第三話 かくあるべきは騎士の姿 後編
「はっ、はっ」
乱れて行く呼吸に限界を感じ、冬華は足を止めた。膝に手を突き肩で息をしていると、幾つもの水滴が地面へと滴り落ちていく。立ち止まれば考えてしまう。本当に自分は騎士になれるのだろうかと。この誰に優れるでもない体で誰かを救うことができるだろうかと。
「ブンブン、そんなことないです!」
思考が深く暗い方へと向かおうとするのを彼女は頭を振って止める。
「ここまでは頑張れたんですから、ここからも頑張れるはずです!」
そう自分に言い聞かせ、彼女は再び足を動かそうとする。けれど、力を込めるもその太腿が上がることはなく、根性ではどうにもならない限界が肉体に訪れたことを理解した。
「少し……休憩ですね、これは」
彼女は重くなった体を引きずるようにして、グラウンドの端の階段に腰掛けた。息を整えようと大きく吸い込んだ空気は少し冷たく、顔を上げてみればすでに夕焼け空も夜空に青に染まり始めていた。
「ボー」
呆けた様子で空を眺めていると、冬華の隣で一つ足音が止まる。それに気づいて彼女が顔を上げると、そこには同じように空を見つめる直樹の姿があった。
「し、ししょ……会長さん?」
「隣、良いか?」
直樹は冬華の方に目を向けることなく尋ねる。
「え、あの、はいっ! もちろんです!」
彼女は戸惑いながらも答える。それを聞いて直樹は彼女の隣、とはいっても一メートル程の距離はあるのだが、同じようにして石段に腰掛けた。
「あ、あの……」
そう彼女が何か言おうとする前に、直樹は彼女に向けてここに来るまでに買ったペットボトルの水を放り投げる。
「わわっ」
彼女は慌ててそれを受け取ろうとするが、汗で滑る手では難しかったようで短パンから覗く太腿の上に落ちる。
「はうあ」
その冷たさに可愛らしい声を漏らす。
「差し入れだ。水分はきちんととれ」
「み、見てたんですか……」
直樹の言葉に彼女は自分が走っていたところを見られていたことを察し、少し恥ずかしそうにする。
「ありがとうございます」
そう言って彼女は受け取った水の封を開け、口を付けた。
「ゴクゴク」
熱の籠った体に冷えた水が流れ込み、彼女は疲れが吹き飛ぶような心地よさを感じた。
「ぷはー、美味しいです!」
「そうか」
一息ついた彼女に直樹は問いかける。
「あれからずっと走っていたのか」
「はい。私、ここに入るために勉強ばっかりしてたので」
入学には筆記試験しか必要としない騎士科を目指すのにそれは正しい努力であった。その努力の結果が今の彼女であり、今の寮の割り当てという所に表れている。
「でも、やっぱり体力つけないと駄目でしたね」
少し自嘲気味に冬華は笑う。
「どうして騎士になろうと思った」
その問いかけに冬華は少し表情を暗くした。そうして少し躊躇いがちに口を開く。
「昔のことなんですけど、私、テロに巻き込まれたことがあるんです。家族で遊びに行った時のことなんですけど、その時、私は自力では逃げられなくて、建物の中に取り残されてしまったんです」
冬華はその時のことを思い出さないようにか、詳細は語らない。けれど、直樹には彼女の陥った状況が何となくではあるが理解できた。
「ああ、私はここで死ぬんだって思えるくらいには絶望的で立ち尽くすしかなかったんです。足掻いたところでどうにかなる状況でもなかったんですけどね」
当時の彼女がいくつであったかは分からない。けれど、なにか特別な訓練も受けていないであろう一般人がテロに巻き込まれて何かできることがあるとは思えない。彼女もそれが分かっているのだろう。
「朦朧として、暗くなっていく視界の中で私は見たんです。白銀の装束を纏って私の前に現れた騎士の姿を」
それが彼女が『騎士』という存在を認識した瞬間だった。
「震るえる私の体をその大きな腕が優しく包んでくれて。それに私は、ああ、助かるんだって安心したんです」
過去に想いを馳せる冬華。その横顔はどこか寂しげに映る。
「だから、私もあの騎士さんみたいに誰かを安心させる存在になりたいと思ったんです」
救われた命、与えられた安心に報いたい。故に、次は自分が巣食う側に、与える側になりたいと彼女は望んだのだ。
「それで、弟子入りか」
「はい。でも、断られちゃいましたね。あはは……」
冬華は寂しそうに笑う。
「秋……副会長には頼まないのか」
「ししょ、会長がいいんですよ。覚えてませんか、あの日のこと」
「あの日?」
直樹には彼女の言う『あの日』というものがいつのことなのか分からなかった。心当たりがなさそうにする彼に、冬華はどこか嬉しそうに笑みを溢す。
「だから、師匠が良いんです」
ついに言い直すことを止めた冬華であったが、直樹は彼女の言う意味が分からなかった。
「だって、人一人を助けたのに覚えてないなんて、助けることを当たり前のように思っていないと在り得ないですよ」
「助けた……お前を」
そこで直樹はようやく思い出す。あの日、この学園の入試の日に駅から学園までの見回りを任されていた彼が落下する鉄骨を斬り刻んだことを。
「あの時の受験生か」
「あ、思い出してくれたんですね」
「そうか、受かっていたのか」
「そんなに馬鹿っぽく見えてたんですか?」
「そうではないが事故の後だ。実力は出し切れないだろう、と思っていたんだがな」
そんな彼女がこの学園の成績優秀者であるのだから、その精神力を侮ることはできないだろう。
「いらぬ心配だったか」
「はい! いえ、むしろやる気が出ましたよ!」
「そうか」
その冬華の熱に直樹は思わず笑みを浮かべた。彼の横顔を彼女は嬉しそうに見つめる。そんな視線に気づき、彼はようやくその視線を彼女に合わせた。
「どうかしたか」
「あ、いえ。なんだか師匠、元気がなかったように思えたので」
ああ、そういうことか、と直樹は納得する。元気がないというよりは、少し自己嫌悪に陥っていたのだ。秋の言う通り、自分が冬華の覚悟や努力を無下にしようとしていたことに気付かされ、合わす顔もないのに彼女に会わなければならない自分が恥ずかしかったのだ。
「でも、なんだか元気になったみたいでよかったです!」
気遣うべき相手に気遣われ、居た堪れなくなる直樹は再びその視線を暮れていく空に戻した。
「これからどうするつもりだ」
そう尋ねられ、冬華は少し思案顔をした後に口を開く。
「まずは次の体力測定に向けて基礎体力作りですね!」
冬華は勢いに任せて立ち上がり拳を作る。
「そして、今度こそは十位以内に入って、師匠に弟子入りを認めてもらいますよ!」
自信に満ち溢れた表情をするも、直樹はそれを呆れ顔で眺める。
「次の体力測定は来年だ」
「はっ! それなら時間に余裕がありますね。もうこうなったら本当に一位を目指しちゃいますよ、これは!」
一人盛り上がる冬華を尻目に直樹は嘆息を漏らす。
「来年、俺は卒業してるぞ」
「はうあ!」
大げさなリアクションを取る冬華に、苦笑する直樹。これはこれからが大変だと、学園最強は思うのだった。