記憶廻廊
「う……うぅ……」
後頭部が痛い。何か固いもので殴られたかのように、ズキズキして痛い。
私は今、ベッドで仰向けに寝っ転がっているようだ。意識が覚醒したと同時に、痛みのせいで倦怠感を覚える。
しかし、何もしないわけにもいかない。謎の使命感によって突き動かされ、深呼吸をして目を開けた。
片手で頭を抱えながら、もうひとつの手は横になっていた体を起き上がらせる為の支えにした。上半身だけを起こしたし、辺りの状況を確認する。
この部屋は、私の部屋だ。……正確に言えば、異世界の方の。
お世辞にも柔らかいとは言えないベッド。扉の近くに置いてあるクローゼット。その隣に、全身が写る細長い鏡。部屋の中央に敷かれたカーペット。夕陽が差し込める窓の近くにある机。そこに置かれた赤い日記とお気に入りの万年筆。
全く同じ部屋だ。ひとつ違和感があるのは、夕陽が差し込むはずの窓の外は、何故だか夜より暗いことくらい。
……私はここに帰ってきたのかしら?でも、あの……禁忌の領域から帰ってきた覚えは無い。そもそも帰れないはず……。一体、どういうことなの?
痛みで抑えていた後頭部から手を離す。手のひらに血はついていない。怪我をした訳ではないようだ。
ベッドから降り、何故か着ていたパジャマから学校の制服に着替える。異世界に来る時に着ていた服。これじゃないと外に出れないわ。
「……よし。」
寝癖があるのは仕方がないので、とりあえず一階に降りてから髪をとかすことにする。
全身鏡で服の格好を正すと、この部屋から出ようと扉に向かう。グラスやイミラは今どうしているのかしら。
グラスは、朝食もしくは晩御飯でも作っているのか?イミラは、暖炉の前のソファに座って本でも読んでいるのか?もしかしたら、もう既に食事をとっているかもしれない。
色々な考えが交差して、つい笑みが零れてしまう。ドアノブに手をかけて、二階の廊下に……
出たはずなのだが。
目の前に飛び込んできたのは、白に近いねずみ色の空間。真っ先に思いついた場所は、学校の校内。全く、状況がわからなかった。
……まさか、まだ夢が続いてる?
さっきの夢は、もう朧げになって思い出せない。この現実も、夢ではないかという恐怖に襲われた。
恐る恐る校内へ足を踏み入れる。前には壁があり、左右に廊下が続いている。右は何も無い様子が続いているが、左の壁際に、教室の引き戸の両扉がいくつかある。
キーン、コーン、カーン、コーン
突然、学校のチャイムが鳴った。
大きな音ではなかったのに、反射的に両耳を両手で塞いでしまった。振り返ると、私の部屋へ通じる扉は、白い壁に溶けたように消えて無くなっていた。
鼓動が早くなる。私は、塞いでいた耳を開け、ゆっくり深呼吸をした。
キーン、コーン、カーン、コーン
二度目のチャイムが鳴った。
突如、目の前の何も無い空間から、花瓶の置かれた机が現れる。同時に、悲嘆するような話し声が耳に入ってきた。
どこから聞こえてくるかわからない。左右の廊下を見渡しても、扉があった後ろを見ても、人らしき者は見当たらない。
キーン、コーン、カーン、コーン
三度目のチャイムが鳴った。半音下がった気がする。
無機質な鐘の音が、心を釘で打つように強く響く。足が震えてきた。再び机に目を向けると、置かれた花瓶は割れてしまった。破片は飛び散らなかった。上から勢いよく叩いたように、ほとんどが机の上で留まった。水たまりが広がり、花が倒れる。
キーン、コーン、カーン……
四度目のチャイムが鳴り終わりそうな時、後ろから気配を感じた。右側の廊下から……。
怖くて、仕方がなかった。それなのに、私は振り向こうとしていた。頭に、振り向けと、誰かの命令が下っていた。そんな気がした。ゆっくりと……振り返る。
ゴーン……
より低いチャイムが廊下に響き渡る。その瞬間、自分自身の目を疑った。
目の前に佇んでいるのは、もう一人の私だ。
白い髪や制服は水に濡れ、頭から血を流している。額からゆっくり下に流れ、顎まで行って滴り落ちていた。荒い呼吸を繰り返し、猫背で私を睨んでいる。
私の瞳は明るい青色なのだが、そいつは赤黒い瞳をしていた。それ以外は全部私に似ていた。体格も、服装も。
滴り落ちた血が、白い床に赤い斑点を次々と作り出す。
「…………」
ただ言葉が出せないでいた。しばらく、お互いの瞳を見つめ合う。最初に動き出したのは、そいつだった。
『ふふ……ああ、は……!!』
気持ち悪い程に口角を上げて、言葉を乱暴に投げ出しながら、ゆっくりと近づいてくる。ここで、初めて私は危機的状況にいるということに気がついた。
後ずさって、そいつから距離を離そうと考えた。しかし、
突然、走り出した。
「ああ!??」
情けない声を出してしまった。私は、そいつから逃げるしかなかった。震える足を強引に動かし、後ろを振り返ってひたすらに走る。
そいつがどんな速さで来てるのかはわからない。もう、考えられることは一つしかない。
逃げなきゃ!!
