広場の喫茶店
とある昼下がり、雪の積もった公園のベンチに咲夜歌は座っていた。中央にある噴水を、ぼーっと眺める。
この異世界に来てから、体感的には一ヶ月が経った。なんだか、この異世界に来たのが昨日のように思えてくる。様々な事が初めてだから、時間が早く感じたのだろうか。
今思えば、グラスとイミラに拾われたのは奇跡だ。何も知らない咲夜歌を居候させてくれているのだから。こんなにも懐の深いモンスターはなかなかいないだろう。
転移した先の世界が、残酷な世界じゃなくて良かったわ。
咲夜歌はそう思った。まるで、物語の主人公になった気分だ。このまま"普通"に暮らしていたい。仲のいいモンスター達と共にバカ騒ぎして、あの頃のみっともない自分を笑い飛ばしてやるわ。
そう思って、ふと咲夜歌は気づく。
そういえば、なんで転移してきたんだっけ?
怪しげな儀式に手を出したわけでもないはず。まるで、そこだけハサミで切り取られたみたいに、転移した記憶が咲夜歌から無くなっていた。結局、この疑問が晴れることはなく、咲夜歌は溜息を吐いた。
まぁ、今が一番楽しいのよ。そう…今が!
無理に気持ちを明るくして、噴水を見ながら微笑む。過去なんて、今となっては幻影だわ。楽しいなら楽しむ。それだけ。
咲夜歌は辺りを見渡す。楽しそうに雪玉を投げ合うモンスター達。違うベンチに座って温かそうな飲み物を飲むモンスター達。見てるだけで、咲夜歌の心は穏やかになる。
ふと、視界の隅に見慣れないものが見えた。いや、まだここに来て日は浅いが、明らかに周りから浮いている店が佇んでいた。看板には、大きく独特な文字で、喫茶店と書かれている。
「なにあれ…。」
咲夜歌はそれに興味を惹かれ、ベンチから立ち上がって店の方へ歩いていく。
「喫茶店…ね。」
そういうのに興味も思い出も無かったが、とりあえず入ってみる。手持ちのお金はある程度持っている。変に高い飲み物を頼まなければいい。咲夜歌は手持ちのお金を見ながらそう思ってカウンター前に立った。
「い、いらっしゃいませ…。ご注文は、何にいたしますか…?」
目の前の、人型の悪魔のような風貌をしたモンスターがそう言った。姿や声からして性別は女だろう。赤く光る長髪に赤い瞳、黒い翼、細い尻尾、これを見て悪魔以外でどう表現すればいいのか?
にしても、その姿でウエイター服は素晴らしく似合わない。
咲夜歌はカウンターにあるメニュー表に目を落とす。それぞれ、様々な種類のコーヒーが書かれている。咲夜歌は特に何も考えずに人差し指をメニュー表につける。
「…これください。」
「…あ、あのぅ…」
悪魔の店員は、困り顔でメニュー表と咲夜歌の顔を交互に見る。咲夜歌は店員が困っているのを確認すると
「どうしたの?」
と聞く。店員はゆっくりと言う。
「上か下…どっちなんでしょうか…?」
「え」
咲夜歌は素早くメニュー表に目を落とした。すると、人差し指はコーヒーの名前と名前の大きな隙間に置いてしまっていた。
「あ…あぁ、ええと、ね。」
実のところ、咲夜歌はコーヒーの事は全くの無知であった。存在自体は知っていたが、まさかそれに種類があったとは思わなかったのだ。適当な場所に指でも置いとけば店員は勝手に決めてくれる願っていたが、どうやらそう上手くいかないようだ。
「じゃあ…これを!」
咲夜歌は思い切ってとあるコーヒーの名前に指を置いた。独特な文字でファテスと書かれている。気がする。
「…フォテヌですね?」
あ惜しい。
「えぇ。」
「それでは…サイズの、ほうですが、」
咲夜歌はそれを聞いて安堵する。良かった。これなら分かるわ。
「S、T、Lがございますが。」
…あら、サイズってこんな少なかったかしら?小中大って感じ…なのかしら…。
「……Tで。」
咲夜歌はとりあえず適当に知っているサイズを選んだ。
あ、でも、異世界だもの。大きさなんて世界それぞれよね。そうよね。
「…それでは」
「!」
咲夜歌は次の店員の質問に身構える。
「アイシエとホッティ、どちらがよろしいですか?」
あ、あ、なんとなく分かるわ。アイスかホットかの選択ね。この寒い半島、ホットの方が断然良いわ!
