不思議な紳士
咲夜歌は無表情のままベッドで寝ながら虚空を見つめていた。昨日までの出来事を頭の中で考えていた。夜空を見て、獣人がいて、モンスターもいて、異世界だと分かって、ここまで来た。この家に。
一日置いて冷静になった今、咲夜歌は改めて考える。
頭に手を置く。
ここどこおおおおおぉぉぉ…。
ええ分かってます分かってますとも。今更すぎるってことはもう承知してたわ。でもお願い言い訳させて。昨日は興奮してたからまわりが見えてなかっただけよ。本当よ。多分。ああでも昨日まわりを見てたから興奮してたのかもしれないわ。もうやっぱり…
ガチャ
突然、部屋の扉が開いた。咲夜歌は頭に手を置いたままそこに視線を向ける。
「あ、おはよう!よく眠れた?」
扉を開けて笑顔でそう言ったのは、柴犬に似た獣人のグラスだ。咲夜歌をこの家に住まわせてくれたひと。
咲夜歌はグラスを見て、冷静な思考が昨日のように崩れそうだったが、なんとか保った。
だって、そこにあまりに好きなものがいたら、誰だって冷静を保てなくなるでしょう?人間でいう、好きな異性に近いと思うわ。まあ、私は変な趣味があるから。普通ではないのよ。
「まぁ…えぇ、よく眠れたわ。」
「よかった!」
グラスは変わらず笑顔で返す。咲夜歌は上体を起こしベッドから降りる。床に光る白い線がある。辿れば、カーテンから漏れる太陽の光だと気づいた。
「朝ごはんはもうすぐ出来るから!待ってて!」
「わかったわ。」
グラスは咲夜歌の返事を確認したあと、頷いてから扉を閉めた。
咲夜歌は窓の方へ歩いていく。乱雑に置かれた物を避けて通り窓の外を覗けば、眩しいくらいの白い光が目に入った。
カーテンを開けると、光の線は一気に面積を広げた。この部屋の窓はこの一箇所しかない。暗かった部屋は明るくなり、部屋の全貌が見やすくなった。
とはいえ、咲夜歌が先程寝ていたベッドと散逸した本や家具があるだけだったが。
咲夜歌は落ちている本を、一冊だけ拾ってみる。拾ったのは、赤い表紙をした本。タイトルも文字も表紙にないようだった。裏表紙もまた然り。
中を開けば、何の文章もない罫線がひかれた白紙だけが続くページが終始続いていた。
…日記として使えそうね。
咲夜歌はそう思って、近くにあった机に赤い本を置くと、手頃なペンを探した。しかし、なかなか見当たらない。こんな散らかった部屋で一本のペンは見当たるわけもなく。
諦めて机に戻ろうとすると、本に隠れて細い何かが光った。
どかしてみれば、なんとそこに万年筆があった。咲夜歌の手に、はまるくらいぴったりな大きさだ。うるさすぎない装飾が施され、咲夜歌の感性に、あっと言わせるほどの可憐さを持っている。
咲夜歌は、綺麗と思った。その万年筆を持って机に戻り、早速赤い表紙の本に何か書いてみることにした。近くにあった椅子に座り、日付を書こうとして、止まる。
…今日は何月何日なのかしら?
実を言うと、この異世界に入ってしまう前の咲夜歌が住んでいた世界も、ここに入る前はいつだったか憶えていないのだ。まさか、咲夜歌が住んでいた世界と日付が同じ、という事はないだろう。雪は降っていない地域に咲夜歌は住んでいたのだから。
だとしたら、今日はいつ?
バタッ!!
「朝ごはんできたよ!!」
またもやグラスは勢いよく扉を開けた。その拍子に、咲夜歌の体は、ビクッ、と動く。
「わ、わかったわ。すぐ行くから、まってて!」
咲夜歌は急いで閉じた赤い本と共に、少し慌ててそう言った。
何か書いたわけでもなかったが、反射的に閉ざしてしまった。椅子から降り、名残惜しくも部屋から出ることにした。
*
朝食をとりおえた咲夜歌は、すぐに制服に着替え、今家に出て散歩をしていた。いや、正しくは探索と言った方がいいだろうか。
何も知らない、咲夜歌の好きなものしかないような異世界に来たのだ。いてもたってもいられない。咲夜歌はスキップするような足取りで、眩しい太陽の下、雪の積もった街を歩いていた。
「すごいわね…えぇ…。」
周りには、獣人やスケルトン、その他諸々のモンスター達が歩いている。楽しく会話をする者達や、お店に並ぶ者達の姿も見える。
まさに、平和そのものだ。咲夜歌は、また昨日の興奮が戻りつつあった。どうやら、咲夜歌はこの環境に慣れるには、まだまだ先になりそうだ。
ぼー、と歩いていけば、左の方に噴水のある広場のようなところにたどり着いた。
いちばん近くにあったベンチに座ろうと思えば、既に先客がいた。喪服のような服を身に纏い、座っていてスラッとしている。
背が高く、顔は黒いシルクハットが影となって見えない。全体的に、黒い。革靴も黒い。漆黒を思わせるような黒。唯一黒じゃないところは手だ。細い手には白い手袋をしている。まるで紳士。
咲夜歌は、その紳士の顔を少し覗き込むように聞く。紳士な人には、真摯の姿勢を見せなければ。
「えぇ…と、隣、いいですか?」
すると、ほんの少しだけ顔を上げた紳士は、
「はい。どうぞ、お嬢さん。」
と爽やかな声で答えた。紳士は、隣に座るよう手で促す。
「あ、ありがとうございます。」
咲夜歌は丁寧にお辞儀をしてからベンチに座った。
まるで絵に描いたような紳士だわ。声も爽やかで、綺麗。紳士にしか出来ない事をこのひとは出来ている。
咲夜歌は、どうしても気になった。顔のことだ。
この紳士の最終審議はシルクハットの影で隠された顔である。ちょっと覗こうとした。ちょっとだ。それなのに紳士は
「私の顔はあまりひとに見せられないのです。すみません。」
と、咲夜歌の行動に気づいた。おまけに顔を見られないためか、シルクハットを片手で被り直しながら。
「あぁ、そうですか!ご、ごめんなさい。」
咲夜歌は、すぐに謝った。
…私、やっぱりこういう堅苦しいの苦手。
そう思いながら咲夜歌は紳士からは目を離し、広場中央の噴水を眺め、噴水の音を静かに聴いた。不意に、紳士の咳払いする声が聞こえた。
「お嬢さん、見かけない顔ですね?」
「え!?えぇ…まぁ。」
咲夜歌は戸惑いつつも返す。
もしかして、私と同じ、人間という種族はこの地域にはいないのかしら?