頭の中は、逃げることしか考えられないでいた。後ろを振り向くことすら許されない。ただ、全力疾走してそいつから逃げる。
後ろから嘆き声が聞こえる。でも、そんなのを聞いている余裕もない。
勢いよく角を曲がって、転びそうになる。すぐ体勢を立て直すと、少しだけ振り向く余裕が出来た。
……見るんじゃなかった。
もうあれは私の姿じゃない。白い髪は伸び、毛先は黒く滲んでいる。赤い目は大きく見開き、私を捉えている。体も、もはや人間の体の形なのかすら怪しいほど。捕まったら、
確実に死ぬ。
脚は、ただひたすらに走り、遠くに見える教室の扉に向かって一直線。もう、振り向けない。考えれない。一瞬でも逃げることを怠れば、捕まる。
距離が長い。今にも転びそうなほど走っているのに、扉に近づかない。それでも、走る事は止めない。息が辛くなってくる。
すると、急に扉が近づいてきた。目の錯覚かと思えるほど急接近し、思わず引手に手をかけて扉を開け先に進んだ。
その瞬間、体が落ちる。目の前に迫る木造の壁。勢いよくそこにうつ伏せになる形で落ちてしまった。
……壁?なんで壁に落ちたの?手で触るようにして、壁が床だということを確認した。……うつ伏せの状態から天井を見上げる。
入ってきた扉は、天井に張り付いていた。
扉の奥に、そいつが走ってきている。重力がおかしい。私は床に落ちた。しかしそいつは壁を走っている。つまり……そいつが走っている扉の向こうは壁が床であり……
だめ!もうすぐ追いつかれる!
悠長に考えてる暇は無かった。素早く立ち上がって、周りを見渡す。ここは教室のようだ。だが、全ての机に花瓶が置かれている。気味の悪い光景に、思わず眉を顰めてしまった。
上から足音が聞こえる。一番近くにあった扉に駆け込み、ドアノブに手をかけた。教室の扉であるはずなのに、まるで玄関扉のようだ。
開けてみると、見覚えのある玄関が現れた。同時に、後ろから重いものが落ちた音が聞こえた。あいつが来た……!
すぐさま中に入り、扉を閉めようとする。隙間から、あのおぞましいそいつが走ってきているのが見えている。この身の全ての力を閉めることに注ぎ込み、そいつの目の前でやっと閉められた。もちろん、その瞬間に鍵をかけるのも忘れなかった。
……逃げ切った。
もうここまで追ってこないだろうという安心感と、限界まで走ったという疲労感で、その場で力なく座り込んでしまった。
あいつは、玄関の扉を開けようとしている。怪物のように、何回も何回も扉を叩いている。理性のない叫び声も微かに聞こえる。しばらく、座ったまま呼吸と整える事にした。
少しだけ落ち着いた。
立ち上がって、玄関から奥の廊下へ目を向ける。ここは……私の家だわ……。どこにでもある、普通の一軒家。この廊下の先は、居間に続いている。だが、少しだけ疑っている。
学校の廊下から重力のおかしかった教室に。そこにあった玄関扉から自宅に。では、この廊下の先にある扉はどこに繋がっているのか?