「じゃあ、ホッティで!」
「…か、かしこまりました。」
悪魔の店員は、咲夜歌の必死さに若干引きながらも仕事をこなす。
「…以上で?」
「あ、はい!以上で!」
「で、では、注文のほう繰り返させていただきます。…ホッティフォテヌのTサイズでよろしいですか?」
「ええ…。はい…。」
疲れた咲夜歌を店員は横目で見ながらもレジを打っていく。
「はぁ…はぁ…」
咲夜歌は、ひたすらに息を吐き続けた。
*
「ふぅ…。」
お金を払い、悪魔の店員から番号が書かれた紙を渡された。それを持って近くの席に座ると、咲夜歌は疲れを一気に息に変えて吐いた。
まったく、変な汗をかいてしまったわ。
よくよく考えればそうだ。もともと住んでいたあの元世界と共通点は多いものの、違うものだってある筈だ。
アイシエとかホッティとか発音が似てたけど。
咲夜歌はそう思って、それを特に気にせずに広い窓越しに広場を見る。
そういえばあの悪魔の店員、人間みたいな姿をしてたわね。
細かく言うなら、人間と悪魔を足して二で割った姿と言うべきか。咲夜歌は、種族が違えど人間と姿が同じようなモンスターに出会えて、親近感が湧いた。
…
外の銀世界で行き交うモンスター達を適当に眺めていると、お待たせしました、というあの店員の声が近くに聴こえた。首だけ動かしてそこを見ると、あの悪魔の店員が咲夜歌の座っている場所のテーブルのそばにいた。
「…ホッティフォテヌのTに、なります。」
長方形のトレイにある湯気が立っているフォテヌというコーヒーを、テーブルにおきながらそう言った。優しくもか弱い声に、咲夜歌も小さく頷きながらフォテヌを貰う。
「それでは…ごゆっくり。」
店員はそう言って離れていった。咲夜歌はそれを見届ける。それから、テーブルに置かれたフォテヌというコーヒーを見つめた。
こげ茶色から湯気が立つそれは、いかにもコーヒーというべきか。咲夜歌の鼻に温かいコーヒーの匂いが届き、それに釣られるようにコップを優しく持つ。口まで近づけて、匂いを堪能する。
意外といい感じの匂いね。コーヒーは飲んだことはないけれど、これなら飲めそう。
咲夜歌は、ゆっくりと口を開けてコップを傾けた。
コーヒーが舌に届くと
「ああああっつッ!!」
あまりの熱さに声を上げた。
「さ、冷ますの忘れてたわ…。」
少し火傷した舌を出しながらそう言った。
何してるのよ私は!ホットなんだから熱いのは当たり前じゃない!なんで冷まさなかったのよ!
