夜空と紳士の幻惑
咲夜歌は窓の外を見つめる。外は暗く、星が瞬いている。遠くには、都会の光も見えた。咲夜歌は、あることを思いついた。
咲夜歌は、自室である物置から暗い廊下に出て、辺りを確認しながら一階降りていく。既に犬獣人のグラスと兎獣人のイミラは寝ているはずだ。
一階に降りると、暖炉の火は消されており、照明もついておらず、頼りになるのは窓から入る星の光くらいだ。目を凝らして、玄関の扉まで忍び足で歩く。ふたりを起こさないように。
外に出れば、辺りは静まり返っていた。深夜だからだろう。歩いているモンスターは一匹もいない。空には薄い雲に紛れて月と星が瞬いていた。
…こんな天気のいい日は、あの場所も映えるわね、きっと。
咲夜歌は、転移してきたあの場所に向かって歩いていった。あの、大きな樹と積もった雪があるあの場所。
穏やかな寒風にもめげずに、咲夜歌は歩いていった。
*
着いた場所は、咲夜歌が転移してきたあの場所。…グラス達に連れられた街の方の反対側にも道があり、進んでみれば、大きな樹があるのだ。周りの木と同様に葉をつけていない裸の大樹は、大きく空を包み込むように広がっている。まるで、星が落ちるのをいつまでも待っているかのように。
大樹の後ろに回り込めば、先の尖った崖が見える。恐る恐る下を見てみれば、静かに靡く青色が見える。海だ。果てしなく続く海が純粋に広がる夜空の光を反射し、咲夜歌の目に入る。海からは少し遠かったが、風の音に混じり、波が砂浜を擦る音が微かに聞こえた。
この場所は、咲夜歌が最近見つけたお気に入りの場所だ。誰にも邪魔されず、一人で有意義な時間を過ごすことが出来る。その波の音で、咲夜歌の心の膿が洗われていく。そんな感覚にさえ陥ってしまう。
一際強い寒風が辺りを舞う。その影響で、咲夜歌の白髪が靡く。咲夜歌は、この世界に来て、初めて哀しいという感情になった気がした。
「おや」
不意に、背後から聞き覚えのある爽やかな声が聞こえた。この声は…ツェルだ。前に広場で会ったあの紳士。
振り向けば、広場の時とは違う雰囲気を漂わせたスーツ姿のツェルが立っていた。相変わらず、顔は黒いシルクハットが影になって見えない。
「奇遇ですね。サヤカ様。」
「…えぇ。」
ツェルは挨拶程度にそう言うと、咲夜歌の隣に立った。身長を比較してみれば、かなりの差でツェルが勝っている。
「…ツェルさんは」
咲夜歌は、ツェルに話しかけた。ツェルの方に顔を向けたが、こんな至近距離でもツェルの顔は見えない。咲夜歌は口を動かす。
「どうしてここに?」
ツェルは、少し間を置いてから話し始めた。そんな焦らさなくてもいいじゃない、と咲夜歌は思った。
「…実は、この場所。かなり気に入ってまして。」
「…そうなんですか?」
「はい。」
そう言って、ツェルは頷く。咲夜歌は視線を海の方へ動かす。どこまでも続く海。不意に、イミラが描いていた海底都市の事を思い出した。
「海底都市って…あるんですか?」
「ありますよ。」
ツェルは淡々と答えた。だが、面倒くさそうに受け答えをしているわけでもないようだ。大袈裟に聞こえるかもしれないが、ツェルの言葉は一言一句に命が宿っているような気がした。それは咲夜歌の錯覚かもしれない。しかし、咲夜歌はそう思った。
「どんな所ですか?…綺麗な場所、ですよね?」
咲夜歌は静かにそう聞いた。ツェルは、また少し間を置いてから、咲夜歌の肩に白い手を置く。その手は、ゴツゴツとしていて、硬かった。ツェルは、おもむろに口を開ける。
「……実際に見た方が、早いかと。」
そう言って、咲夜歌の体を肩に置いた手で前へと押した。
「!!!」
体勢を崩された咲夜歌は慌てて戻ろうとする。が、狙ったかのように強めの寒風が咲夜歌を襲う。
このままだと、落ちてしまう。
かなり高い崖だ。落ちたらひとたまりもない。咲夜歌は最後まで足掻こうと、ツェルに向かって虚空に手を伸ばす。しかし、ツェルは手を伸ばさず、じっとこちらを見ていた。顔が見えないのに、そう感じた。それに加え、優しそうな笑顔を浮かべているようにも見えた。結局、咲夜歌の伸ばした手はツェルに届くことはなかった。
