第十一話 包まれる災禍 前編
「はっ。はっ」
朝靄のかかる広場に影が一つ。深く呼吸することを意識しながら走っていた。
「あと……一周っ」
そう呟いて自分を鼓舞すると、体操着姿の少女、伊吹冬華はラストスパートをかけた。一周四百メートルほどのトラックを走り終えると、少女はその場に倒れ込んだ。
「はぁ。はぁ。つ、疲れましたー」
大きく息を吸い込んだ彼女の額からはその疲労に見合った汗が噴き出す。
「はっ! そう言えば、走り終わった後、すぐ立ち止まったらダメだって師匠が言ってたんでした」
そんな師匠の言葉を思い出し、彼女は起き上がる。そうしてベンチまで移動すると持参した赤い水筒に手を伸ばし水分補給を行う。その小さな口の端から幾らか水が漏れることもいとわず水筒を傾ける。
「ぷはぁ、生き返りますね!」
口元をタオルで拭うと、合宿所へと歩き始める。そうしてロビーを歩いていると、何やら忙しそうにしている辻に出会った。
「あ、辻さん。おはようございます」
「おや、伊吹さんではないですか。おはようございます。早起きなんですね」
「えへへ。朝は弱い方だったんですけど、師匠に朝も軽く走るように言われてるので頑張って起きてるんですよ」
「ああ、それで、そんなに汗を掻いているんですね」
「辻さんはお仕事ですか?」
「ええ、そうですよ」
そう答えた辻の手には洗濯籠が握られており、中には幾枚ものタオルが入っていた。
「今日は天気がいいですからね。早めに洗濯器を回しておこうと思いまして」
「そうなんですね」
「ああ、よかったらその体操着も洗っておきましょうか?」
「良いんですか?」
「ええ。皆さんが帰る頃には乾いていると思いますし、なんだったら大浴場の掃除は済んでいますから、そこで汗を流してもらっても大丈夫ですよ。洗濯物は脱衣所のカゴに入れておいてくれれば後で回収しますし」
「本当ですかっ⁉ 私、大きいお風呂好きなんですよ」
「それはちょうどよかったですね」
そうして別れると、冬華は自室から着替えを持ってきて大浴場へと向かう。廊下を歩いていると、彼女は何となく違和感を覚えた。
「ううん?」
小首を傾げて思案してみるもその違和感の原因に辿り着くことはできない。赤いカーペット、点々と設置された消火器や観葉植物。それらは確かに昨日にも見た光景のはずなのに、何故か今日はやけに彼女の目に付いたのだ。
「うーん。何でしょうか、この感じ」
唸ってみるも答えは出ない。そうしているうちに彼女の頭は違和感ではなく肌に張り付く体操着に依る不快感が占めていく。
「まあ、気のせいですよね。早くお風呂に入りましょう」
そうして再び彼女は歩き始めた。そうして通りすぎて行く観葉植物たちの葉は青々と朝日を受け光るのだった。
◇ ◇ ◇
合宿最終日の午前中は自由時間になっていた。そうは言っても周囲に観光地があるわけでもなく、どこへ遊びに行くでもなく合宿所の中にある娯楽で暇を潰している者たちが大半を占めていた。
「で、出遅れましたわ」
そんな中で一人、ロビーに立ち尽くす遥上。彼女は皆が誘い合って遊びに向かう中、優雅に食堂で紅茶を飲んでいたため、気付けば一人、またしても取り残されてしまっていたのだった。
「ど、どうして誰もわたくしを誘いに来ないんですの!」
悲痛な嘆きがロビーに響くも、それを受け取る者は誰もいない。皆、地下の娯楽室へと集まっているのだから当然であった。
娯楽室では卓球台やビリヤード、ダーツと言ったものから、カラオケ機器が設置された宴会場などもあり、積極的に遊ぼうとしない者も宴会場でジュースやお菓子を口にして暇を潰したりしている。
けれど、遥上は積極的に加わることも、消極的に混ざることも良しとしないプライドがあるために一人、ロビーで頭を抱えていたのだ。
「一人でティータイムというのも味気ないですわ」
どうしたものかと悩んでいると、そこに冬華がやって来た。
「あれ、遥上さん。どうしたんですか。なにやら難しそうな顔をしてますけど」
「はっ!」
その声に振り返った遥上には冬華の姿が期を見た援軍の様に頼もしい存在に思えた。
彼女のプライドが許さないのは自分より劣るものを自ら誘いに行くことである。そこに勝敗などあるはずもないのだが、彼女にとっては自分から差そうという行為は敗北に相応しいと捉えているのだ。
