2話 あんた何者?
今日から俺の高校生活が穏やかに始まる。
……はずだった。
始業式を終えた後、進級クラスでホームルームが始まった。
「葉山瑞希です。よろしくお願いします。」
胸がざわつく。俺のクラスに、あの葉山瑞希がいる。
葉山瑞希は数少ない高等部入試からの新入学生だった。
中等部からの顔なじみの前で自己紹介を済ませた葉山瑞希はスカートのヒダの具合を気にして、手のひらで慣らしてから椅子にかけた。
淡々とホームルームが進んでいくが、教室は妙な空気感に包まれていた。
葉山の姿にクラス全員が呆気に取られ、誰も何も言えなかった。一方、葉山瑞希は一切気にする様子もなく、黒板を見つめていた。
葉山瑞希は何故女の格好を……。
その疑問が頭に浮かび、俺はどう接したらいいのかわからなくなった。
小学校の同級生だったけど、接点があったのはいじめっ子から助けた時くらいで、特に会話をした記憶すらない。
何色が好きだっていいだろ!?
小学生の俺が心の中で叫んだ。そうだ。何を着たって自由なんだ。そうなんだ。それなのに、なぜ……。
俺は何故スカートをはいて化粧をする葉山瑞希に複雑な思いを抱いてしまうんだ。心は女で、女になりたい男? 女の格好をしたい男? どうしてスカートを……?
俺には理解できなかった。
理解できない。ただそれだけでやつの得体が知れなくなり、怖くなった。
悶々としているうちにホームルームが終わり、休み時間がきた。
みんな葉山瑞希のことが気になっている。
こいつ何者と思いながらも、触れてはいけないと普段通りを演じていた。
誰も葉山に話しかけない。傍を通りもしない。葉山とクラスメイトの隔たりは明らかで、ひとり取り残されていた。
葉山は頬杖をつきながら窓の外を眺めている。その横顔に昔の顔が重なって、俺の心がざわざわと音を立てた。
クラスがいつも通りの休み時間を演出していた頃、ひとり席を立った葉山はスカートをヒラヒラなびかせながら教室を出ていった。
途端に静かになる教室。
クラス全員が葉山の行動を目で追った。
クラスメイトの日高が廊下に顔を出し、後をつける。男子トイレの個室に入ったところを目視した。
「あいつ、やっぱ男だぜ。男子トイレ行ったわ」
日高の品のない冷やかしにつられて何人かがゲラゲラ笑った。
「変わってるよね」
女子は女子でヒソヒソと葉山のことを話した。
突然やってきたスカート男を受け入れられない気持ちはみんな一緒だった。まずは無視という形で拒否反応を示している。
この居心地の悪い空気。記憶にある葉山のくしゃくしゃの泣き顔を思い出し、胸が苦しくなる。あの時と一緒だ。
俺は拳を握り締め、俯いていた。振り上げようにも手が上がらない。俺にはこの場の空気を変える勇気も、得体の知れない葉山をかばう自信もない。傍観するしか、ない。
「ねぇ……」
戻ってきた葉山瑞希が教室の端から声をかける。
全員ビクッと振り返った。
「あのさ、みんな自分のこと変なやつって思ってるよね」
葉山瑞希は席に戻りながら、ひとりひとりの顔をしっかりと捉えた。誰も何も言い返せず、教室から音が消えた。
「そうだよね」
余裕の態度だった。
「生物学的には男です。だけど、みんながどう思おうと自由。それと同じように、どんな格好をするかも自由。そういうことだから、よろしくね」
微笑みながら席に着く。
あの頃と様子が違う。昔の葉山瑞希とは全然違っていて、別人だ。隠すしかなかったピンクのハンカチで堂々と手を拭いていた。
教室は静まり返ったままだった。
誰もが葉山をどう扱えばいいのか困っている。
「ねぇ、葉山……くん? 葉山さんって自分のこと、女だと思っているんですか? それとも男ですか?」
「ちょっとやめなよ」
木村ゆかりが顔色を伺いながら、ナイーブな質問を切り込むと、周囲の女子たちに嗜められる始末。
葉山が何者であるかの質問。それはクラス全員が知りたくても聞けないことだった。
「……」
その質問に葉山は少しの間目を閉じた。
何を言おうか考えている様子だった。
「すごく大事な質問だと思う。みんな自分が何者かわからないから、どうしていいかわからないんだよね」
葉山瑞希はそう言うと、ゆっくり立ち上がった。
「ただ、可愛いものや綺麗なものが好きで、それで女の子の格好がしたいだけ。たまにはメンズの格好もするし、男子と一緒に遊んだりもする。多分……自分は男でもなければ女でもない。それが自分なんだ」
ひとりひとりと視線を向けながら語る葉山にクラス全員が息を飲んで聞き入った。演説に圧倒され、教室は暖かい空気に包まれた。
「さっきは悪い……」
葉山瑞希をいじった日高が、申し訳なさそうにおずおずと手を差し出した。
「大丈夫。慣れてるし、怒ってないから」
苦笑した葉山瑞希は日高の手を握手で迎え入れた。
「自分のことは好きに呼んでよ。葉山、でもいいけど、良かったら瑞希って呼んで。くんでもちゃんでも、さんでもいいし」
「じゃあ、私は瑞希ちゃんって呼ぼうかな」
率直な質問をした木村ゆかりと女子たちが葉山の周りを囲む。
「瑞希ちゃんってすごく肌綺麗だけど、化粧水何使ってるのー?」
「ああ、これはね……」
葉山瑞希の周囲には輪が出来上がっていた。
* * *
「新井くん! 今日はありがとう」
次に葉山瑞希と話したのは放課後だった。
休み時間の度に葉山の席にはクラスメイトが集まっていたが、俺はそれをただ眺めているだけだった。
「お礼を言われるようなことしていないけど」
本当に俺は何もしていない。
「何言ってるの。朝、かばってくれたじゃない」
それだって俺が来るまで口論していたのは葉山自身だ。葉山瑞希はもう、自己主張できない弱い人間ではない。自分が自分であることの誇りと自信が満ち溢れている。
「葉山が自分でなんとかしてたろ」
もしかしたら初めて名前を呼んだかもしれない。
「そんなことないよ。……昔から、助けてもらってる」
独り言のように付け足された言葉に俺は反応を返せなかった。
「瑞希って呼んでよ。……ねぇ、透矢って呼んでいい?」
足早に帰る俺の隣に葉山瑞希が寄り添っていた。背中がこそばゆい。中学から下の名前で呼ばれたことなんてなかった。
「……ああ。てか、近ぇよ。お前」
「ごめん。海外帰りのせいかな。距離感わからないや」
クスクス笑う瑞希の微笑は男とも女とも違う不思議な雰囲気で、ますますこいつの得体がしれなくなった。
「せっかく同じクラスなんだし、仲良くしようね」
……どういう意味だ。
特に意味はないのかもしれない。
だが、もし特別な意味があったとしたら……?
頭の中にニュースで見たLGBTQが浮かんだ。瑞希はどれに分類されるんだろう。興味本位で形にはめようとしている自分に気づいた。
いや、失礼だろ。
コミュニケーションを取るにあたって、相手はどのカテゴリに属している人間なのか無意識に当てはめ、付き合う対象を選ぶのは人間の性なのか。どうしても色眼鏡をかけて見ようとしてしまう。
瑞希にどう接したらいいのか。俺はさっぱりわからない。
それなのに何故、小五のクラスで一番目立たなかった葉山瑞希の今が、気になってしまうのだろう。