心臓が揺れた。リサの反応を勘違いしたのか、ローマンは「ご存知ないですか、少し前にいた聖女のお話を」と少し意気込んだ。
「もとは貴賤にかかわらず人を助けていたようですが、王家に召し上げられて以来、金のない者は相手にしなくなったそうです。贅沢な暮らしに慣れ、金に目がくらんだんでしょうね。騎士団長は貴族の生まれではあると噂がありますが、だからこそ謝礼金を吊り上げられでもしたのかも……」
黙り込んでいると、ローマンは「ああいや、これは無駄話を失礼」と軽く会釈し、帰り支度を始めた。
「では、三日後に改めて参ります。騎士団長がお戻りになったら伝えておきますので」
「……ありがとうございます。よろしくお願いします」
ユリウスは、早くに家族を亡くしていた。それ以外に確たる話は何もなかったが、聖女が治療を拒絶したせいで助からず、“聖女なんていない”と怒り、嫌っているというのも、有り得なくはない話だ。
この自分の話を聞いたら、ユリウスはどんな反応をするだろうか。
ローマンを見送りながら、リサの心には暗雲がたちこめていた。
三日後も、やってきたのはローマンだった。ユリウスに会えないのは残念だったが、反面安堵もしていた。たった三日では、ユリウスにどんな顔をすればいいのか分からなかった。
ただ、次の日、その安堵を真正面から叩き壊す人物が、村を訪ねてきた。
リサが皆で摘んだ薬草を小屋で選り分けてみると、蹄の音だけでなく馬車の音まで聞こえてきた。誰か偉い人でも来たのだろうかとつい小屋の外へ顔を出したリサは、馬車に描かれた紋章を見て青ざめた――皇家の紋章だった。
慌てて小屋に引っ込んだが、もう遅い。
「クラリッサ!」
扉を閉めるより先に、大きな声が飛び込んできた。
逃げなくては。今すぐ、急いでここから逃げなくては。リサは、散らばっていた荷物を慌ててかき集め、でも薬売りの仕事を投げ出していいものかと逡巡し……。そうしているうちに、扉が勢いよく開け放たれた。
「クラリッサ……!」
現れた人物は、顔にも声にも喜色を滲ませている。だがリサは部屋の対角線上に逃れた。
上品な育ちが分かる顔立ち、現皇帝と同じオレンジ色の髪と瞳――エーヴァルト皇子だ。
「探したよクラリッサ。大変だっただろう、こんな狭く汚い家で――」
「お引き取りください」
早口の声には、日頃のリサ――クラリッサにはない明確な拒絶の意志があった。しかしエーヴァルトは心配そうに眉尻を下げるだけだ。
「そんな言い方をしないでもいいだろう。私は君を心配してきたんだ」
「心配ですって? 私を王都から追放したのは、他でもないエーヴァルト殿下です!」
「誤解だよクラリッサ。私は君を追放するつもりなんてなかった」
エーヴァルトの靴が小屋の中に踏み込む。村人や騎士団員と違い、汚い道を歩いたことのない綺麗な靴だった。
「あくまであれは父上の判断だったのだ。皇帝たる父に逆らうことのできなかった私の気持ちも汲んでくれ」
「では貴方が陛下に『クラリッサは聖女の力を盾に皇家の財を食いつぶそうとしている』とおっしゃったのは演技だったのでしょうか? もし演技だというのなら、陛下のいないところで『ろくな爵位もない自らの身分を恥じるがあまり聖女の力を出し惜しみしている』と私を罵ったのはなぜだったのでしょう? 最後の日だって『偽物の聖女と国民に知らしめてこの帝国のどこにも住めぬようにしてやる』とまで口にしたじゃありませんか。それと同じ口で『父に逆らうことのできなかった』なんて理屈が通りません」
「相変わらず覚えがいいな、クラリッサ。しかし誤解だ、この帝国では皇帝たる父上が絶対の存在、それは私にとっても同じこと。父上の隣で黙って立っているだけでは足りないのだ、あくまで私個人の意見でもあるように君を詰らねば……。君なら分かってくれるだろう、クラリッサ」
「いいえ分かりません」
カッカッと靴音を響かせながらエーヴァルトはクラリッサに歩み寄り、クラリッサはじりじりと壁際を移動する。
「それに、私への罵倒が本心だったかどうかなどどうでもいいのです。殿下は、我が一族が代々受け継いできた薬草庫を燃やされました」
ある晩、煌々と燃えていた温室と書庫。そのときの光景を思い出すだけで声が震えた。
「我が一族の宝であったこともどうでもいいとは申しませんが、何よりも、あれはこの国の人々に必要なものです。それが灰塵と帰したことで、この国の人々がどうなるか考えなかったわけではありませんでしょう?」
「それは君がこの世の常識を理解していないせいだ。君は聖女などと称えられてきた箱入り娘だから、分かっていないことが多いんだよ」
「殿下のあの行動が常識だというのなら、私は一生非常識のままで構いません!」
叫びながら、ついに扉の前まで来てしまった。ぐるりと小屋の中を一周してしまったし、扉のすぐ外にはエーヴァルトの護衛達が立っている。
逃げられない。壁に背を張りつけたままぎゅっと拳を握りしめていると、エーヴァルトには隠しきれぬ勝利の笑みが浮かんだ。
「さあクラリッサ、城へ帰ろう。君がこんなところで不自由な生活に苦しんでいい理由なんてない」
「いいえ、私はここで不自由などしておりません。どうぞお引き取りください、エーヴァルト殿下」
その気になれば小屋に火を放ってでも逃げおおせてやる――その決意が目に現れていることに気付いたエーヴァルトは、仕方なさそうに眉尻を下げた。
「そういうことであれば、仕方あるまい」
「や……」
小屋の外から伸びてきた二本の腕がクラリッサを羽交い絞めにする。舌を噛み切らぬよう、その口には乱暴に布も押し込まれた。
「仕方がないんだよ、クラリッサ。ここだけの話、私の妻となるべき女性が病に倒れてしまってね。主治医もお手上げの大病なんだ」
モガモガと布の奥からくぐもった抗議をするリサの前に、エーヴァルトは屈みこんだ。
「君の最後の仕事だよ、クラリッサ」
