エピローグ 前編
「う、ううん」
くぐもった声が漏れて、冬華は意識を取り戻す。霞む視界に、目を擦ろうとするも思う様に持ちあがらない腕に彼女は首を傾げた。
「起きたか」
「あ、あれ、ししょう? ここは……」
なんとか瞼を持ちあげると、彼女の顔を覗き込む直樹の姿が正面にあった。
「私は、どうして……」
「まだ動くな。血は止まったが、完全に傷が塞がってはいない」
「え、血?」
そうして彼女はようやく思い出す。ここが合宿所の屋上であり、自分は辻に首筋を切られて血を流していたのだということを。
「い、生きているんですよね、この私は」
「そうだな」
そうして冬華は思い出したように視線を下に向ける。そこには直樹が掛けたのだろうシーツが自分の身を包んでいた。
「これ、白装束とかじゃないですよね? ここ、死後の世界とかじゃないですよね?」
「だとしたら、俺も死んでることになるな」
「えっ! 師匠死んじゃったんですか⁉ そんなの嫌ですよ!」
「生きてるぞ」
そうして、直樹は自分の手を彼女の頬に当てる。その手は温かく、冬華は安心感を覚えた。
「……本当です。生きてます」
「ああ。生きている」
安堵に目を細めた冬華を直樹は優しげな眼差しで見つめる。遠くの方で、サイレンが聞こえる。どうやらこの事件ももうすぐ終わりが近づいているようだ。
「あの、辻さんは……」
「あいつならあそこだ」
そうして直樹は彼女の頬から手を離し、金網の方を指さした。彼女はどこか名残惜しそうな顔をしながら、彼の指が示す方に視線を向ける。
そこには金網の側で、ぐったりと倒れ込んだ辻の姿があった。名刀、三日月宗近はその手から離れ、床に転がる。その様子が冬華にこの事件の解決を実感として伝えてきていた。
「……死んでいるんですか?」
「いや、殺してはいない」
控えめに尋ねる冬華に直樹ははっきりと返答する。その答えに、彼女はほっとしたのか。表情を柔らかくし、笑みを浮かべた。
「よかったです」
「……」
その呟きを直樹は複雑そうな表情で聞いていた。
彼女にとって殺しは受け入れられるものではないのだろう。例え、相手がテロリストであっても、生きていることに安堵する。それが彼女の歩むべき綺麗な騎士道であり、自分の歩んできた薄汚れた道とは違う。彼は自分の生き方は彼女に理解されるものではないのだと、そう感じ取ってしまったのだ。
「師匠の背負う想いが増えなくて」
「何?」
しかし、彼の憂いは杞憂であった。彼女は、殺しをネガティブに捉えていた故に安堵したのではない。殺す事で、彼の負担が増えることを心配していたのだ。
「だって師匠、辛そうでしたから」
「……辛い?」
辛い。そう言われても彼には実感が湧かない。
これまで歩んできた道が楽なものであったはずはない。時に息も絶え絶え、心身の限界まで追い詰められたこともあった。そのどれもが決して楽なものではなく、苦しいものであった。けれど、それを辛いと嘆いたことはない。それが自分の使命だと思ったから。この苦しさは当然の報いだと言い聞かせていたから。
「違うんですか?」
「……いや、そうなのかもしれないな」
それでも言葉にしてみれば、どうにもすんなり馴染む。あの時救えなかった命に、あの時奪ってしまった命に、彼はいつの間にか引き返せなくなっていたのだろう。
「私の所為で、師匠の負担が増えるのは嫌ですからね!」
「それは手遅れだな」
「酷いですぅ!」
それは日常を匂わせる穏やかな掛け合い。張りつめていた空気が徐々に弛緩していく。けれど、それを一気にひっくり返す爆発音が、彼らの直下から響き渡る。
「な、何事ですっ⁉」
「っ!」
直樹は金網の側で倒れ込んでいる辻の方へ視線を向ける。するとそこには端末を握り、愉快気な笑みを二人に向ける辻の姿があった。
「どうせ、散るなら散り際は派手にいきたいですよね」
「お前、俺たちを道連れにする気か」
「は、はは。その通りですよ。……設置していた爆弾を全て起爆しました。ここも後数分と持たないでしょう」
「え、もしかして、絶体絶命ですか⁉」
辻の言葉に冬華は驚愕を顔に浮かべた。
支柱が破壊され、支えがなくなった屋上の床は次第に崩れ始める。
「わわわ!」
それは冬華の言った通りの絶体絶命の危機であり、その慌てる様を辻は薄れる意識の中でほくそ笑んだ。
「立てるか?」
直樹は冬華に肩を貸そうとする。彼女は腕を上げようとするも、その身を襲う倦怠感に身体は動こうとしなかった。
「す、すいません、師匠。動けないみたいです」
自嘲気味に冬華は笑う。
「血を流し過ぎたか。仕方ない」
そう言って直樹は立ち上がり冬華に背を向ける。まだ残っている足場からシーツを拾ってくると、再び冬華の元で屈んだ。
