鏡の図書館
赤い館から走って都会へと着いた咲夜歌は、南西区の図書館を目の前にして手を膝について、息を整えながら肩を揺らす。艶やかな白髪が、重力に従って垂れる。いきなり走るから、こういう事になる。とはいえ、咲夜歌は息切れしたことに対して全く気にしていないようだ。
あらかた息が整うと、ひとつ深呼吸をする。そして、木造の図書館へ入っていくなり、ここへ来た目的を改めて確認する。
どうすれば理想的な恋ができるか!そのためにまず恋愛関係の本を読む!そう!これ!
夕暮れ時とまではいかないが、陽が傾き始めている。行動は速やかにしなければならなそうだ。
咲夜歌は、三階の天井まで吹き抜けで見える本棚を見渡しながら、恋愛関係の本を探し始めた。
*
が、結局そういうものはあまり見つからなかった。見つけたとしても、咲夜歌の理想とする本ではなかったようだ。
そのような本は咲夜歌にとって、分からない単語や支離滅裂な文章が並べられているのがほとんどだった。それでも、辛抱強く本棚の前で理想の本を探している咲夜歌。
そんな時、背中の中央部から本で優しく何回も突かれる。
「え?」
驚いて振り返ってみれば、一階にいる受付のスライムが体から出している触手をこちらに伸ばしていた。
目の前の触手には、本が握られていたが、ファッションについての本のようで今の咲夜歌には関係が無い。
触手は空いた本と本の間にそれを入れる。そうして、触手は受付の方へ帰っていった。
「……ん?」
そんな咲夜歌は、視界の隅に金色なものが見えた。向けば、それは鏡であった。金色の額に入れられた鏡。
三階まで続く中央の螺旋階段から十時に伸びた先の壁にかけられており、咲夜歌も二階のちょうど鏡の見やすい場所にいた。
一階にある受付を見た拍子に、視界に入ってつい気になってしまった。
咲夜歌は、その鏡の前までゆっくり歩く。途中すれ違うモンスターをかわしながら、ついに鏡の前へとたどり着いた。
「……こんなものあったかしら?」
記憶の彼方を探っても、今までにこんなものは図書館になかったはず、と咲夜歌は鏡の前で首を傾げる。
ふと受付の方を向き、再びすぐ鏡に視線を向ける。
鏡は、咲夜歌には、これといって特別なものは感じない。何ら変哲のない鏡。偽りなく目の前にもう一人の咲夜歌が佇んでいる。髪の毛を少し整えると、咲夜歌はそこから立ち去ろうとした。振り返ると、
辺りが暗くなっていた。まるで、陽の光が一切入ってきていないくらいに。
「!!?」
咲夜歌は目を見開いて、姿を変えた図書館に唖然とする。姿を変えたといっても、構造自体は変わっていないようだ。
が、見上げると、天井と脚がくっついたように長いテーブルと椅子が並んでいる。一階の風景が三階に広がっていた。
よく見れば、廊下から吹き抜けで落ちないように隔てていた柵も、咲夜歌の立つ廊下の裏側にある。どうやら、
すべて、裏返っている。
思わず後ずさりした咲夜歌は、すぐ振り返って鏡を見る。依然として、そこに変わらない鏡。そこに映る咲夜歌。
その後にいる小さく青白い炎。その存在に気づくと、はっ、として勢いよく振り返る。
「……珍しいね。」
その炎から聞こえる、囁きにも似た優しく冷淡で、少年のような声。喋る度に白く輝く反応を繰り返している。
「ここに人が来るなんて。」
「人魂……?」
目の前にいる人魂は、咲夜歌に反応するように、うん、と頷くような動作をする。
「こんな辺鄙なところで出会ったのも、何かの縁かな?何も無いところ……ってわけじゃないけど、よかったら歩き回って本とか読んでってね。」
そう放つなり、人魂は中央の螺旋階段を下って行った。少し我に返った咲夜歌は、振り返って再び鏡の前に立つ。数秒間見つめて、振り返る。そして、また咲夜歌は目を見開く。
さっきのような薄暗い図書館から、いつもの咲夜歌の知っている図書館へと変わった。陽の光が入ってくる明るい図書館。すぐ心を落ち着かせ、鏡を見る。また振り返る。
また、あの薄暗い図書館。すると、咲夜歌は数秒の時間をかけて、段々と口角を上げる。
そうして、顔を両手で覆っては俯き、がくん、と勢いよくしゃがむ。
なにこれすごい!!すごいよなにこれぇ……!!!……すごい……。
実感したことの無い嬉しさと楽しさが込み上げ、心の中で激しく興奮する咲夜歌。