残酷に微笑まれ、クラリッサの目が大きく開かれた。
その体を拘束していた護衛が、体を横から折られるようにして吹き飛んだ。ゴロッとリサが床に転がり落ちる瞬間、その体を別の腕が抱き留め、さらにもう一人の護衛が吹き飛ぶ鈍い音がした。
エーヴァルトは魔術でも見たような顔になっていたが、クラリッサを抱えて立っているユリウスを見て顔色を変えた。
「貴様……辺境伯のもとの騎士団長か?」
「何度か式典でご挨拶させていただきましたね、皇子殿下。ユリウス・フィン・フォルスカです」
まるで子どものように床に下ろされたクラリッサは目を白黒させていた。なぜ、ユリウスがやってきたのか。今日は薬草を取りにくる日ではないはずだ。
ともあれ、ユリウスがやってきてくれたのは幸運だった。この地の領主である辺境伯は、皇家が頭を抱えるほど権力を蓄え始めている。だからこそクラリッサも逃亡の話に乗ったのだが。
皇家と辺境伯の間には、いつ寝首をかくかかかれるかの緊張関係さえある。そして辺境伯の騎士団はあくまで辺境伯の騎士団であって皇家のものではない。ゆえに、ここでのエーヴァルトとユリウスの立場に明確な上下は観念できなかった。
お陰で、エーヴァルトも襟を正しながら、リサに相対したように見下した顔を向けることはしない。
「……騎士団はここから少し離れているはずだが、騎士団長がこんな村に何用かな」
「この村で薬を処方してもらっていましてね、私は辺境伯の命で窓口に立っております。そういう殿下こそ、このような辺境の村にわざわざ自ら足を運び、何用ですか」
ぐ、とエーヴァルトは一度閉口した。正当な理由があるとは想像しておらず、てっきりクラリッサと良き仲に違いないと勘繰ったからだ。
「……将来の皇妃の危機だ。不治の病に侵され、主治医も匙を投げた」
「それほどの容態の患者を、医者でもなんでもない彼女に診ろと?」
訝しんだユリウスに、クラリッサは体を強張らせ、エーヴァルトは一瞬呆気にとられた。
しかし、次の瞬間にはククッと笑みを漏らす。
「そうか。そうだなクラリッサ、この男の前では力を渋ったか」
「……おやめください、殿下」
「教えてさしあげよう、騎士団長。彼女は医者以上の力を持っている」
「それは知りませんでしたね。辺境伯のもとには優秀な医者が多いので」
「彼女は“聖女”だ」
自信たっぷりな暴露に、ユリウスは肩を揺らし、目を瞠る。それに裏切りを咎められているようで、クラリッサは視線を背けた。
「騎士団長ならご存知だろう、“聖女”の力を。あらゆる疾病を治癒する万能の力を持つ存在だ。しかもその力は、かつて女神を射落とし、その加護をものとした我が帝国の女にしか与えられない」
「…… “聖告”を受けた者に与えられ、その者が力を失うとまた別の少女が“聖告”を受ける」
「そのとおり、よくご存知だ。クラリッサはその“聖女”だ」
ユリウスはクラリッサを見つめようとするが、俯いている彼女のつむじしか見えない。
一方、エーヴァルトは、視線を背けてもいいと思われるほど見縊られていることに気が付き、口に苛立ちを滲ませた。
「……数年前、我々はクラリッサの力を見出し、皇族へと迎え入れようとした。しかしもとより皇族に入るのが目的であったのだろう、以来彼女は誰も救おうとせず、“聖女”の力を求めて来る者から財を巻き上げるばかり」
そんなことはない。反論したかったが、体が震え、声すら出なかった。
「クラリッサは“聖女”の力を出し惜しみ、私達の懇願にも関わらず頑として誰の治療もしなかった、この帝国の宰相さえな。そして“聖女”の力を持ったまま姿を消した、この意味が分かるか?」
「……帝国は“聖女”の力が欲しいという話ですね」
「そのとおり“聖告”を受けるのはただ一人のみ――つまり帝国には“聖女”は二人生まれない。クラリッサが“聖女”の力を使わないのは勝手なことだが、しかし力を使ってもらわねば次の“聖女”が現れない」
「……なるほど、殿下のおっしゃることはよく分かりました」
そっと、ユリウスの手が肩の上に乗った。まるで引き渡そうとするかのようにその手には力が籠り、クラリッサはさらに顔を伏せた。
「例えば陛下が重要な公務の最中に急病に倒れた場合、それを他国に知られれば攻め入られる隙となるが、“聖女”がいればその心配はなく、むしろ他国にとって“聖女”という脅威を見せつける機会となる。応戦する騎士団も、“聖女”さえいればどんな傷も恐れなくていい。確かに、欲しいわけだ」
「さすが騎士団長、よく分かっている。クラリッサは帝国繁栄に不可欠だ」
エーヴァルトも、引き渡されようとするかのように一歩前に出た――が、ユリウスがその手を放すことはなかった。
「実にくだらない」
「……何?」
逆に、肩を抱き寄せ、庇うように自分の後ろにやる。
「そんな国など、滅んでしまえばいい」
「貴様何をッ――」
エーヴァルトが反駁のため口を開いた瞬間、タァンッと軽やかに眼前に刃が振り下ろされた。ユリウスの剣だ。あと一歩前に出ていれば、脳天から股まで貫かれていただろう。床に突き刺さった白刃は、エーヴァルトの前髪を数本散らしながら、怯えるエーヴァルトの姿を反射していた。
「一人から“聖女”の力が失われても、新たな“聖女”が現れるからそれでよい――そうして次々少女を食い潰すのか? 少女を食い潰すことは帝国にとってなんら損失ではないから構わないと? そのブラウスを悲しみの色に染めるから許せと? 馬鹿げている」
剣が引き抜かれ、切っ先がゆっくりとエーヴァルトの腹から胸までなぞった。身を震わせたエーヴァルトを、ユリウスは鼻で笑う。
「“聖女”が帝国に不可欠というのなら、この贅を尽くした体は帝国に不要だろう。王宮の飾りより川辺の土嚢となるほうが有意義かもしれんな」
「き……貴様ッ……」
心臓に切っ先を突き付けられたまま、エーヴァルトは必死に喉を震わせ、激しく目と眉を動かした。