「置いて行かれちゃうのかと思いました」
「……ならもう少し慌てろ。自力では立てないんだろう?」
「そうなんですけど、置いて行かれても仕方ないのかなって、おもっちゃったんですよ、この私は……」
身体が弱り、気持ちまで参ってしまったのだろうか。そんな風に後ろ向きな思考を取る彼女を直樹はらしくないと思った。
「お前は何のために俺がここに来たと思っているんだ」
呆れた様子で直樹はため息混じりにそう問いかけながら、彼女の動かない体をシーツに乗せる。
「それは、テロリストを……」
「違うぞ」
「えっ?」
彼女の答えを聞き終わる前に否定する。彼がこの場にいる目的にテロリストは関係ない。
「俺は、お前を」
シーツの端をつまみ上げ、彼は彼女の体を自分の体に引き寄せる。
「お前を、助けるため……いや」
「師匠?」
言いかけた言葉にかぶりを振る。その言葉が自分の本意を表す言葉では無いと感じたのだ。シーツの端を後ろ手に背中の位置で縛り、彼女の体を固定する。そうして近くなる二人の距離に、直樹は自分の気持ちを確信したのだ。
「お前を……助けたいからここに来たんだ」
その言葉は彼の言葉であった。決して騎士ではない。騎士が騎士道に則り働いた行いではない。彼は彼の望みとして、この場にいるのだ。
「ええと、それって……」
直樹は辺りを見回す。こうしている間も崩れていく屋上で既に辻の姿は見当たらなかった。崩落に巻き込まれたのであろう。
「よし、脱出するぞ」
「ど、どうやってですか?」
彼は屋上である程度の直線距離を稼げるルートを見据える。
「肝試しの終着点はどこだった?」
「へ? それは、駐車場ですけど」
「そうだ。そして、昔から言うだろう。水場には霊が出やすいと」
直樹の言葉に首を傾げていると、冬華は思い出す。そう、駐車場の横には火災時に備えた貯水池があったことを。
「まさか飛び込むんですか⁉」
「そのための池だろう」
「そう言う意図はないと思いますよ、この私は!」
直樹は彼女の言葉を聞き終わる前に走り出していた。崩落で傾いた金網を駆け上がり、勢いのままに空へと飛び出していった。
「はうあっ!」
それに驚いて彼女は顔を直樹の胸に埋めた。彼も彼女への被害を出さないために両手は彼女を抱きしめていた。
下の駐車場からは悲鳴が聞こえる。注意の甲斐なく、窓から様子を伺っていた新入生たちが彼らの跳躍に気づいたのだろう。
駐車場の横、貯水池が足元に広がる。直樹は着水を予感し、その足を閉じる。
「くるぞ。息を吸い込め」
「ひゃいっ!」
そうして、大きな着水音と共に彼らは池に沈む。水中ですぐさま直樹はシーツを解き、体を軽くする。そして、動けない冬華の身体を抱き上げ、水面を目指し、足を動かす。
「ぷはっ!」
「はっ! 無事か?」
水面から顔を出す冬華の首筋を窺い、どうやら傷が開いていないことに直樹は安堵した。
「はあはあ、す、凄いです! 空を飛んでましたよ!」
「落ちてただけだな」
「凄いです、凄いです! こんな体験、二度とありませんよ、師匠!」
「もう体験したくはないな」
そう言い合っていれば、ようやく助かった実感が湧いてきたのか、あまりの安堵に冬華は溢れる涙を堪えきれなかった。
「助かったんですよね」
「ああ、助かったんだ」
「うう、よかったですよ」
泣きながら笑う彼女に直樹も器用な奴だと釣られて笑った。
岸へと辿り着けば、既に秋や春瀬、他の教員たちが待っていた。
「おかえり、二人とも」
「ああ、心配かけた」
秋は大きめのタオルを直樹に手渡す。
「心配なんてしてないよ。ただ、天下の会長様にしては遅いなって思っていただけさ」
「ふっ。それは悪かったな」
そう軽口を叩き合うのはそれだけ信頼しているからだろう。互いに実力を認め合っているからこそ、憂いなく任せられる。それが、騎士学園でたった二人の学生騎士の関係なのだ。
「冬華さん!」
「春瀬ちゃん!」
名前を呼び合い、彼女たちは抱き合う。体が濡れることも厭わず、春瀬はただ冬華が無事に戻ってきたことに涙するのだ。
「ご無事で何よりですわ」
「心配かけてごめんね、春瀬ちゃん」
「いえ、謝るのはわたくしの方ですわ。わたくし、冬華さんが大変な目に遭われたのに、最低なことを考えてしまったんです」
「最低なこと?」
冬華が聞き返せば、春瀬は申し訳なさそうに答える。
「……会長様に助けてもらえることを羨ましいと思ってしまったんですわ」
「……へ?」
冬華は春瀬の言葉に間の抜けた声を漏らす。そして、その言葉が彼女の思うほどに深刻なものでないかったことに笑みを浮かべた。
「なんだ、そんなことですか」
