第十三話 恩讐の元に 前編
冬華を背負った直樹は火の粉を避ける様に廊下を進む。廊下に敷かれていた赤いカーペットは焼けこげ、露わになったフローリングの床は爆発の衝撃にひび割れ、所々コンクリートが剥き出しになっていた。
「重くないですか?」
「……この状況でそんなことを気にするのか、お前は」
「大事なことですよ。師匠の負担になって共倒れ、なんて申し訳ないですし」
「そういうことか」
乙女心からくる問いかと思えば、彼女が気にしているのはもう少しリアルな問題であった。
「問題ない。お前程度背負えなくて、何が騎士だ」
「そうなんですか? 私、結構肉付きが良いって言われるので一般的な女の子より重いと思うんですよ」
「……そうかもしれないな」
直樹は背中と指先に押し付けられる柔らかな感触にそう呟いた。
「ですよね……」
そこで会話は途切れる。黙々と足を進める彼から口を開くことはない。彼女を安心させるのは言葉ではなく、この一歩一歩であると彼は知っているからである。
彼の歩調に合わせて彼女の体が揺れる。止まることなく一定の調子で進む彼の背中は確かに彼女を安心させた。
互いの鼓動が互いに伝わる。それぞれがそれぞれの恐怖に耐えながらこの場にいる。それを思うと、冬華はどうにも後ろめたさを感じた。
「辛いですよね」
「さっきも言っただろう。確かに重いがお前程度を背負えなくて……」
「そうじゃなくて」
負い目を感じさせまいと茶化そうとした直樹の言葉を遮る。
「やっぱり、怖いですよね」
「……そんなことはない」
「だって師匠の鼓動、すごく早いですよ?」
彼の首に回された彼女の手が直樹の左胸に当てられる。そこに感じられる心音が確かに彼の心中が穏やかではないことを示していた。
「無理してるんですよね。私が、炎を怖がって動けないから」
「……」
直樹の歩調は変わらない。
「師匠も怖いのに、それなのに私だけ……」
「負い目を感じるくらいなら初めから断っておけ」
「あ、あの時は師匠の行動にびっくりしててそれどころじゃなかったんです!」
突然異性に胸を揉まれれば動揺もするだろう。故に彼女はそこまで頭が回らなかったのだ。
「確かに辛くないと言えば嘘になるだろう。だが、そんなのは些細なことだ」
「気を失うほど怖いのにですか?」
「それでもだ」
直樹は立ち止まる。目の前の廊下は完全に崩れ、数メートルほどの大きな穴が開いていた。けれど、ここを超えないことには回り道もままならない。
「俺にとっては誰かを救えないことの方が、よっぽど怖い」
彼は踵を返し、幾らか距離を取ると再び穴の方へと向き直る。
「しっかり掴まっていろ」
「へ? はうあっ!」
直樹が駆けだすと、冬華は驚いて声を漏らす。助走を付けて飛べば、彼の体は綺麗な弧を描き、悠々と大穴を飛び越えた。
「び、びっくりしました」
「お前には感謝している」
「へ?」
突然の言葉に冬華は間の抜けた返事をする。
「お前のおかげで、俺はお前を助けることができる。だから、感謝しているんだ」
「し、師匠……」
けれど、その言葉を冬華は素直に喜ぶことはできなかった。彼女は気が付いてしまったのだ。彼の言葉に込められた、誰かを救わなければならないという呪縛にも似た騎士の矜持を。
「この階段は使えないな」
そう呟いた彼の目の前にはようやく辿り着いた階下へと下る階段があった。しかし、下を覗いてみればそこにはすでに燃え盛る炎が迫っており脱出を阻んでいた。その紅の光が視界に焼き付けば、途端冬華は心底に押し留められていた恐怖が込み上げ、震えだした。
「……上に行くしかないな」
彼女の震えを感じて、彼は方針を決める。来た道を戻り、反対側の階段に向かうという手もあるにはあったのだが、この火の回り様ではそれまでに一階の火が二階へと達してしまうだろう。
階段の前に立ち、彼は上を窺う。上りの階段は異様なほどに綺麗であり、上がってきた煤で汚れた以外には目立った被害は見当たらない。
「どこか意図的にも見えるな」
そう呟いてみるも、彼に選択肢はない。進むしかない道の前で立ち止まっていられる程の余裕はこの場にはなく、彼は意を決し進んでいく。警戒しながら踊り場で折り返し、宴会場が幾つも設置された三階へと辿り着いた。