「私を誰と心得る! たかが一介の騎士団長が不敬であるぞ!」
「なるほど確かに、頭に不治の病を抱えていらっしゃるらしい。皇子殿下はお勉強なさらないのか、皇帝陛下は自ら御しきれないからこの地を辺境伯に任せ、その辺境伯もまた自ら御しきれぬがゆえに求めたのが我々騎士団であると」
その騎士団長ともなれば、皇子と名乗られたところで頭を下げ媚び諂うほど弱い立場にない。血筋の威厳が通用しないと分かったエーヴァルトは、壁紙よりもぴたりと壁に張り付いた。
「もちろん、今ここで無抵抗の貴様を切り捨てれば俺の首はない。だが大義名分をくれるのであれば喜んでお相手する」
騎士団長という肩書のみならず、鍛え抜かれた体躯は服の上からでも分かる。護衛は既に地に転がり、エーヴァルトを守ってくれるのは飾り剣のみだ。
「ッ……後悔、させてやるぞ」
「子々孫々かけて呪うのか? 日々震えながら鍛錬に励むとしよう」
ユリウスが剣を引き、しっかりと鞘に納めた後、エーヴァルトはその背を壁から剥がした。髪と肩についた埃を乱暴に払い、苦々し気に扉を蹴り上げて出て行った。
ずるっ、とクラリッサは足を滑らせ、そのままへたり込んだ。緊張の糸が切れ、立っていることができなくなったのだ。
ゆっくりと、ユリウスが振り向く。エーヴァルトと対峙していたときと変わらぬ目に射竦められると、余計に立ち上がることができなかった。
「……クラリッサ」
唇は、静かにその名を呼んだ。
「……“聖女クラリッサ”。君は“リサ”ではなく、クラリッサだったのか」
嫌われてしまう。胸に落ちたその不安が、波紋のように広がっていく。
それでも、今更「違う」などとは言えない。もう隠し通せない。
静かに頷いたが、ユリウスは黙ったままだった。
騎士団長は、過去に家族を亡くし、その家族は聖女に救ってもらえなかった人かもしれない――ローマンから聞いた言葉が耳元で響く。
もし、私が拒絶した人が、ユリウスの家族だったら?
「……もう、来てくださいませんか?」
「何?」
怖くて声が震えた。怖いというのはおかしかったが、そうとしか言えなかった。もうユリウスがここに来てくれなくなる。あの穏やかなまなざしを向けてくれることがなくなる。
そう考えたときに感じるのは、寂しさとは全く違う恐怖だった。
「……ユリウス様は、“聖女”を嫌っているのでしょう?」
リップ音がしたが、ユリウスは何も言わなかった。見上げれば、その唇を強く結び、眉間にはいつにもまして厳しげにしわを寄せていた。
「……私は“聖女”ですから。ユリウス様は……私を」
「そうではない」
間髪入れず答えた後で、ユリウスははっとしたように口を覆った。言葉に悩むように、その視線は虚空をさまよう。
「……そうでは、ない」
ゆっくりと繰り返す。片言隻語のやりとりばかりのユリウスらしくなかった。
「……違うのですか?」
「違う。決して“聖女”を嫌っているわけではない……」
もう一度口を閉じ、そして開いた。
「……昔話なんだ」
ユリウスは、伯爵家の長男だった。家族は両親のほかに姉が一人。伯爵とはいえその領地は貧しく家は貧乏で、味のしない透明な汁を啜って食事としていた。
そんなある日、姉が妙な夢を見た。白い長い髪の女性が、姉の両手を握ると、その両手が青い光に包まれたのだという。そして女性は「40年ある。大事に使いなさい」と告げた。
そこまで聞いて、リサは目を見開いた。
「……まさかそれは、“聖告”ですか」
「……そのとおりだ。知っているということは、君が“聖女”なのは事実なんだろう」
ある日、ユリウスが転んで怪我をした。心配した姉がその膝を撫でると、瞬く間に傷が癒えた。
ユリウスの姉は、それを仕事にしようとした。領民の子が足を切った、手首を痛めた、ひどい熱をだした、そう聞くとユリウスの姉は飛んでいき、これを治療しては麦や野菜を分けてもらった。子爵令嬢が足を捻ってしまったのを治療して、銅貨を数枚もらった。伯爵令息が落馬して体を強く打ったのを治療して、金貨を十数枚もらった……。そんなことを繰り返し、ユリウスの姉は「“聖女”の力を持つ」と称えられるようになっていった。
“聖女”の力によって、ユリウスの家は段々と豊かになっていった。ユリウスも、両親も、ユリウスの姉自身も喜んでいた。
ただ、ユリウスの姉は、たまに不思議そうに「同じ夢を繰り返し見る」とぼやくようになった。白い長い髪の女性が、両手を握って「この1ヶ月で8年分だった」「今日だけで1年だ」と、数字は覚えていないが、とにかく年数を告げるのだという。ユリウスの家は、不思議な夢だねと姉と一緒に不思議がっていた。
ある日、夜会で火事が起きた。高貴な伯爵令嬢が瀕死の大火傷を負い、生死の間を彷徨うことになった。ユリウスの姉の評判を聞いていた伯爵は、ありったけの財宝を手に娘と共に訪ねてきて、治癒を頼んだ。ユリウスの姉は、もちろん躊躇うことはなかった。
ユリウスの姉が手をかざすと、伯爵令嬢は大きく息を吸い込み、健康な体のように呼吸した。ただれた皮膚はもとの玉のような白い肌へと戻っていき、火傷の痕など一ミリも残さず消えた。伯爵も令嬢も感涙し、ユリウスの姉は辞退したが、有り余る謝礼を置いて帰っていった。
その日の夜、ユリウスの姉は夢を見た。白い長い髪の女性が、姉の両手を握った。両手は、やはり青い光に包まれていた。
『大きなものを引き受けたね。実に20年分だよ』
「それが、姉が最後にまともに話した言葉だった」
リサは黙り込んでいた。女性の言葉の意味も、ユリウスの姉が、以後発狂した理由も理解できたからだ。
「以来、姉はいつも泣いていた。外からは、いつも“聖女”の力を求める人々の声が聞こえていた。……それは、いつしか怒号に変わった。金払いのいい貴族ばかり治療して、領民を無視することにしたのだろうと」