咲夜歌は落ちていった。もうツェルは見えない。一瞬とも、永遠とも言える時間が咲夜歌を包み、落ちていく。不意に、雨の降る音が聞こえた気がした。
しかし、それは違った。咲夜歌が海に飛び込んだ音だ。不思議と、息は出来た。海は、落ちてきた咲夜歌を優しく受け止め、やがて水中へと堕ちる。ここで咲夜歌は、はっ、とする。
上の水面を向いていた咲夜歌の体はいつの間にか下の海底へと向けられ、目を見開いた咲夜歌にあの風景画に似た光景が入ってきた。
海底都市だ。あの、イミラが描いていた海底都市。
上から見下ろす形で咲夜歌はそれを見る。…本当に、あったなんて。
咲夜歌は冗談でその事を聞いていたのだが、それは偽りのない真実だったようだ。咲夜歌は、自分の浅はかな考えに、微笑んだ。
いやだわ。ここに来てからも、何も変わってないじゃない。
美しい海底都市を見ながらそう思った。
「どうでしたか?」
「!!」
咲夜歌は、はっ、とする。ここは、崖の上。ツェルに落とされる前の、場所。咲夜歌はツェルの方を見て驚いた。
「…どういう事?私、落ちたんじゃ…」
「もう一度聞きましょう。」
ツェルは咲夜歌の問いに答えず、強引に聞く。咲夜歌の肩に手を置いたまま。
「海底都市は、どうでしたか?」
「…」
咲夜歌は納得がいかない様子でツェルを見る。仕方なく、咲夜歌は答える。
「…綺麗だったわ。」
「そうですか。」
咲夜歌がそう言うと、ツェルは確認するように頷く。咲夜歌の肩に置いた手を離した。ツェルは振り向いて、歩き始めた。
「今のは総て夢です。私が見せた幻。」
咲夜歌は振り返らず、ツェルの話を聞く。今振り返れば、いなくなる気がして。
「楽しんでいただけたでしょうか?」
ツェルは歩みを止め、咲夜歌にそう尋ねる。
「…えぇ。とても。」
咲夜歌は目を瞑った。あの海底都市を脳裏に焼きつけるため。
「…また、自分がどんなのか分かってしまったわ。」
「……。」
寒風が吹く。咲夜歌の白髪の髪を靡かせる。咲夜歌は目を開けた。
「サヤカ様は、面白い人ですね。」
「…そう。」
咲夜歌は、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。むしろ、その言葉を待っていたような気がした。
「さてと!」
咲夜歌は、笑顔になる。振り返って、ツェルへと声をかける。
「感傷に浸るのはお終い!ツェルさんも一緒に夜空を見ましょう!」
しかし、そこにツェルはいなかった。代わりに、ツェルがいたであろう所に、なにか置いてある。
咲夜歌は、驚きながらもそれをしゃがんで取る。どうやら、なにかの紙のようだ。
『私は、この街の入口に位置する館に居ます。なにか要件があれば、この紙を門番の者に見せて、館へ入ってください。貴方だけの特別な紙です。大事に持っていてください。』
綺麗でありながら、どこか独特な文字でそう書かれていた。裏面には何も書かれていない。
「…館。」
咲夜歌は立ち上がって、その紙を綺麗に折りたたんでポケットにしまう。その館を見たことがあるかもしれない。
実は、以前窓から見えていた都会の方へ散歩をしていた時にそれらしきものを見た。
あの、赤色が特徴の、あの館。
都会への道の脇に建てられている。館に入らなければ都会へ行けない、という訳ではない。よく見ていなかったが、外観は窓がいくつもあり、三階まで建てられていたような気がした。
それが建っていたせいで、都会の道を歩く事は出来なかった。その館から発せられる、威圧感に耐えかねて。
咲夜歌は、夜空を見る。
「ツェルさんも、面白い人…。」
そう虚空に呟いて、微笑んだ。今度は、冷たいものではなく、温かいものを含んで。
…すこし早いけど、帰りましょう。
咲夜歌は、くっつきそうになる瞼を開ける。そのまま、変わらない寒風に身を包まれながら来た道を歩いて行った。
何が起きるか分からない明日を期待しながら。