「ここは、綺麗ですね」
「ああ。そうだな」
廊下を見渡してみても、どこかが崩れている様子はなく、この火災の中で異様な静けさに包まれていた。
一見すれば安全そうに見えるのだが、彼は踵を返し、さらに上に上がろうとする。
「師匠? ここって三階建てですよね?」
「ああ」
「この上って、何があるんですか?」
「屋上だ。火の手が回るまで時間はあるだろうが、あの廊下を進むのは危険だ」
「どうしてですか?」
火から遠ざかったことで少し余裕ができたのだろう、冬華は少し表情を柔らかくする。
「センサー式の起爆装置があるかもしれない。向こう側に行くにも、屋上を経由したほうが安全だろう」
「な、なるほど」
そうして屋上へと続く扉の前に立つと、彼はドアノブに手を伸ばす。開いているとは思っていなかったが、しかし、彼の予想に反してノブはすんなりと回り、扉が開け放たれる。
屋上は当たり前ではあったが殺風景だった。室外機が並び、物干し竿に干されたシーツが揺れる。外に出てみれば火災の規模が大きいことを示す様に空は黒煙に満たされる。消防車のサイレンは未だ耳に届かず、救援はどうやらもう少し時間がかかるのだろうと、彼は察した。
それまでの時間をここで待つことは可能だろう。そう思い、彼は屋上で彼女を下ろした。
「ここで救助を待つ。立てるか?」
「もう大丈夫ですよ、この私は。ありがとうございます、師匠」
「礼は要らない。それに、まだ助かったわけではない。気を抜くな」
「はい!」
そう元気よく答える冬華の声に、風に棚引くシーツの奥で人影が一つ、反応する。
「おや、そこにいるのは、会長さんと伊吹さんではないですか」
突然、声が聞こえ、直樹は身構える。そうして、シーツを掻き分けながらこちらに影が近づく。そして、最後の一枚から顔だけ覗かせたのはこの合宿所の従業員である辻であった。
「あ、辻さん」
「ああ、伊吹さんたちもこの爆発に巻き込まれてしまったんですね」
見知った顔の登場に気を許した冬華が近寄ろうとするのを直樹が手で制する。
「おや、どうしたんですか、会長さん。そんな怖い顔でこちらを睨みつけて」
「俺はいつもこの顔ですよ」
「そうでしたか? 伊吹さんといた時はもう少し穏やかな表情だったように思えたんですけど」
「そうですか」
二人の距離は動かない。依然として辻はシーツの影から出てこず、もはや直樹の疑いは確信まで上り詰めていた。
「お前がやったのか」
「何のことでしょう?」
細目を更に細くし、張り付いた笑みは道化師を想起させる。
「このテロ行為を、お前がやったのかと聞いている」
直樹は腰に携えたロングソードに手を伸ばす。そうして、静かに引き抜くと辻との距離をゆっくり詰めていく。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。そんな物騒なものはしまってくださいよ」
「そうですよ、師匠。辻さんがそんなことするとは思えませんよ」
慌てた様子を見せる辻。そんな彼の動揺した姿に、直樹は一瞬信じてしまう。彼は本当にこのテロに運悪く巻き込まれただけなのではないかと。
その一瞬を辻は見逃さなかった。細目が見開き、その双眸が彼の首筋を捉える。
そして、次の瞬間、シーツごと切り裂く辻の一閃が直樹の喉元に迫る。
「なっ!」
反応が遅れる。シーツに隠されていたせいで、辻の得物も、その手元も見えなかった直樹は彼の初動を見逃したのだ。
「くっ!」
けれど、すでに剣を抜いていたのが幸いした。とっさに腕を上げ、急所への強襲を辛うじて弾くことができたのだった。
直樹はすぐに距離を取り、冬華を庇う様に彼女の前に陣取る。
「おや、最強の騎士と謳うだけあって確かに反応速度は大したものなんですね。まさか防がれてしまうとは」
「やはりお前は……」
切り裂かれたシーツが風に舞いあがる。そうして露わになる辻の得物、それは彼の因縁ともいえる刀剣。
刃に三日月模様。スラリと伸びた刀身は陽の光を浴びて、月の如き輝きを放つ。
「天下五剣が一刀、名刀三日月宗近。貴方にとって、因縁の刀ですよね」




