黒く光る希望と白く輝く絶望
私が先に足を前に出した。地面の雪を蹴散らすように走って、すぐに黒い執事へ追いつく。ナイフで腹部を切りつけようとするが、執事は後ろへ下がって躱す。
次に顔へナイフを振ろうとすると、その寸前に、柄を持つ手に白い手が掴みかかってきた。
「いけませんよ。そんなものを振り回しては。」
さっきの冷たい口調と打って変わって、優しさのこもったような静かな口調で言ってきた。
強く掴まれた手を力を込めて解こうとするが、それは結局無意味に終わってしまう。
華奢な体では想像出来ないような根強い力に驚き、思わずもう片方の手を使って再び解こうとした。
その瞬間、解かれたかと思うと手首の下から鈍い痛みが走った。
私の手が空気に引っ張られるように上へ投げ出され、持っていたナイフから手を離してしまう。宙を舞ったナイフは冬木の幹に刺さった。
相手の状況を確認すると、執事は片膝を上げた状態から姿勢を立て直し、こちらに顔を向けてきていた。どうやら、あれが解かれた瞬間に執事は膝で私の手首を攻撃し、ナイフを手放すようにさせたのだろう。
そんな思考を頭にめぐらせていた最中、後ろで巨大な風船が破裂したような音が轟いた。振り返ると、執事が従える巨大な黒い腕が、両手を合わせていた。
たしかそこにあったのは、私の傷口から出した黒い液体があったはずだ。
「咲夜歌 様の能力を無力化させていただきました。」
しまった。先に私の黒から攻撃すべきだった。痛みを無駄にしてしまった。
執事に向き直り、自身を傷つけるための武器が無いこの状況をどうしようかと思考の道で地団駄を踏んでいると、あることを思いついた。
が、すぐにこれではないと確信した。
執事があの黒く巨大な腕を攻撃として使用するなら、体に作られるものは切り傷ではなく打撲傷だ。体から出す黒い液体を出せないで倒されてしまうだろう。
執事は、今の私の状況を理解しているのか、再び悠然と佇んでこちらに顔を向けている。顔は黒いシルクハットの影で見えないはずだが、何故か殺意を宿らせていないことだけがわかった。
「咲夜歌様はこの結末を望んでいないのでしょう。殺される感覚。感受性の強いあなたなら、それが分かるはずではありませんか?」
どんな攻撃がくるか身構えている私を、変わらない姿勢で向き合う執事の口調は、とても優しく、落ち着き払っている。
「あなたは、この運命に抗えます。その力が、備わっている。もしかしたら、近いうちにあなたを助けに来てくれる人が来るかもしれない。どうかその時まで、自分自身の意志を、感情ごと貫いてください。そうすれば、もう血迷うことなんてありませんよ。」
その言葉は、棘のような鋭いものではないのに、私の心に突き刺さっては、溶けだしてゆっくりと染み込んでくる。そんな感覚がする。
だが、既に心に根付いていた殺戮、悲哀、絶望を纏う希死念慮らが、全てを許さなかった。その影響か、なにかの力がみなぎってきているような気がする。
自身の覚醒などといった綺麗事ではないのは確かだ。ただ、今は、溢れそうな感情たちを抑えるために目を閉じて一度深呼吸をした。
それを終えた瞬間、後方で凄まじい音が辺りに響き渡る。木の折れるような音と、硬いもの同士がぶつかり合って共鳴したようなひねくれた音。振り返らなくても、その音の正体はわかった。
執事が従える巨大な両腕が、片方は木々に、もう片方は館の鉄扉に投げられたのだ。では、何に投げられたのか。
それは、私の黒。
あの腕に無力化されていたが、心に湧き上がって沸騰する絶望によって、あの両腕を弾き飛ばし再び手足のように動かすことが可能になった。
この展開は予想していなかったのか、執事は呻くように息を呑む。
「やはり、私だけでは手に負えません……マルキス……ここにさえいてくれれば……」
私は、目を開けた直後に、宙に置いた無数の黒い球体を刃に変え、刃先を執事に向けた。
黒い執事は両腕を顔の前に出したかと思うと、従える巨大な腕が執事の前に戻りエックスの文字になるように腕が翳されて執事を守る。