同じだった。クラリッサが治療をしないと決めたときの周囲の反応と、そしてエーヴァルトがでっちあげた理由とまったく同じ。
そしてそれは、ユリウスが、不機嫌にさえ見えるほどの態度でクラリッサに教えたことの裏返しだった――過剰に与えれば、その過剰さを裕福さと勘違いして筋違いの恨みや妬みさえ抱く。
「それからしばらくして、俺がひどい熱を出した。当時、俺と同じ年の頃の子の間で流行っていた病だった」
「……それでは」
「……熱が下がり、俺が意識を取り戻したとき、姉は隣で死んでいた」
そうしてきっと、また別の少女が“聖告”を受け、その少女が斃れ、そしてまた別の少女が……。それを繰り返し、やがてクラリッサが“聖告”を受けた。
そうだったんだ。クラリッサはようやく理解した。ユリウスは“聖女”を憎んでなどいない。
“聖女”として食い潰された姉の命を悼んでいて、だから“聖女”という存在に世間とは異なる疑義を抱いている。
なにより、ユリウス自身が罪悪感に食い潰されそうなのだ。姉の命を最後に食い潰した自分は、“聖女”を食い潰す人々と何も違わないと。
「……君は“聖女”のクラリッサ。そうなんだろう?」
クラリッサは、静かに息を吐き出した。ゆっくり立ち上がり、ユリウスがしているように壁に背を預ける。もう足の震えは収まっていた。
「……ええ。そうです。私もまた“聖告”を受けました。……5年ほど前のことです」
「……俺の姉と同じか?」
「はい。……なんの前触れなく、血筋にも関係なく、ある日突然、女神から自らの肉体寿命と共に力を授けられること。あらゆる傷病を治療できること。その対価として、その傷病に値する寿命を支払うこと、支払った寿命を女神に告げられること……すべて同じです」
ユリウスを見上げると、いつもクラリッサを見るときとは異なる感情が浮かんで見えた。
まるで、呪いを受けた者を見て、その受難を悼むかのような目だ。
しかし、クラリッサは微笑み返した。
「ただ、幸いにも、私は“聖女”の能力をいち早く知ることができたのです。……母の幼馴染が聖告を受け、早いうちに亡くなったそうです。私が“聖女”の力を授かったことが分かってすぐ、決して使わないようにと言いつけられました」
「……しかし、皇族に見つかった?」
「……私が愚かだったのです。愚かにも、私は自分の力の意味を知りませんでした」
「……惜しみなく使ううちに見つかったから、自身に責任があると?」
それはクラリッサを“聖女”として引っ張って連れて行っていい理由にはならない。そう言いたげな眼差しを向けられ、「私も昔話をしましょう」と微笑み返す。
クラリッサは、“聖告”を受けた次の日、母親に夢の話を教えた。すると、母親は顔を真っ青にして、決して“力”を使わないようにといつになく厳しい口調で教えた。クラリッサにはその意味も、力の意味も分からなかった。ただ、ある日ふと、怪我をしてしまった子を撫で、自分に治癒の力が備わったことを知った。
「子どもって愚かでしょう。私は力の意味なんて考えることもせず、自分には“特別な”力があると喜びました。母の言いつけを守ろうとせず、隠れてこっそり力を使い、喜ぶ子を見て喜び、夢の中で告げられる年数の意味を考えようともしませんでした。……言い訳がましいかもしれませんが、もともと人力による治療の限界を知っていたせいもあったかもしれません」
「……まさか本当に医者の家系か?」
「いいえ、違います。私のファミリーネームはグラシリア――私は、クラリッサ・ティア・グラリシアというのです」
ユリウスは、クラリッサが“聖女”だと知ったときよりも驚いた。グラリシア家といえば、皇族お抱えの宮廷薬剤師を務める一族。世襲ではないのにそう勘違いする者もいるほどグラリシア家の者ばかり選ばれるのは、ひとえにその一族が他のどの者よりも薬学に貪欲で精通しているからだと言われていた。
過去形なのは、ほんの2年前にグラリシア家は帝国を追放されたからだ。公には、その秘伝の薬剤の供給を渋って薬草庫に火をつけ、温室を燃やしたという背信行為によるものとされている。
だが、そうであるはずがない。目の前のクラリッサ、なによりエーヴァルトとのやりとりを思い返し、ユリウスはその噂の裏に思い至った。
「……聖女の力を使わなかった君への、みせしめか」
「……ええ」
力を使っていたクラリッサは、ある日それを母に見つかった。母は涙を流しながらクラリッサを叱った。そこで初めて、クラリッサは“聖女”の力と呼ばれている治癒能力の代償を知った。
もっと早く教えてくれればよかったのに。そうしたら使わずにいたのに。最初、クラリッサはそう思った。
でもすぐに思い直した。きっと、自分は使ってしまっていた。寿命を削るなんて言われても、きっと子ども心には実感が湧かず、なんとなく使ってしまっていただろう。逆にその恐ろしさを実感できたとしても、今度は身に迫る死の恐怖に耐えられず、怯えて生きることになったかもしれない。
実際、母から代償を知らされた後のクラリッサは、自分の力の強大さに怯えた。人力による限界を超えて他者を治癒する力は、その代償として、骨を削るように寿命をすり減らしていく。なぜ自分がそんな力を得てしまったのか、どうして自分でなければならなかったのか。
そしてなにより、今まで使った寿命の年数は? はたと気が付き、計算しようにも、今まで告げられたすべての数字を思い出すことなんてできなかった。
自分はあとどれだけ生きられるのか? そもそも自分の肉体寿命は何年だったか? 一年や二年ではなかったと思うが、自分は一番最初、夢で何年と告げられただろう? 母に話したから、母は覚えてるかもしれない。でも、もしそれが十年だったら? 今までの治療で寿命を一、二年削ったとしたら、あと八年しか生きることができないのか? そんなに大きな怪我を治療したことはないから、それほど大きく寿命を削っていないはずだが、その認識は本当に正しいのか?