……そこには行かない。嫌な予感がしたから。だから、もうひとつの選択肢を選ぶことにした。廊下の途中にもうひとつ廊下があるのだが、その先は二階への階段がある。
二階は、私の部屋と弟……悠貴の部屋、両親の寝室がある。……一旦、私の部屋に戻ろう。もっとも、こんな扉迷路みたいな場所から戻れるかわからないけど。
「……はぁ。」
深呼吸をして、心を穏やかに保ち、階段に向かって歩いていく。
すると、後ろから壊れた音が大きく聞こえた。
驚いて振り向くと、さっきのやつが……扉を壊して……
ああ、また……!
そいつが走ってくる前に、また全力で階段まで走った。一段飛ばしながら、二階まで到達する。その瞬間、足が何かに引っかかり、床に体を叩きつけられた。後ろを見ると、そいつが足を手で掴んでいた。
捕まった……!!!
「いや!……っ!!」
掴まれた足をもがいて、手から離そうとする。しかし、掴む手の力が大きすぎる。そいつが、睨みながら嘲笑っている。まるで、獲物を捕った獣のようだ。
また、後ろから何か叩く音が聞こえた。振り返ると、扉が勢いよく開閉を繰り返していた。それに気づいた瞬間、天井に取り付けられた電気も明滅を繰り返す。
ただただ恐怖でしかなかった。開閉も、明滅も、恐怖をまくし立てるように繰り返す。また振り返ると、そいつは変わらずに足を掴んでいる。
死にたくない……!
どこか懐かしいような感情が湧き上がってきた。濁流のように押し寄せてくるそれは、生きる力を与えてくれたような気がした。本当に、そんな気がしただけだけど。
精一杯に力を込めて、もがく足をさらにもがいて、そいつの手から離れようとする。もちろん、もう離れないということはわかっていた。だが、それを逆手にとろうと考えたのだ。
もがけばもがくほど、握る手は強くなる。手に集中させる。
その瞬間を狙うの……!!
そいつの顔みたいなのが足に近づき、さらに足を強く握る。成功するかはわからない。でも、やらなきゃ、逃げられない。
思いっきり、そいつの顔に足を踏みつけた。
そいつが唸り声を上げて、足から手を離す。その隙を狙って立ち上がり、素早く私の部屋に向かう。いつの間にか開閉と明滅が終わっており、なんの苦もなく部屋に入ることが出来た。
扉を閉めて、辺りを見渡す。
……私の部屋だ。異世界じゃない方の。
それを確認すると、扉の隣に置いてあった棚を動かし、扉の前に置いた。内開きだから、これでもう入ってこれないはず……。壊してくる前に、隠れるか……どこからか逃げるか。
あいつが扉を叩き始めた。壊れるのも時間の問題だ……。部屋に何かないかと、隅々まで見渡す。
ベッド、勉強机、窓、棚、クローゼット、テーブル、テレビ、鏡。
ざっと、隠れられそうなものは見つけられた。逃げるための通路は……窓かしら。それくらいしかない。
クローゼットの近くにある鏡が、私を見つめる。それに気づいて、ちょっと見つめ返す。
それにしても、あの私に似たあの怪物。一体何が目的なのかしら?……ダメだわ。そんなことを考えていても答えは見えない。それを知っているのは、あいつだけだわ。
鏡の向こうの私が微妙に笑っている。
いやだわ、こんな状況でも笑ってるなんて……まさか私、おかしくなってる?そう思って口を触りながら鏡を見つめていれば、鏡の向こうの私は目を瞑って、次第に髪が黒くなる……。
……え?
自分の髪を確認する。黒くなっていない。もちろん目も瞑っていない。じゃあ、あの私は……!?
目を開け、黄色の瞳を晒す。鏡のあいつは、変わらず微笑みながら、こっちに歩み寄ってくる。その様子を佇むことしかできなかった。
鏡から、白衣のようなのを着た黒髪の女が出てきた。あの怪物のような殺意は感じない。本当に何も感じない。
「ありがとう。月代 咲夜歌。」
落ち着き払う姿勢でそう放った。微笑んでいたが、急に無表情になって見つめてくる。
「…………」
わからない。本当に、今何が起こっているの?この女は誰?私は……今どこにいるの?ここは、本当に私の部屋?