「そんなことって、最低な考えだと思わないんですの⁉」
春瀬は叱ってほしいのだ。自分の浅ましい感情を、冬華に咎めてほしいのだ。けれど、それに冬華は応じない。
「だって、私は師匠に助けてもらって嬉しかったですから」
過去の恐怖を思い出した。死の危機に瀕した。しかし、その末に辿り着いたこの結果を、彼女は嬉しいというのだ。
「嬉しいことを羨ましいと思うのは普通のことだと私は思いますよ」
「冬華さん……」
そう思考する冬華に、春瀬は敵わないなと思うのだった。
そうして、事件の中心にいた直樹と冬華は駆け付けた騎士団の車両に乗せられ、移動を始めた。騎士団の施設にて、このテロ事件の事情聴取を行うのだ。
「騎士団の車の中ってこんな風になっているんですね!」
そう興奮気味に冬華は辺りを見回していた。この車両は運転席と後部の搭乗空間に隔たりがある。複数人の騎士をテロや災害の現場に運ぶために座席は両側面に長椅子が設置されているのみだ。
「あ、壁のここに武器を収納できるんですね」
「……冬華」
「なんですか、師匠?」
「近くないか?」
直樹はこの広い空間で隣にピッタリと寄り添う様に座る冬華に問いかけた。
「そうですか?」
「そうだろう」
「そうかもしれませんね」
そうして肩に冬華はもたれかかる。以前の彼なら、それだけで血の気が引いていただろう。けれど、今の彼はその肩にかかる重みがどこか心地よかった。
「師匠。本当に、ありがとうございました」
「……俺がしたいからやっただけだ」
初めは自身にこびり付いた騎士の矜持によるものだと思っていた。これ程までに彼女を助けたいと感じるのはあの日助けられなかった小さな命を背負った自身の宿命だと。
けれど、違ったのだ。その湧き上がる感情の源は誰に押し付けられたものでもなく、ただ彼が彼女を大切に思っていたが故だったのだ。
「それが私は嬉しいんです」
「……」
彼女に笑顔を向けられ、彼は心底から湧き上がる温かな感情を覚える。こんな気持ちを抱いたのは初めてで、彼はそれに付けられた名前に見当もつかなかったのだ。
「私は、師匠のことが大好きです」
「そうか」
「師匠は、私のこと、好きですか?」
そう問われて彼はようやくその温かな感情がなんであるかに気付く。女性を怖がっていた自分が、いつの間に彼女に惹かれていった。それは彼女のひた向きさにであり、彼女の快活さにであり、彼女の笑顔にである。
彼女が俯けば元気にしたいと思うし、彼女が躓けば支えたいと思い、そして彼女が死の淵に立てば、助け出したいと思う。
それらの全てがこの感情の上に生まれる想いであるのだ。
「そうだな……」
それを認め、それを伝える。それだけのことがどれ程難しいことなのかを、彼は今初めて経験する。胸中にある感情は複雑で、全てを言葉で伝えるには割り当てられた感情の区分は少なすぎた。
「俺も、お前のことが好きだ」
だから、彼はその多様な感情を一言で示す。伝えたいことなんて、そんなに多くないのだ。ただ一言、彼女のことが『好き』であると伝われば、それ以外は胸の内にしまっておけばいいのだ。
「えへへ。一緒ですね」
「そうだな」
冬華は嬉しそうに頬を緩ませる。そんな彼女を見ていれば、彼の胸は高鳴っていく。肝試しの時に感じた胸の高鳴りの正体はこれだったのかと、直樹は一人納得するのだ。
「恋人ってことでいいんですよね」
「……そうだな」
恋人。その言葉に少しくすぐったさを感じた彼は冬華の方から視線を外し、車両の壁を眺め落ち着こうとする。
柄にもなく鼓動が高鳴っている。嬉しいという感情に満たされる自分が、どうにも本当に自分であると思えず、どこか恥ずかしさを感じていた。
「師匠、こっち向いて下さい」
「なんだ」
そんな風に呼ばれた彼が冬華の方に顔を向ける。そこには不意打ちで近づく冬華の顔があった。彼は驚きのあまり、その大きな瞳が迫ってくることに反応できなかった。
そして、柔らかく、温かな感触が、彼の唇に触れたのだ。
「えへへ。キスしちゃいましたよ、この私は」
そうして照れる冬華であったが、不意打ちを食らった直樹からの反応がないことに首を傾げた。
「あれ、師匠? 私、キスしちゃいましたよ、師匠。師匠? し、師匠⁉」
冬華は次第に不安になっていき、そして最後には目の前の彼に意識がないことに気が付き、声を上げるのだ。
「うわああ、師匠っ! しっかりして下さい! 他の騎士さんたちになんて説明すればいいんですか! 起きて、起きてください、師匠ぉぉぉおお!」
車内で彼女の悲痛な叫びだけが響き渡る。
その後、様子を見に来た秋によってその場は収集したが、終始笑いを堪える秋に冬華は赤面するばかりであった。




