交差
全員無事に帰れた日、皆は研究所から出ることもなく、アリアの転移を借りて各々の家へと戻って行った。その最中、会話といえる会話はほとんど無かった。
世界の終焉のようなものを体験した事を、皆信じられていない様子だった。未知の恐怖と不安が入り交じった表情は、とても印象的で、いやでも俺の記憶に刻まれた。
当分、忘れられそうにない。
*
それから数日。
グラスの家。
俺は椅子に座って、テーブルに頬杖をつく。目の前にある朝食の芳しい匂いが鼻に届いても、食欲が刺激されることはなかった。
テーブルを介した向こうに座っていたアリアは立ち上がる。同じく俺の前に座っていたグラスは、立ち上がったアリアに一皿の朝食を丁寧に手渡す。
「はい、これが咲夜歌の分!」
「ありがとう。」
軽い礼を言ったアリア。渡された朝食を持ちながら二階へ上がっていく。向かっている所は、咲夜歌の部屋だ。
アリアによると、咲夜歌は、この数日で記憶が整理されて意識がハッキリするようになったのだとか。しかしながら、まだ納得できないというか、不自然なところがあった。
今の咲夜歌は、以前の咲夜歌より内向的になった。
俺や、特にグラスの方を、もふもふ、などと呟きながら首らへんを触っていたが、今やそれをする気配すら無い。
それはそれでありがたいのだが、どうも違和感を覚えて仕方がない。
虚空を見つめて黙考してしまっている俺は、グラスが俺の顔を覗いている事に気づかなかった。
「……お腹、空いてないの?」
「え、あ、あぁ……そんなところかもしれない。」
正直に言葉を並べながら、不正直にフォークを取る。
本当に腹は減っていない。だが、胃と腸が空っぽであることを証明する本能の警鐘が、耳に障った。
「……いただきます。」
*
扉を二回ノックする。
部屋の主からの返事は無い。
「入るわよ。」
それだけ言って、扉をゆっくり開ける。片手に持った朝食を零さないよう、慎重に。
見慣れた部屋が広がる。咲夜歌の部屋だ。
こう、本体として足を踏み入れるのは初めてだったのだが、なかなかどうして足が馴染むのだ。
って、足が馴染むってどういう事かしら。
自分で考えた言葉に呆れながら、咲夜歌のベッドに向かう。上体を起こしている咲夜歌はこちらの方を見ず、窓の外の都市を眺めていた。
私は朝食をベッド近くの小さいテーブルに置き、口を切る。
「朝食を持ってきたわ。」
咲夜歌は、ゆっくりとこちらに振り返る。衰弱から生き延びる事が出来たが、意外にもその身体には何も変哲は無い。
故に、飢餓感や後遺症などといった身体の不調を訴えることは無かったのだ。
「……ありがとう、ございます。」
空気中で溶けて消えてしまいそうなほどに小さい声で、咲夜歌は少し頭を下げた。フォークを手に取り、少しずつ食べ始める。
食べるスピードは、やはりゆっくりだが、食欲はあるようだ。
「……まだなんですか?」
こっちに顔を向けることなく、棘を含んだような未練がましい疑問が、ふいに私へ投げられた。
その疑問というのは、いつ元の世界へ帰れるかというものだった。
言い出したのはつい一昨日。
帰りたい。
その一言で始まった。
「今、マルキス達と一緒に調査中よ。もう少し、待ってくれないかしら。」
「…………」
特にこれといった反応を見せず、ただ朝食を口へ運んでいく。
静寂の中、食器同士の乾いた音だけが木霊する。しかしながら、気まずい空気というものは漂っていなかった。
「……悠貴を置いてきちゃった。」
沈黙を破ったのは咲夜歌だった。半端に残った朝食を見つめながら、独り言のように零す。
「ここが別世界とか、死後の世界とか、色々考えてみたけど……もうどうでもいいの。元の世界に帰って、早く悠貴に会わなきゃ。今頃、独りで……」
咲夜歌の手が、皿に力む。涙を堪えるように、険しく眉を顰める。
私は、慰めるつもりで明るい可能性を示す。
「貴方がいた世界と、この世界に、時間の差異がある事を期待しましょう。」
「……さい?」
疑問に染った表情で聞いてきた。私は頷く。
「えぇ。ここで一日が経っても、貴方がいた世界では一時間ほどしか経っていない、という事。……そう思えば、少し気が楽になるわ。」
「……はい……」
「咲夜歌。」
私の呼び声に、咲夜歌はこちらに顔を向ける。
朧気な表情。悲哀といったものは有ったが、そこに絶望は無かった。
「私は貴方を元の世界に帰すわ。そして、貴方の弟に会わせる。……絶対に。」
*
私が完食した皿を持ったアリアは、この部屋から出ていった。
元の世界に帰す。
今の私は、この言葉に縋るしかなかった。
そういえばここ最近、家から出ていない。もし銀世界へ出たら、この鬱屈した気分が晴れるだろうか。
ベッドから立ち上がり、クローゼットに収納した薄茶のコートを羽織り、焦げ茶のマフラーを巻く。全身鏡で確認してみる。
優れない表情の私が、冬に負けない温かそうな服を着ている。その様子が少し面白くて、思わず微笑んでしまった。
一階に降りると、台所で皿を洗っていたグラスだけがいた。アリアとイミラの姿がどこにもいない。
足音で気がついただろうグラスは、首だけ振り向いて私を見つける。身なりを見て、不思議そうに首を傾げた。
「あれ、咲夜歌!どっか行くの?」
「うん。散歩しようかなって。アリアさんやイミラさんにも伝えておいてください。」
「わかった!気をつけてね!……あ、あと!」
玄関へ向かおうとする私の足を、グラスが声で引き止める。
「イミラのこと、マルキスって呼んでほしいな。イミラの本当の名前、マルキスだからさ!」
「……わかりました。」
確かに頷くと、再び足は玄関へ向かった。