考えれば考えるほど怖くなり、クラリッサは力を使うのをやめた。
宮廷兵がやってきたのは、それからすぐのことだった。クラリッサが治療した相手に宮廷官吏の子がおり、その話を聞きつけた皇帝がクラリッサの捜索を命じていたらしい。クラリッサは無理矢理家から連れ去られ、エーヴァルト皇子の妃候補という名目で宮廷に閉じ込められた。
クラリッサの両親はもちろんそれに対抗し、クラリッサを返すまで皇族含め宮廷官吏に調剤しないと主張した。しかし、皇族にとって“聖女”の力とは垂涎もの、両親の反抗により“聖女”の力を発揮しないのであればと、エーヴァルトは皇帝に代わってグラシリア家の薬草庫の焼却命令を下した。クラリッサはすぐさま“聖女”の力を使うことを決め、懇願したが、薬草庫は燃やされた。次は一族を処刑すると脅された。
そうして、クラリッサはエーヴァルトに命じられるがままに次々と貴族を治療し始めた。皇族は、有力貴族から財産を巻き上げ、その蓄えられた力を削り、皇族の地位を盤石なものとしていった。
そんなある日、ある貴族が、クラリッサが帝都から逃られる手引きをした。彼は、過去に治療をしてくれたお礼に、宮廷で窮屈に暮らすクラリッサを助けたいのだと言った──それがこの地の辺境伯だった。クラリッサは彼の手引きにより帝都を抜け出し、この地へ逃れた。
そうして、グラシリア家は離散し、いまや家族はどこにいるのか、生きているのかも分からない。
「皇族が、代々“聖女”の力を必要としてきたことは、宮廷にいる間に嫌というほど耳にしました。でも当然ですよね、さきほどエーヴァルト殿下がおっしゃったように、“聖女”がいれば永遠の命が手に入るのです。常に治世の壁として立ちはだかってきた病を、代償を払うことなく克服できる。常に手元に置いておきたい存在でしょう」
でも、とクラリッサは続けた。
「それでも私は、死んでしまうことが怖かったのです」
利己主義者め、とエーヴァルトはクラリッサを罵った。
“聖女”の力はなぜ与えられたと思う。他人を、皇族を治し続けるためだ。その昔、皇族は多大な犠牲を払い、女神の加護を受ける権利を手に入れた。だから皇族にはその血を絶やさず帝国を治め続け、また絶えず生まれる“聖女”は皇族に傅かねばならない。大体、“聖女”に選ばれたのなら、自らに帝国史に残る役割を与えられたことを誇りに思い、真っ先に陛下のもとへはせ参じるべきであった。それをしなかったばかりでなく、その責務を放棄し、死ぬのが怖いなどと言い訳をして力を渋るなど、売国奴に等しい……。
そう言われたことを、昨日のように思い出す。ただ、幸か不幸か、“聖女”に選ばれる者に法則がないため、皇族はいつも“聖女”探しに苦労しており、クラリッサを手放さないために、手を変え品を変え言葉で脅してくるだけだった。寿命が削れては困ると、拷問されることもなかったし、体力が削れぬように、なんなら寿命が延びるようにと食事もずいぶんといいものを与えられた――まるで出荷前に太らされる家畜のように。
それでも、いやむしろ、そうして消費される家畜として見られていたからこそ、クラリッサには、皇族のために命を削る決断ができなかった。
「臆病な愚か者でしょう」
ただ、皇族以外の大臣やその家族を含めて、クラリッサが自らの命惜しさに治療を渋ったのも事実。
“聖女”を嫌悪していないとしても、それだけで幻滅しただろう。クラリッサは自嘲したが、ユリウスはにこりとも笑わずにいることに気付き、笑みを引っ込めた。
「……そう思いませんか?」
「思わんな。死が怖くない者などいるものか」
それは“聖女”を姉に持ったゆえか、戦線に身を投じる騎士ゆえか。
いずれにしろ、ユリウスはクラリッサの恐怖を馬鹿にはしなかった。
「死など怖くない、恐れるものか、そう口にする者はいるが、大にしてあれは、死の淵に立つ自らを鼓舞するためだ。何より、“聖女”のように、代償に自らの命を明確に削ることなど、そうありはしない。そんな力を手に喜んで尽くそうなど、偉丈夫でも思うまい。年端のいかない少女となれば、なおさらだ」
この人が、帝国皇子であればよかったのに。クラリッサは笑ってしまった。たとえ慰めの言葉だとしても構わない。ユリウス様のような人が皇子であれば、きっとグラシリア家が離散することも、薬草庫が失われることもなかった。
……もしかしたらクラリッサも、ユリウスのためなら力を使ったかもしれない。クラリッサは、自分の掌を見つめる。いつかもう一度、この力を使うことがくるのだろうか。
思い悩むクラリッサを前に、それに、とユリウスは付け加える。
「姉も、死を恐れて、気が触れてしまったのだしな」
「……でも、最後は勇気を出されたのですから」
「いや。もし姉が平時の状態であれば、俺を助けることはできなかっただろう」
平時というと、“聖女”の力の代償を知る前だろう。ユリウスは過去を思い返すように、視線を虚空へ投げた。
「仲のいい姉弟だったと、俺は思っていた。俺の病も、流行病で後遺症が残る者も多かったとはいえ、命が助からないものではなかった。その病を、命を投げ出して治すというのは……もちろん、こうして五体満足で今の地位にあるのは姉が治してくれたお陰かもしれないと、感謝はしている。ただ、姉上は、姉上を喪うことの寂しさを理解してくれない人だっただろうかと、たまに寂しくなる」
たとえ片腕が動かなくなっても、共に生きてくれたほうがよかったのに。それを選べなくなるくらい、姉は追いつめられてしまっていたのかもしれない。ユリウスはそう続けた。
ただ、クラリッサには、姉の気持ちが分かる気がした。聖女として力を求められ続け、求められるがままに、家族を養う金と引き換えに力を使ってきた。それなのに、自分の命が惜しくて逃げ出して、今度は弟が病に倒れた。
もし弟の病が治らず死んでしまったら、自分が力を使わなかったせいでそうなってしまったのだと考えたとき、後悔せずにいられるだろうか。弟の命のために賭けに出たことを、周囲は咎めずにいるだろうか……。
「……長話をしてしまったな」
クラリッサが相槌を打つ前に、ユリウスは背を壁から離した。
「……聖女は、その力を使わなければならない存在ではない。少なくとも俺はそう思っている」
「……それは」
それは、姉に向けた言葉か、それとも、クラリッサに向けた言葉か?