しかし、冬華、彼女ならば別である。なぜなら、遥上は一度彼女に負けている。であれば、彼女は自分より下の存在ではなく、自分から誘いに行くことは何ら問題ないからである。
「伊吹さん!」
「はうあっ!」
遥上は勢い良く彼女の肩を掴む。
「これからの予定はありませんわよね!? よろしければ、わたくしとお茶でもしませんか? というか、しますわよ!」
「ええ!?」
そうして遥上は彼女の手を掴み、食堂に隣接するカフェテリアへと歩き始める。引きずられるように連れて行かれたカフェテラスでは紅茶だけでなく、スコーンやマカロンと言った洋菓子も提供されていた。
「イレブンジズティーですわね」
「いれぶ……なんですか、それは?」
「イレブンジズティー。文字通り、十一時に呑む紅茶のことですわ」
「そうなんですね。遥上さんは物知りですね!」
「それほどでもありますわ」
冬華に褒められ、遥上は満足げである。
そうして、ティータイムを楽しむ二人がする話題と言えば、やはり冬華の師匠である直樹のことであった。
「遥上さんって、師匠のこと良く知っているんですよね?」
「もちろんですわ! わたくしたちの世代で騎士を目指す人間であれば、誰でも会長様に興味関心憧れを抱くものですわ」
「そんなにですか!」
興奮気味に捲し立てる遥上に応じる様に冬華もそのテンションを上げていく。
「最年少でマガハラ騎士団に入団し、その実力は団長に次ぐ程。テロリスト鎮圧の成功率は九割を超えるという実績も持ち合わせた、まさに最強の騎士と言っても過言ではない人物ですわ!」
「最年少で入団?」
「そうですわ。確か、十年ほど前だったはずですわ」
「十年……」
そう呟いた冬華に遥上は首を傾げた。
「どうかしましたか、伊吹さん」
「はっ! いえ、なんでもないですよ? あ、このお菓子美味しいですね!」
「そうですわね。紅茶に合いますわ」
取り繕う様に洋菓子に手を伸ばす冬華に、遥上はそれ以上の言及はせずカップを傾けた。
そうして、話題が途切れた沈黙の中で、遥上は静かにカップを置く。
「あの時は、悪かったですわ」
「え?」
遥上は真剣な眼差しで冬華を見据える。しかし、冬華は遥上の言葉に首を傾げていた。彼女が何に対して謝っているかの見当が付かなかったのだ。
「まだ、謝っていませんでしたから。あの時、貴女を弱いとか、会長様の弟子に相応しくないとか言ってしまった事」
「ああ」
言われてようやく冬華は思い出した。しかし、その程度なのだ。彼女の中では、遥上の言葉は既に上書きされた記憶であった。
「もう気にしてないですよ」
「そうでしょうね。でも、わたくしが謝りたかったのですわ」
彼女が気にしていないことは昨晩の肝試しに誘われた時に気づいていた。けれど、それでは彼女が納得できなかったのだ。
「遥上さんは真面目ですね」
「当然ですわ。それこそがわたくしの目指す立派な騎士ですもの」
そう言って胸を張る遥上の堂々とした姿に冬華はどこか親近感を覚えた。それは彼女が自分と同じように真剣に騎士への道を真っ直ぐ見据えている存在であったからである。
「あのっ!」
「な、なんですの?」
遥上は冬華の意を決したかのような表情と共に発せられた彼女の大きな声に戸惑いながら返事をした。
「春瀬ちゃんって呼んでも、いいですか?」
「はい?」
けれど、身構えていた遥上にとって、彼女のその言葉は拍子抜けする内容であった。それ故に彼女は自分でも恥ずかしく思えるほどに間の抜けた声を漏らしてしまう。
「はうあっ。だ、ダメですよね。ちょっと馴れ馴れしかったですよね、この私はっ」
「そういうわけではありませんわ。ただ、ちょっと驚いただけですわ」
そう言って遥上は一つ照れを隠すように咳払いすると、立ち上がり冬華の方へ手を差し出した。
「共に騎士道を歩んでいきますわよ、冬華さん」
その言葉に冬華は表情を明るくする。
「はいっ! よろしくお願いしますよ、春瀬ちゃんっ!」
勢いよく立ち上がり、冬華は春瀬の差し出した手に応じる。
「えへへ」
嬉しそうにする冬華にどこか恥ずかしそうに微笑む春瀬。ぶつかり合った剣と剣はこうして並び、向かう先を共にするのだった。




