一歩
目があった
「あ…」
鈍い衝撃音の後にいくつもの車輪が空転するけたたましい音、何かが滴り落ちるような音。
そして何拍か置いて何か湿っぽいものがゆっくり潰れるような音が地下鉄のホームに鳴り響いた。
「…」
頬や服に何か液体が飛び散ったような感覚があった。急いで体を見下ろし、次に顔を触ってソレが付着していないかを確かめる。よかった。顔には付いてない。
「え?今の音って」
「おい!誰か飛び込んだぞ!」
「救急車!?まずは駅員に…」
「スッゲー!初めて見た!」
こういうときの人の流れが目まぐるしい事は知っているから、急いでその場をあとにする。しばらくすればここはスマホを片手に持ったクソガキや物好きたちでちょっとしたお祭り騒ぎになってしまうから、急いで着替えのできる場所へと向かう。
「ねぇ、そこの人」
これ以上こういう現場にいるのを撮られるのはまずい。とりあえず学校には遅れても問題ないから服装をなんとかするところからだ。大丈夫、替えのシャツは持って…
「ねぇ、貴方だってば」
がしり、と後ろから肩を掴まれる。そこまで強い力ではないが、その声の調子に戸惑って足を止めてしまう。なんというか必死さを感じる声だった。
「…なんですか」
「なんですかじゃないでしょ。そんな真っ青な顔で。ほらこれ水!トイレはこっちだからついてきて!」
そっちのトイレは防犯カメラに見られるから行きたくない…とは言えない。仕方がないからついていくしかない。「いいえ、結構です」と言おうとした頃には「ほら、それ持つから」と登校バッグはひょいと持っていかれてしまっていた。
その女性はそそくさとトイレへの最短ルートを突き進んでいく。品よく高いヒールに大きなカバン、襟についたよくわからないバッヂ。その出で立ちだけで私とはわかりあえない人種だとわかる。そんな胸を張った堂々とした歩き方を私はきっと一生することができない。
それにしても、そうか。私の顔は今青いのか。
それは、なんと無責任なことだろうか。
「落ち着いた?」
「はい…」
いやいや、ホントのホントに吐き気なんて催していなかった。マジで。たしかにメンタルは結構来てたかもしれない。それは認めるとしても私はそれが身体に出るような体質ではない。あってもお腹が少しキリキリする程度のものだ。それが4-5回ほど背中を擦られただけで朝ごはんの鮭が食道を遡上してきた。
「そう?待ってて、歯磨きセット買ってきてあげる」
「っ! い、いえ大丈夫です、そこまでしてもらうわけには」
「いいからいいから、そこに居てね。逃げちゃだめよ」
「逃げるって…」
また人の話を聞かずに女性は高らかにヒールを鳴らしながら個室を出ていく。恐らくここから少し遠い駅構内のコンビニに向かうのだろう、カバンは置いて財布だけを脇に抱えていた。
そのカバンから着信音が鳴った。意図せずその画面が目に入る。 専務 とだけ表示されている。
にわかに焦る私に追い打ちをかけるように着信音が2つに増える。私のではない。恐る恐るカバンを覗き込むと2つ目の端末の画面も見えた。表示されているのは、
「しゃ、しゃちょう…」
「あ、もうそんな時間か」
「!!」
反射的に振り返りそうになるのをすんでのところで抑えた。危なかった。
「落ち着いたら歯磨きしな?私はちょっと電話するね」
「あの…」
「もしもし社長!いやぁすみません!これにはやむにやまれぬ理由がありまして」
控えめに押し付けられた袋は何故かこの辺りにはないドラッグストアのもので、その中には普段使っている三倍ほどの値段の歯ブラシに歯磨き粉が五種類ほどずつ、そして高そうな胃薬と経口補水液が入っていた。
消えかけた吐き気が復活した。
「…ええ、そう。拾い物したんです。連れてくるので新しいメガネ用意してください」