未だに、魔法の予測出来ないような恐ろしくも素晴らしいものには慣れていないようだ。
今の咲夜歌は、本どころではなかった。もしや自分が無意識に魔法を使っているんじゃないか、と錯覚している。
覆っていた顔を晒し、立ち上がって中央の螺旋階段を上がっていく。
階段のてっぺんに到達して、この『鏡の図書館』を一望する。
三階の天井にかかっていたシャンデリアが、ここでは一階の床に、重力に逆らって上へと伸びている。
「すごい……。」
心から出た一言。咲夜歌の場合、今まで見た光景で、間違いなく一番非日常的な光景だ。
今までも非日常的なものもあったが、それはどれも風景ではなくモンスターだけであった。
鏡の図書館の出入口を見る。月のような明かりの筋が入ってきている。行こうと咲夜歌は思ったが、残念ながら足場になるような所は見当たらない。
「行く?」
不意に、斜め下から人魂の声がした。咲夜歌は少し驚いてそこを向く。人魂であるから、薄暗いこの場所ではかなり目立つはずなのに、全く気が付かなかった。
咲夜歌は少し迷って、頷く。
「わかった。ちょっと待ってね。」
人魂は、辺りに輝きを放つ。次の瞬間、気が割れる音が聞こえた。かなり大きい音だ。久しぶりに心臓が跳ねそうだった。
思わず耳と目を塞いでしまった咲夜歌は、意を決してその耳と目を開ける。そして、また驚く。
床……いや、天井が壊れて、空中に浮いていた。目の前で。その壊れた木の板は、この図書館の出入口の方へと形作られている。が、形や大きさがそれぞれ違い、隙間もできてしまっている。道と言うには程遠い。
出入口へ道が繋がると、隣の人魂は、普段通りの輝きに戻って、その道を浮遊しながら進んでいく。しかし、すぐに静止する。
「大丈夫。バランス感覚さえ良ければ渡れるから。」
咲夜歌のことを心配しての言葉だろうが、感情が入っていないような声で人魂はそう言っているため、咲夜歌は嫌味を感じてしまう。だが、そういう声なんだ、と自分に言い聞かせる。
そうしているうちに、人魂はどんどん先に進んでしまう。
「ちょ、待ってください!」
ひとつひとつ、慎重に、それでも早く、浮いた木の板を辿っていく。固く宙に静止しているようで、躓いてしまう心配はないようだ。
無事に渡り終えると、咲夜歌は目の前の風景を見て、目を奪われた。
地面は空に。空は地面に。等間隔に植えられた木々は、逆さまに育って、下の空に腕を伸ばしている。高くそびえ立っているビルは、その言葉の意味だけは変わらずに、物体だけが真逆になって、変貌している。忙しなく行き交うモンスターは、ひとりもいない。
そして真下の空には、あの人魂にも似た、光り輝く月が、空の彼方で静かに佇んでいた。
この非現実的な風景を見て、何かが咲夜歌の脳裏をかすめた。不意に、咲夜歌の足が前に出される。もうその先に足場はない。
「危ないよ。」
落ちてしまいそうになる前に、隣にいた人魂が咲夜歌を凛とした声で制す。
「ここから落ちたら、永遠に落ち続ける。それとも何か、やましいことがあったりするのかい?」
「いや……何にもないです……。」
咲夜歌は踏み出しそうになった足を戻し、落ちないように、そぉ、と下にある空を覗いて確認する。大きい月。散りばめられた星々。その先にある、宇宙という名の虚無。
覗き終えると、咲夜歌は妙な安心感に駆られて出入口の細長い天井に力無く座る。そして、ここで図書館に来た目的を思い出す。
……なんか、もういいかなぁ……。
珍しく、心も妙に落ち着いた咲夜歌。不気味で、どこか寂寥感を覚えるこの風景に感化されてしまったのだろう。そんな時、咲夜歌は口を開く。
「……懐かしい。」
静かに、目の前に広がる都市を眺める。
そういえばここ、異世界なんだった。風景とかがあっちとあんまり変わらないから、忘れてたわ。それに、魔法なんてものもあんまり見てこなかった。
咲夜歌は時間を忘れて、ここに来た今までのことを思い返す。弱い風が吹いて、咲夜歌の頬を撫でる。下方から光る遠い遠い月の灯りも、淡く弱かった。
*
そしてその風景は、家に帰っても、ベッドで横たわっても、まぶたに焼き付いた。あの光景、どこかで見たことあった、と咲夜歌は思う。
そろそろ、潮時だろう。