畳み掛ける前に「ところで」とユリウスがもう一度口を開いた。
「ローマンはきちんと薬草を受け取ったか?」
「え? え、ええ……約束したとおりに来てくださいました」
「そうか……」
微妙な沈黙が落ちていた。そういえば、ローマンは昨日薬草を取りに来てくれたから、ユリウスは来るとしても三日後だと思っていた。
それなのに今日、来てくれたのはどうしてだったのか。沈黙の中で、クラリッサの内側では期待が膨らむ。
「……しかし」
不愛想な横顔には僅かに気まずさが滲んでいて、その期待がさらに高まった、が。
「君がグラシリア家の人間だったと知って、納得した。どうりで、君の薬は評判が良かったわけだ」
――薬! クラリッサは状況も忘れてがっくりと肩を落としそうになった。
もちろん、その期待の正体は分かっている。しかしそれを口に出すことなどできるはずもない。
クラリッサの気を知ってか知らずか、ユリウスは「まあ、多少飲んでも今までより楽だと考えた馬鹿どもが酒の量を増やして叱る羽目になったが」などと嘯く。
「辺境伯など、君さえよければこの村でなくもっと中心へ出てきてほしいなどと話していたが……君の事情を知ると、そんなことは言えないな」
「……ええ。ご遠慮します」
「もちろん、もとからそんな話にはならないと思うと答えておいた。だから心配はせずともいい、殿下のこともそうだ。辺境伯と殿下は微妙な関係であるしな……」
「……ありがとう、ございます」
「ではまた二日後」
そして愛想のひとつ振りまくこともなく、それどころかいつもよりもさらに足早に、クラリッサが止める間もなく馬に乗って行ってしまった。
……引き留めればよかったのかしら。クラリッサはがっくりと肩を落としたものの、すぐに元気を取り戻す。
しばらくは遠征があるとも聞いていないし、二日後に来ると言ってくれたし、またユリウスは三日置きに薬を受け取りに来てくれるようになる。すぐに会えるのだから、そうやきもきせずとも、数日の辛抱だ。
皇子のことなどどうでもよくなるくらい、クラリッサの頭の中はユリウスでいっぱいだった。
その二日後のことだった。
いつまでもユリウスがやってこない。その日のぶんの薬を用意し終え、いつも以上に耳を澄ませ、堪えきれずに何度も窓の外を見て、それでもユリウスはやってこなかった。そのうちカスパーがやってきて薬を受け取り、あれやこれやと世間話をして夕方になってしまって、それでも来なかった。
「そういえば、王国側の間者が見つかったと大騒ぎだったなあ」
「……間者ですか?」
そうか、ユリウスはその対応に追われてしまっているのか。クラリッサは納得しかけたが「昨日の話だがね、なんでもその間者が王国兵を招き入れたって」既に戦火を交えたかのような報告に、ゾッと背筋を震わせた。
「王国とはずいぶん長い間緊張関係にあるからなあ、いつ起きても不思議じゃなかったが……ああリサ、大丈夫、そう心配することはないよ」
クラリッサが顔を青くしていたからか、カスパーはすぐにいつもの調子に戻った。
「ほら、あの騎士団長の」
「ユリウス様?」
「そう、騎士団長様が捕えたそうだ。だから心配することはなかろうよ」
そう……か……。頷こうとしたが、安堵は胸に閊えてしまった。なにか得体の知れない不安が胸を襲っている。
まさか。いや、大丈夫だ。ユリウスはもうすぐやってくるはず。いま感じている恐怖は、ただの勘違いか、妄想か……。
カッカッカッと蹄の音が聞こえ始めたのはそのときだった。勢いよく振り向いた扉の向こう側からは、急くような音が聞こえてくる。ユリウスの馬ではない、気がするが……いやいつもより足が速いから別の音に聞こえるのか……。
その足音が止まるか止まらないかのうちに、小屋の扉が勢いよく開け放たれた。
「リサ様!」
ユリウスではない。そう気付いたクラリッサの前に現れたのは、ローマンだった。
そのローマン、その片腕を首から三角巾で吊り、顔面にも痛々しいほどの怪我をしていた。それでもなお分かるほど、その顔には焦燥が露わになっている。
「どう……ユリウス様、は……」
「騎士団長が負傷なさったのです!」
状況を訊ねる前に、彼はすがりつくように、ぼろきれのようなクラリッサの服の裾を掴んだ。その目には恐怖と――期待が映っており、クラリッサは瞬時に理解した。
「リサ様は、本当は聖女なのでしょう?」
きっと彼は、あの日の皇子とのやりとりを聞いてしまったのだ。そしてきっとユリウスは――。
「どうか、騎士団長を救ってください」
騎士団の宿舎となっている屋敷の手前まで来ると、煤と血の臭いが鼻をついた。クラリッサが顔をしかめるより早く、馬は石畳の上を駆け抜け、敷地の奥までクラリッサを一気に運んだ。
扉の前で転がり落ちるように馬から降り、走るローマンに続いて屋敷へ、そしてその一室へと飛び込んだクラリッサは、そこに横たわるユリウスを見て――馬上で聞いていたとおりとはいえ――顔から血の気が引くのを感じた。
「ユリウス様……」
高熱にうなされているせいか、おそらく意識はない。体の両脇に置かれた腕はまるで棒のように力がない。体の横たえられた寝台は、水でも零したようにぐっしょりと濡れている。額には止めどなく汗が浮かび、玉を結んでは零れ落ち、一部は赤黒い包帯へと――右目を覆い隠すように巻かれた包帯へと染み込んでいく。
精悍な顔立ちは痛々しい手当てに隠れ、しかしそれでも分かるほどその顔は苦痛に歪んでいた。クラリッサの知るユリウスの面影など、そこに見えないほどに。
「半日以上、意識がないそうです」
不安を吐き出すように、ローマンは繰り返した。
