感情の帳が下りる
いつの間にか、深く息を吐いていた。白く包まれた空間は徐々に消え入ったと思えば、見覚えのある雪道が現れる。同時に、意識が明確に覚醒した。
いつの間にか荒くなっていた呼吸を整えようとする。口から吐き出される息が白い。
辺りの気温は低いようだが、死闘を終えた後の俺の体温を奪っていくほどの力は無いようだった。
「…………」
終わった、のか……。
あの黒い感情の心臓に剣を突き刺した感覚が、まだ手の中に残っている。とても生々しくて、思わず顰めっ面に歪む。
後方から雪を踏む音が二つ聞こえた。
「やったな。」
振り向くと、ニヤケ顔の黒パーカー野郎とツェルが来ていた。
容姿も性格も正反対の二人なのに、黒パーカーに黒スーツという色の共通点だけを持ち合わせた者同士が隣合う。その光景が可笑しく見えてしまったが、表情には出さないようにした。
「イミラ、やっと遂げられましたね。」
ツェルの声が聞こえて、顔を上げる。
「ああ、俺ら二人がいなきゃ勝てなかったな。」
「……いやいやオレは?」
その隣から聞こえたくぐもった声に、そこへ顔を下げる。
「お前が活躍したところなんてあったか?足引っ張ってた印象が強いだが。」
「いいえ、そんな事はございませんよ、イミラ。」
俺が適当に放った言葉に、ツェルが反応した。シルクハットで見えないツェルの顔が黒パーカー野郎に向けられる。
「リーロディヴ様。あの結晶で刃の進行を妨害しておられたのでしょう?私なんかよりも素早い動体視力に、敬服致しました。」
「……ヘッ、そりゃどーも。」
パーカー野郎は、調子に乗って口角をさらに上げる。ほれみろ、とでも言うかのように、その赤い瞳が横目に見つめてきた。
蓄積する怒りを、代わりに白い息にして吐く。もちろんそれだけで怒りが消えるわけでもなく、それの切っ先で啄くようにツェルの見えない顔を見た。
「そういう事は言わなくていいから、ツェル。こいつが調子に乗るだけだからな。」
「私は事実を申し上げたまでですよ。」
そう言われると何も言い返せなくなる。肩を落としながら視線を宙に漂わせていると、ツェルの向こう側に誰かが雪道に倒れているのが見えた。
さらに向こう側を見やると、その他の誰かに混じって、兄貴が倒れているのを発見した。
「兄貴!!」
パーカー野郎とツェルの間を縫って駆け寄る。雪に半分埋まった頭と腰を持ち、頭はそのままに、仰向けになるよう兄貴の体を動かした。目立った外傷は無いようだ。
兄貴が唸る。目がゆっくり開かれると、疲れ切ったような表情がその顔に滲ませた。
「大丈夫か?」
「……うん。」
絞るように出された声が、耳に届いた。立てるか、そう言おうとした時。
「ねぇ。」
兄貴に遮られた。何だと思って顔を見ると、微妙な表情になっていた。笑っているようにも見える、今にも泣きそうにも見えるその表情が、慣れ親しんだ表情との違和感を覚えさせた。
「僕……ずっと嘘ついてたんだ。……イミラじゃないのに、ずっと、イミラって呼んでた……」
その言葉に、今更の衝撃を受ける。ただ、既にわかっていたが故に、あまりその衝撃を気にせずにいられた。
心の底からわかっていたはずの芝居から目覚めてしまうのを拒むように、俺は口を一文字に結ぶ。
「イミラはもういないんだった……」
イミラ。その慣れた名前が、俺の中で急に薄っぺらいものに変わった気がした。
真実を聞こうと、ゆっくりと口を開ける。
「一体、どういうことなんだ?……もういないって、詳しく聞かせてくれないか?」
「……ごめん、まだ頭がぐちゃぐちゃしてて、整理できてない。」
ほんの少しだけ兄貴が笑った。が、依然として微妙な表情に変わりはなかった。
「ねぇ……名前、教えて。」
「え?」
耳を疑った。兄貴は、白い眉を下げて寂しそうに笑っていた。
「本当の名前。イミラじゃない、本当の……」
突然のことに、また口を結んでしまう。
兄貴の境遇は分からなかった。ただ、初めて会った時、兄貴の方からイミラと言われた。
俺は本当の名前を持っていたが、きっと偽名のイミラの方が都合がいいと考えてしまった。
確かに都合は良かった。住む家がなかった俺を、兄貴の住んでいる家に居候させてもらった。時間にして、約三年くらいだっただろう。
そしてその結果として、三年間兄貴は嘘を吐き続けてしまった。
今の兄貴の気持ちは分からない。三年も共に同じ屋根の下で暮らしていたのに、今の兄貴の気持ちが全く分からない。
分からない、だから、これから良からぬ事をしないよう心に祈りながら、閉ざしていた本当を言った。
「……マルキス・リオン。」
「……マルキス……」
兄貴が、俺の名前を呟く。そして、ゆっくりと笑った。
その微妙な表情が、崩れたような気がした。
「改めて自己紹介だね……僕は、グラス・リリフラム。」
グラス。俺は、グラスの事を兄貴と呼んでいる。
これからも続けた方がいいのだろうかと悩んでいると、兄貴は何かに気づいたかのように目を少しだけ見開く。
「そうだった、マルキス……兄貴っていうのもやめよう。僕がそう言ってって、強制させちゃってたもんね……」
呆然とする。強制なんかではない。俺が、勝手にそう言っていただけだ。
そう思っていても、何故か口から言えなかった。
「……本当にいいのか?」
「……うん。」
俺の言葉で……グラスの顔が険しくなる。
「僕、覚悟決めたから。……もう、自分に嘘をつかない。……こんなことに、イミラを巻き込んじゃってごめんね……」
「俺の事はいいさ。……もう謝るな。」
努めて明るく言った。だが、俺の顔は暗澹としているのは容易に想像できた。
グラスは、そんな俺を見て笑っているように見えた。
俺とグラスは、今までの芝居に終止符を打った。