それに構わず、私は、無数の刃を突進させた。腕の隙間に入っていくようにする。腕に当たってしまった刃は、それはそれで腕を壊すための柱になるので、何の心配もいらない。
突如、その腕が大きくなった。
いいや違う。大きくなっていない。こちらに迫ってきていたのだ。
反応が遅れ、頬に顔が潰れそうなほどの鈍い痛みが響いた。間一髪で顔を横に向けたから鼻が凹むといったような最悪な事態は免れたが、体は巨大な腕に空気ごと押され、冷たい地面に尻もちをついてしまった。
頬の痛みを手で抑えながら、巨大な腕の状況を確認する。片腕は地面にうつ伏せになるように固まっているが、もう片腕は上空で握り拳を作り、私に向けて振り下ろされていた。
程なくして、私と私の周りにある地面が円状に陰り始める。すかさず立ち上がって、ナイフが刺さったままの木に向かう。
上を見ている暇はない。少しでも逃げる距離を稼ぐために飛び込むように前転する。それが終わった瞬間、地面を張っていた雪が背後から埃のように舞った。
手を伸ばして、幹に刺さったナイフを抜き出す。地面に突いたままの片腕ともう片腕が、まだ攻撃してこないのを見計らい、そいつらを従える本体へ走る。
素直に切りつけられてくれるような奴ではないのはわかっているが、このまま相手の様子を見ているわけにもいかない。
それに、今の紳士の状態は丸腰に近い。懐に武器を潜めていない限り、接近戦ではこちらが有利だ。
そいつに向かってナイフを振りかぶる。もちろん半身で躱されて当たらなかった。続けて腹部を切りつけようと姿勢を低くしながら横に切るが、後方へ飛ばれ空を切る結果に終わる。
腹に強い衝撃が響いた。一瞬だけ眩む視界に見えたのは、私の腹から引かれる白い拳。
目にも見えぬ速さで腹に殴りを入れられたのだ。更に、視界の隅にもうひとつの拳が私の顔に目掛けて振られているのが見えた。
不必要に力が入ってしまった姿勢だったが、振られてくる拳に一か八かナイフの刃を顔の前で天へ突き立てた。
「!!」
執事の拳は寸前に軌道を変えたが、手首に切り傷がついた。血は出ず、代わりに塵のような灰色の微粒が流れるように噴き出した。
無理な姿勢から落ちた体が白く冷たい絨毯に包まれる。
執事は、傷つけられた手首とは違う手を握り、巨大な腕を罅割れた暗い夜空に上げて再び拳をこちらに向けた。
巨大な握り拳がここへ振り下ろされるのは簡単に予測できた。私は、その拳ではなく、執事の見えない顔を見据える。
そこへナイフを一直線に投げた。
一瞬、乾いた音が鳴ったと思うと
見事、下顎らしき場所に命中した。
「……っ……」
執事は、上げていた腕を下ろしそれをナイフに宛てがう。数歩後ずさると、糸の切れた人形のように仰向けに倒れた。
執事が従えていた黒く巨大な腕は、ガラスの割れている音を唸らせた思うと、跡形も無く砕け散った。
冷たい雪の地面に手をつけて立ち上がる。制服に付いた雪を手で払い落とすと、執事のもとへ歩く。倒れた影響で被っていたシルクハットが脱がされ、瞳も何も無い黒い顔が晒されていた。
膝をついてナイフを引き抜こうとすると、まるで初めから刺さっていなかったかのように呆気なく引き抜けた。ナイフには、先程の灰色の塵が付着していた。
「……さ……咲夜歌、様……」
まだ生きていた。
痛々しい小さな声で、私を呼びかける。それに構わずに、私は執事の顔へナイフを振り下ろした。
しかし、執事はこれを白い手で受け止めた。ナイフの刃は手を貫通させ、先端が手の甲の先まで直進していた。
すると、もう片方の白い手が私の首の後ろを優しく掴む。そして、ゆっくりと体が引き寄せられた。
また、声が耳元で聞こえた。しかし、とても弱々しかった。弱々しくて、柔らかかった。
「諦めないで、ください。……必ず、助けに行きます。」
その声に混じって、砂が流れるような音が小さく聞こえてきた。掴まれた力が徐々に弱くなってきている。思わず、視線を横に流し、執事の顔を見た。
黒い頭蓋骨が、空を見ながら目から流していた。
忽ち、執事は塵だけになった。執事がいた証明になるものは、黒いスーツとシルクハットだけになった。