「王国兵の間者は既に自害し、医者も毒の種類を解読することはできませんでした。医者は、毒が全身に回るのは時間の問題だと……致命傷で、最早助からないというのです。しかし、あなたは、本当は聖女なのでしょう? どんな難病も、まるでなかったように治療することができる聖女の力を持っている」
クラリッサはユリウスの左手をとり、その熱と裏腹にぴくりとも反応しない、まるで置物のような感覚にぞっと背筋を震わせた。
その後ろで、ローマンが膝をつき、額を地面に擦りつけた。
「騎士団長は私を庇ったせいでその腕に毒矢を受け、立て続けに目まで射られ、それでもなお私を助けようと奮闘してくださったのです。リサさんの聖女の力に代償があることは分かりました……それが、非常に危険な代物であることは、分かっています。私とて、その力を騎士団のために振るってほしいと、私の怪我を治してほしいとまでは、決して申しません。しかし、どうか、どうか騎士団長だけは、お助けください……!」
どうすればいい。クラリッサの頭は真っ白だった。
医者は匙を投げ、毒の種類はまったく特定されていない。クラリッサが薬剤調合の最先端を離れて既に2年、この土地でも薬草を見てきたとはいえ、所詮は限られた地域でのこと。王国兵が作った毒の調合方法など、正確に分かるとは到底思えない。第一、それを分析できたとして、解毒薬を調合するだけの材料がすぐに手に入るのか? 手に入ったとして、調合するまでユリウスの体はもつのか? 命が助かったとして、身体に何の障害も残らないのか? 第一、眼球はすでに失われ――……。
熱い左手を握ったまま、クラリッサは目が乾ききるほどに呆然と立ち尽くしていた。その後ろでは、じっと、ローマンが頭を下げたままだった。
「……分かりました」
そう返事をしたとき、クラリッサの唇は、老婆のように乾ききっていた。
少女が、ユリウスの額に手を載せた。その柔らかいてのひらを、汗を吸い取るようにぴたりと押し当てる。そうしてもらうと、妙に身体が軽くなっていくような気がした。まるで、今まで雁字搦めにされていたかのように窮屈だった体から、ふっと力が抜けていく。
ああ、そうだ、ユリウスが風邪を引いたとき、悪夢にうなされたとき、いつでも姉上はこうして額に柔らかい手をのせ、その苦痛を和らげてくれていたのだ。手のひらが離れていくのを感じながら、そんなことを思い出した。
ぼんやりと、ユリウスは意識を取り戻した。
酷くうなされ、懐かしい夢を見ていた記憶があった。……死んだ姉の夢だったように思う。しかし、なぜ姉だと思ったのか、その姉が夢の中で何をしたのか、何を話していたのか、思い出せることは何もなかった。
「……俺は」
何をしていた。そう口に出そうとして、喉が酷く傷んだ。咳き込んでしまいながら体を動かそうとしたとき、ガタガタッと視界の外で椅子の揺れる音がした。
「騎士団長!」
「……ローマンか」
姿を見つけるより先に声で気付き、顔を向けると、ローマンはへたりこんだように床に座り、手をついていた。
まだはっきりとしない頭で記憶を探る。最後に見たローマンは、馬の下敷きになっていた。動けなくなったローマンが狙われてはならないと、慌てて馬から飛び降りたが、その後のことを思い出せない。
ただ、見る限り、腕以外に大きな怪我は見当たらない。その顔には傷痕が残っているものの、腫れはだいぶ引いていた。
もしかすると内臓を押し潰されたかもしれないと心配していたが、無事だったようだ。安堵すると、途端に自分の顔に巻かれた包帯が鬱陶しくなり、手をかけ――部屋の隅で眠る少女に気が付いた。
同時に、自分が毒矢をこの目と腕に受け、さらに体に穴があくほどの重傷を負ったことを思い出し、戦慄した。
「クラリッサ!」
駆け寄ろうとして、膝から床に落ちてしまった。寝台の横に置いてあった机が倒れ、水差しが落ち、けたたましい音を立てて割れ、あたりが水浸しになり、破片がその場に砕け散る。
しかし、ユリウスにとってそんなことはどうでもよかった。まさか――その予感に突き動かされるがまま、クラリッサの土気色の顔と、ローマンの居た堪れなさそうな顔を見比べ……立ち上がり、ローマンの胸座を掴み、揺さぶる。
何も口にせずとも、それだけで何を聞かれているのかは理解したのだろう。上官相手にも関わらず、彼は静かに項垂れた。
「……申し訳、ありません。騎士団長の……必要以上に彼女に接触するなという言いつけを……」
「……お前が、連れてきたのか」
「……彼女が、聖女だという話を聞き」
申し訳ありません、という呟きを聞くより先に、ローマンの体を投げ捨てた。あまり力が入らず、ローマンは蹈鞴を踏んで背中を扉にぶつけただけだった。
よろりと、自分らしくない力の入らない足が、クラリッサに向く。その前に崩れるように膝をついた。
「……クラリッサ」
姉と同じだ。ユリウスの脳裏に、十余年前の記憶がよみがえる。酷い高熱にうなされ、目が覚めると、姉は――。
恐ろしいほどに冷たくなっていた体、それに触れた瞬間の感覚が今このときにも掌に蘇るようで、どんな戦場よりも背を怯えが襲った。
「……リ」
そのとき、クラリッサの目蓋が震えた。
ゆっくりと目を開け、しばらくユリウスを見つめる。
「……ス様……目が、覚めたのですか?」
寝惚けた声が、しかし確かな安堵と共に、ユリウスを確認した。
呆然とするユリウスの頬に、クラリッサは手を伸ばした。拍子に、顔の包帯がほどけ落ちた。
右目の状態を確認したクラリッサは、次いで左腕を手にとる。ユリウスの手が震え、僅かに不自然な動きをした。