咲夜歌は自分にイラつきながらも、もう一度コーヒーを見る。今度は、ふー、と幾度かコーヒーの水面に息を吹いてから口に持ってくる。
そして、ズズッ、と啜るようにして飲んだ。
すると、
「ああああっ!!苦ァ!!」
あまりの苦さに顔を顰めて声をあげた。
さすがに苦いわね…。いえむしろ、苦くないなんて思って飲んだ方が安直だったかしら…。
軽率ね、なんて思うと、咲夜歌はフォテヌをテーブルにそっと置く。温かいカップに添えた手はそのままに、窓越しに外の銀世界を見る。そして、微笑む。
まあでも…一度は飲んでみたかったし、これでまた小さな夢が叶ったのだけれど…。もとの世界じゃ、紅茶とか水とか、そういうのしか飲んでなかったし。
咲夜歌はもう一度口にフォテヌをゆっくり運ぶ。熱さにも注意して、飲む。
…あ、美味しいかも。
苦味にさえ目を瞑れば、意外と美味しい事に咲夜歌は気づく。口いっぱいに広がる苦味の中の甘味。
「あぁ苦ッ」
あダメね苦味から逃れられない。
どうやら、咲夜歌は相当コーヒーに向いていないようだ。
*
コーヒーを半分飲み終えた。あともう少しの辛抱だ。あともう半分飲めば、この苦味地獄から開放されるはずだ。
咲夜歌の舌は、どうやら苦味でかなりまいっているようだ。ふううぅ、と深呼吸をしてから、コーヒーを口に運ぼうとした。
その時
「おや。」
横から聞き慣れた声が聞こえた。落ち着き、冷静で中性的な声。聞こえた声に顔を向ければ、執事のツェルが片手に紙を持って立っていた。相変わらず黒いスーツに身を包み、黒いシルクハットが影となって顔が見えないでいた。
「奇遇ですね。ここで会うとは。」
「ツェルさん!」
優しい彼の声に、咲夜歌は不思議と落ち着く。
「前、よろしいでしょうか?」
「ああ!どうぞ!」
元気良く返事をすると、ツェルはそれを確認して丁寧に椅子に座った。
「今、咲夜歌様が飲んでらっしゃるのはなんでしょうか?」
ツェルが、そう疑問を投げてきた。咲夜歌はカップに手を添えながら答える。
「フォテヌっていうコーヒーなんです。ですけど、その…苦くって。あんまり飲めなくって。」
「あぁ、フォテヌですか。」
そう言うと、ツェルは笑いを含めたような声で続ける。
「確かに、フォテヌはこの喫茶店の上位を争う程の苦さですよ。砂糖は入れたのですか?」
「あ、いや…。」
「…かなり苦いですよ。それは。」
咲夜歌は、ごまかすように少しだけ笑う。ツェルはそれを見て呆れたような溜息を小さく吐いた。
「おまたせしました。ホッティピュリドのTです。」
またもや悪魔の店員がトレイにコーヒーを乗せてここへやってきた。ピュリドというコーヒーをテーブルに置くと、ごゆっくり、と言って去っていった。
「そのコーヒーは?」
「あぁ、これはね。」
咲夜歌は何気なく聞くと、ツェルはカップに手を添えながらゆっくり答える。
「コーヒーの中で、なかなか美味と称されているらしいのですよ。初めて飲みますので、多少緊張してしまいます。」
「へぇ…苦かったりとかは?」
「今から飲んで確かめましょう。」
そう言って、ツェルはゆっくりとピュリドを口へ運ぶ。
そして、口に届いた時、カツッという硬いものが擦れ合うような音が聞こえた。咲夜歌はそれに気づかず、コーヒーの味の感想を待っている。
「…ふむ。」
ひとくち飲み、カップを置く。
「評判通り、なかなかの美味ですね。」
ツェルは、そう声を漏らす。
「砂糖は入れなくていいんですか?」
「はい。私はこういう味に慣れていますし、何より、ピュリドに砂糖はいらないでしょう。」
「そうなのね…。」
咲夜歌は、興味深そうにピュリドを見つめる。
コーヒーは苦いっていう印象があるけど、ピュリドにはそれが無いのかしら?