「状況がわからないわよね。大丈夫。これを持っておいて。」
女は、何かを持って手を伸ばす。思わず……手を出してしまった。ゆっくり、手のひらに何かが乗る。
これは……ペンダント?
「それが、あなたの目印になる。仲間を呼んで、すぐ戻ってくるわ。」
わけもわからず、頷いてしまった。女は、ほんの少しだけ笑った気がした。が、すぐに無表情へ戻ってしまった。近づいて、私の手を両手で握る。
「あいつに負けてはいけない。常に自分を持つの。これも、絶対に無くさないで。」
ペンダントのようなものを、私のポケットに入れられる。私を見ながら、その女は後ずさって後ろの方に、虹色の……空間みたいな何かを創り出した。
「すぐ帰ってくるから。」
その言葉を聞いた途端、何故だか悲しくなった。女は、空間へ入っていった。そのまま、あとかたもなく空間も無くなった。
……結局私は、どうすればいいの?負けてはいけないって、どういうこと……?
後ろから、叩く音が絶えず聞こえる。もうすぐで扉が破られるかもしれない。その前に、逃げることにした。二階からなら、窓から落ちても最悪怪我するだけだわ。
窓を開ける。その先は、闇。光が一切無い。窓枠に足を掛けた瞬間、扉が壊れた音がした。もう、あの姿見たくない。
後ろを振り返らず、飛び降りた。
…………。
嫌な予感がした。それは、落ちる長さが、という訳ではない。
上から、聞こえる。あの呻き声。嘆き声。叫び声。全てを含んだ、気持ち悪い声。
上を向きたくなかった。絶対に向かない。絶対。
その瞬間、顔に巨大な手が掴みかかり…………
*
いつまでにらめっこしないといけないんだ?
俺は、ついにパソコンを投げ出しそうになる。だが、このパソコンは机に固定されているようだ。
「ああ、くそッ!」
どうしてなんだ?咲夜歌は何故あの輪っかの機械に吸い込まれた?
……ダメだ。こういう時こそ落ち着くのが大事だ。暴れても、何も解決しない。もう一度、慣れないパソコンと向き合う。
そんな時、画面がおかしくなる。新しいページが開いて……なんだこれ……?番号……?
見つめていると、急にあの輪っかの機械が動き出した。あの、咲夜歌を吸い込もうとした時と同じように。
咲夜歌か?帰ってきたのか!?
輪の前まで走ろうとした時、急に輪から何かが出てきた。人間のようにも見えたが……咲夜歌か?
走って確認すると、髪が黒い。それに、長い。咲夜歌 は、少しだけ長い白い髪のはずだ。じゃあ、こいつは誰だ……?
倒れたそいつは、ゆっくり立ち上がる。白衣を来ているようだ。物が散乱した床で倒れた衝撃で、汚くなった白衣を払うと、そいつが俺に気がついた。
……咲夜歌のような顔だ……。だが瞳の色も違う。咲夜歌は青色だ。
そいつは、澄ました顔でため息をつく。
「やっと出れたわ。」
「お……お前誰だよ?」
「私?私は……」
そいつは、無表情で俺を見る。胸に手を当て、背筋を正した。
「アリア・ブラクディン。……この研究所の……研究者よ。」
「研究者……どういうことだよ?」
だってこの研究所、もう随分前に廃れたんだぞ?今更ここの研究者だなんて言われても信じられない。
アリアは、無表情を貫く。
「ごめんなさい。今はその質問に答えられない。やるべき事があるから、それを消化してからでいいかしら。」
淡々と話し、この研究室の出口へと向かって歩いていく。
「そう……恩人を助けないと、ね。」
「恩人……?やるべき事ってなんだよ?」
アリアは、少し呆れた様子で俺に振り返る。その瞳は、光が宿っていない。俺は一歩だけ後ずさった。
しかし、次の言葉で、俺はこいつについて行かなければならないと分かった。
「月代 咲夜歌を救う事よ。今から、その下準備を行うの。」