それを合わせて握りしめ、クラリッサは、仮眠をとっていた長椅子から落ちるようにして床に座り込み、額にその手を押し当てる。
「……ごめんなさい、ユリウス様」
はらはらと涙がこぼれ、ユリウスの左腕を濡らす。肌感覚におかしなところはなく、クラリッサに手を握られている触覚もあった。何もおかしいところなどなかった。
ただ、ユリウスがクラリッサの手を握り返そうとした瞬間、ストンと、抜け落ちたように、ほんの一瞬、感覚が消えた。
「ごめんなさい。あなたの右目と、左腕を、もとに戻すことができなくて、ごめんなさい」
視界は狭く、不自然なほどに右側が見えない。左腕の感覚はいまはある、が……先ほどは間違いなく、麻痺していた。射られた毒矢のうち刺さったのは二本、そのうち一本は左腕に刺さった。おそらくその毒が抜けきらなかったのだろう。
きっと、もう、左手ではまともに剣は持てまい。
「ごめんなさい。私は、力を使うことで、命を削りきることが怖くて……あなたと一緒にいることができないのが、寂しくて。もっとずっと、あなたと一緒にいたくて、力を使うのを惜しんだのです」
ごめんなさい、ごめんなさい、とクラリッサは何度も繰り返した。
扉の開く音が聞こえ、ローマンが出ていく。向こう側から「今日のぶんの薬は?」「リサさんならまだお休み中だ、もう三日三晩まともに寝ていらっしゃらなかったんだから」「騎士団長は峠を越えたんだろう、ご様子は……」聞こえていた声は、少しずつ遠ざかっていった。
「ごめんなさい、ユリウス様」
泣き続けるクラリッサを、気が付けば抱きしめていた。それでもクラリッサは泣いていた。
折れそうなほどに華奢で痩せた体だった。この小さな体で三日三晩、彼女は解毒方法を必死に探し、薬を調合し、看病してくれたのだ──姉の命を奪った“聖女の力”という忌まわしい力を使わずに。ユリウスは隻眼を閉じた。
「……ありがとう、クラリッサ」
数年後、帝国には疫病が蔓延した。身分を問わず平等に人々が罹患していったそれは、歴史書によれば、過去にも蔓延したものであったが、その治療法は不明であった。帝国には腕利きの薬師はおらず、その資料もなく、また薬草庫もなかった。
皇帝は、帝国中の医師を集めよとの勅命を出したが、間もなく病死した。帝国は混乱に陥り、エーヴァルト皇子もやがて床に伏し、「クラリッサを連れてこい」と喚き続けていた。
そんな中、ある辺境伯領の騎士団が帝都に入り、薬と食料を配給した。これにより、蔓延していた病はあっという間に終息の兆しをみせ始めた。それにもかかわらず、ただ王宮にだけ、薬が届かなかった。
阿鼻叫喚の図を作っていた王宮に現れたのは、例の薬を配り歩いた騎士の主の、辺境伯だった。
「私に帝国を譲ることを条件に、この薬を差し上げましょう。いかがですか?」
命あっての物種、なにより、皇族はこの混乱を収束させる力を持たず、それどころか帝国を混乱へ陥れた元凶そのものであり、病に苦しむ者をよそに莫大な財を糧に自分らだけ生き延びようと手練手管を尽くしていたと反感を買いすぎた。既に、現皇家を支持する者など誰もいなかった。
エーヴァルト皇子はなすすべなく、その年、その地位を辺境伯へ譲り渡した。
辺境伯領は、その領主が辺境伯令息──現皇家の次男坊すなわち公爵令息となったこと以外、何も変わらずにいる。
クラリッサは、深い森を前に立ち尽くし、ぼんやりと風の動きを見ていた。
「――クラリッサ」
蹄の音に振り向くと、ユリウスが迎えに来てくれたところだった。腕を引かれて馬に乗り、クラリッサは背中をユリウスの胸に預ける。
「新当主はいかがでしたか?」
「先代よりも随分と素直で人が良さそうで、逆に心配事になりそうだった。君のことも気にしていた」
「私のことですか?」
「ああ。なにせ今回の疫病を終息させた功労者だ」
微かに振り向くと、ユリウスも少し首を傾けた。眼帯で塞がれていないほうの目が、クラリッサの目と至近距離で見つめ合う。
「先代辺境伯の提案にもあったが、君さえ望めば相応の地位を約束できると。それこそ、帝都の薬草庫を復旧させるのも容易なはずだが、話を受ける気はあるか?」
ユリウスの屋敷に住むようになったとはいえ、相変わらずクラリッサはこうして森までやってきては手を泥だらけにして草を採り、冬にはあかぎれも作りながら薬を調合する、そんな生活をしている。
しかし、宮廷薬剤師になれば、もっと環境の整った場所で薬の研究ができるだろう。いわば臨床からは離れ、日々カスパーや騎士団のための調剤に追われず、自分の好きな調剤に専念できる。
そんな提案を、クラリッサは丁重に断った。ユリウスは怪我が原因で辺境の騎士団長を辞すことになったものの、指導者の立場で残っているし、もし宮廷薬剤師になればユリウスと離れて暮らすことは免れない。
「私は結構です。そもそも今回の件は私ではなく、知識を受け継いできた一族に感謝すべきことですし。そうだ、それなら離散した一族を呼び戻していただけると嬉しいですよ。きっと皆よく働きます」
グラシリア家は草の虫と揶揄されるほど薬草研究が好きなものばかり、それがまた宮廷薬剤師にしてもらえるとなれば喜んで昼夜問わず調剤に明け暮れてしまうに違いない。
ふふ、と笑いながら、クラリッサは手綱を握るユリウスの左手に手を添えた。手綱は指の間に引っかかっているだけで、握ることはできていなかった。
「それに私は、ユリウス様とこの村で暮らしていくほうが幸せですから」
「……そうか」
ユリウスは、クラリッサの小麦色の頭に、ふわふわと顔を埋めた。
「それなら、よかった」
かつて偽物聖女と糾弾され追放された“聖女クラリッサ”、彼女はいまも辺境の村でひっそりと暮らしてる。