…もしくは、この世界にいないか。…なんてね。
咲夜歌は、自然に会話を繋げようと言葉を紡ぐ。
「ここに来るのは初めてで…」
「最近引っ越された、という事ですか?」
「そ、そうです…かね…。」
違う。本当は違う世界から来た。しかし、今の咲夜歌は言うべきではないと判断した。その事実を信じてもらう事なんて出来ないと思ったから。
「成程。この街にはすっかり慣れましたか?」
「ああいえ…そうでもないですかね…。」
咲夜歌はさり気なく影で見えない顔を見ようとするも、帽子を深く被りすぎていて見えない。そんなに恥ずかしがる必要があるのだろうか?それとも、何かやましいことが?咲夜歌はさらに言葉を紡ぐ。
「あ、そう、この街、とてもいいところですね!雪は降っていますし、ここの住人達も温かいひとばかりで、安心します!」
「それはそれは。」
喪服の紳士は、クスッと笑いながら相槌を打った。 そして、広場の時計を見る。釣られて咲夜歌も時計を見れば、時間は3時を過ぎようとしている頃だった。
「おっと、もうこんな時間でしたか。」
喪服の紳士は、そう言いながら立つ。咲夜歌も立ってみる。すると、かなりの身長差がある事に気づいた。咲夜歌の頭にあと頭二個分すれば届くくらい高い。
「お仕事ですか?紳士さん!」
「おや…まぁ、仕事ですね。お嬢さん。」
咲夜歌の放った紳士という言葉に、少なからず驚く紳士。説明するように人差し指を立てる。
「それと…私は紳士ではなく、執事ですよ。そのような仕事をしております。」
「そ、そうなんですか!それは、えぇ、すごいですね!」
咲夜歌は執事のことはよく知らなかったが、それでも何か重要な事をする仕事だということはわかっていた。
「それでは…いえ、その前に、」
喪服の執事は胸に手を当て、ゆっくりと深々にお辞儀をする。
「私の名はシャンザリエ・ツェルと申します。以後、お見知りおきを。」
「あ、え、はい!ツェルさんですね!私は咲夜歌です!よろしくお願いします!」
咲夜歌も慌ててお辞儀をしながら自分の名前を言う。ツェルは頷いて、北の方向に体を向かせる。
「それではサヤカ様、また何処かで。」
「あ、はい!またどこかで!」
ツェルは再びお辞儀をすると、街のどこかへと消えてしまった。咲夜歌はその黒い背をずっと見ていた。消えるまでずっと。
「カッコイイ…。」
咲夜歌は無意識に言った。口に手を当て、昨日のような興奮を押さえつける。そして、それを長い溜息に変えて吐いた。
「…最高…あとは、顔だけ!!」
咲夜歌は深く誓った。あの黒いシルクハットの影で隠れた顔を見てやると。そして、もう一度会えるように願った。
あああぁあでも実際あんな爽やかな声でさらにあんなスレンダーだったらイケメン間違いないわ!
咲夜歌は積もった雪を顔につける。
どうやら、本当に夢ではないようだわ!
咲夜歌はそこから立ち、再び街の探索をした。
*
一通り街を歩き、家に帰った咲夜歌は部屋に戻った。もちろん物置だ。椅子に座って、赤い表紙の本に何か書こうかと考えた。
せっかくだから、やっぱり日記にしてみようかしら。
そう思い、朝に見つけたお気に入りの万年筆を手に取った。ただ、思うままに今日の出来事を綴る。
とはいっても、まだ夕方だが。それでも、そう気づいても、咲夜歌の手は止まらなかった。なんだか、そういう気持ちだったから。
書いていく文章に、赤い夕日の光が当たる。咲夜歌は、窓のほうを見た。
あら、ちょうどここって、夕日が見れる部屋なのね。
そう思って、席を立つ。足は自然に窓のほうへと動いていく。窓に手のひらにつけ、夕日を眺める。木々の間に見える赤。咲夜歌は、なんだか落ち着いた気がした。
ここにも、太陽ってあるのね。
窓を開けてみれば、グラスがすでに夕食を作っているのだろうか。美味しそうな匂いが鼻を掠めた。窓を閉め、椅子に座る。
ああ、いえ、夕食の手伝いに行こうかしら?
咲夜歌は再び椅子から立つと、赤い夕日を見ながら部屋から出た。少し、昨日に似た興奮を抑えて。