思い切って、ツェルに聞く。
「ていう事は…ピュリドは、その…苦くないんですか?」
するとツェルは、細い人差し指を立てて説明する。
「いえ、そういうわけではありません。確かに、他のコーヒーと比べれば苦味は少ないでしょう。しかし、苦味が無いわけではないですよ。」
「なるほど…。」
咲夜歌はもう一度、ピュリドを覗き込むように見つめる。
「…飲んでみますか?」
「え、いいんですか?」
「構いません。」
そう言って、ツェルは咲夜歌の前にピュリドを優しく押してそこに置く。咲夜歌は、申し訳ないと思いながらもそれを手に取る。とても温かく、鼻に届いた匂いはフォテヌと微妙ながらも違っていた。
口まで持っていき、何度か水面に息を吹きかける。そして、ゆっくりとひと口啜る。
「…。」
咲夜歌は、少し驚いた。このピュリドというコーヒーはフォテヌと比べ、あまり苦味がない。加えて、後味もスッキリとする、と咲夜歌は思う。
「美味しいですね!苦味をあまり感じない…。それに、スッキリする、ていうか。」
「お口に合うようですね。」
「えぇ、これなら何杯もいけそう。」
咲夜歌は笑って応える。
「あぁ、そういえば一つ。聞きたいことがあるのですが。」
ツェルが改まって咲夜歌にそう言う。咲夜歌はカップを置き、何?、とツェルに聞く。
「前にサヤカ様に差し上げた紙、読んでくれましたか?」
「ああ!あの!」
前にあげた紙というのは、幻を見せられた夜にツェルから渡されたものだ。ツェルが執事として働いている赤い館。それに入るためのものだ。咲夜歌は制服のポケットからその紙を取り出す。丁寧に折りたたまれたそれをツェルの前で広げる。
「これ、ですよね!」
「はい。」
「でも…」
咲夜歌はそれを持ちながら少し俯く。
「その赤い館…って所?特に用事とかないから、行くことがないんです。行きたいとは…思ってるんですけど。」
最後は少し笑いながら、目を右往左往と動かす。
「いえいえ、用事などなくても、来て頂いて構いませんよ。」
「え。」
ツェルの言葉に咲夜歌は彼を見据える。
「ただ、館へ来て、茶を堪能するだけでも全然構いません。館の中を歩き回るだけでも、きっと大丈夫でしょう。」
「はぁ…。そう…ですか!」
咲夜歌は、落ち着いて息を吐いてから、安心したように笑う。ツェルも、咲夜歌の様子を見て小さく頷いた。
「じゃあ…えっと、」
「すみません、今日は館に案内できません。」
ツェルは、咲夜歌が言いかけたことを遮って言葉を紡ぐ。
「あぁ、そうなんですか?」
「はい。こちらの都合もありますので。後日、案内しましょう。」
「…わかりました!」
咲夜歌は笑って返す。
実のところ、ずっと渡された紙のことを考えていたのだ。いつ、どんな用件で行けばいいのか。咲夜歌は渡された後、そのことばかり考えていた。
ここで、ツェルの言葉に咲夜歌の心が少し軽くなった。
「それでは、私はこの辺で失礼します。」
「え、いいの?コーヒーまだ残ってますよ?」
そう言って、咲夜歌はツェルに半分くらい残っているピュリドのコーヒーを見せる。
「このコーヒーなら何杯も飲めるのでしょう。」
「た、確かに!それは言ったけど!そうじゃなくって…。」
半分以下残っているフォテヌのコーヒーと半分くらい残っているピュリドのコーヒー。咲夜歌はそれらを交互に見ながら、最後にツェルを見る。
「…もう、飲めそうにないです。」
「…。」
咲夜歌は申し訳なさそうに言う。そんな咲夜歌をツェルは見据える。ツェルは、少し懐かしさを感じた。
「仕方ありませんね。…わかりました。」
「ごめんなさい…。」
ツェルはもう一度椅子に座る。
「……いいですよ。構いません。」
*
夕日が霞み始めた空の下。二人は喫茶店を出ると、ツェルは咲夜歌の方を向く。
「それでは、今度こそこの辺で。」
「すみませんツェルさん。」
「…咲夜歌様、謝りすぎです。たまには感謝することを忘れずに。」
ツェルがまた人差し指を立てて、諭した。
「す、すみませ、じゃなくて!ありがとうございます!」
咲夜歌は彼にそう言われて、気づいた。慌てて感謝の言葉を紡いだ咲夜歌を見て、ツェルは頷いた。
「それでは、待ってますよ。」
それだけ言って、ツェルは館の方であろう道の方へと歩き出した。
「あ、はい!今度行きます!」
咲夜歌はそう大きく言った。ツェルは特に反応を見せずに、そのまま歩いていった。
「はぁ…。」
大きな溜息を吐く。惚けた顔のまま、咲夜歌は両手で口を抑える。
「やっぱカッコイイわ!」
外の寒さを忘れるほど顔が火照る。
「いつか絶対顔を見てやるんだから!」
抑えた口で言葉がくぐもる。
ああ!もう…!帰ろう…。
そろそろグラスが夕飯を作っている頃だろうか。落ち着いた装いをしながら、咲夜歌は家の方へ帰り始める。紫が染めていく空の下。咲夜歌は、雪の足跡を残しながら歩いていった。