旧友
自分だけの仕事場であるアトリエで、俺はいつも通り風景画を描いていた。今日のあいつ、サヤカは家にずっといるらしい。まあ、こっちに来られても邪魔なだけだし、都合がいいんだけど。ひとりで、落ち着いてこういう風に、ひとつの事に集中するのが楽しい。
そんな時、出口の方から足音が聞こえた。両耳が上がり、音を確認する。それはだんだんと大きくなっているようだ。俺は、筆を持った白い手を止め、出口の方に目を向けた。
すると、既に扉の前に黒いそいつは立っていた。俺は呆れて、脱力したように肩の力を抜く。
「…ツェル、入る時はノックしろと毎回言ってるだろ。」
「毎回失礼します、イミラ。癖なのか、いつも忘れてしまうのですよ。」
俺よりも背の高いそいつは、そう爽やかに言いながら、俺のアトリエを馴れ馴れしく歩き始める。相変わらず、黒いシルクハットを深く被って顔を見せないようにしている。それは、旧友である俺にさえ見せるのを拒んでいる。だいたい想像がつくから俺もそこには触れていないが。
「今日は何しに来たんだ?」
風景画を描く作業に戻りながらツェルにそう投げる。
「もちろん、イミラの描く風景画を貰おうと思いまして。」
「だろうな。」
こいつがここに来る時は決まってこれだ。どうやら、館に飾るんだとか。ツェルは近くにある椅子に座って俺の方へ向く。
「最近はどうですか?」
「最近…」
ツェルのが言った言葉のひとつの単語を復唱する。考えると、小さいため息を吐く。
「疲れっぱなしだ。サヤカっていう女が兄貴にずっと絡みついてきて、この前なんか、付き合おうとか言ってきたんだ。俺がなんとか静めたけど、あいつの事だから他になにか企んでる。」
「サヤカ…」
ツェルが確認するように呟く。
「サヤカとは、あの白髪で青い瞳の、ですか?」
「…知ってるのか。」
俺は少し驚いて、描くのを止めてツェルの方に振り向く。ツェルは、黒いネクタイを直す素振りをする。
「ええ、もちろんですよ。お茶をしたり、館に招いたりしましたね。」
「……。」
無駄だという事は分かっていたが、それでも俺は影になって見えないそいつの顔を見る。真っ黒で、何も見えない。そんな時、俺はとある名案を思いつく。
「そうか。なら、」
俺は風景画の絵描きを再開する。
「お前の館んところでサヤカを住まわせたらどうだ?」
「……お嬢様の館に?」
「ああ。」
その平筆を腕で動かしながら、口も動かす。
「そっちの方が広いし、金にも食にも困らない。こっちに比べればな。」
「私が見た限りだと、そちらのほうもお金や食事にも困った様子は無さそうですが?とはいえ、もとよりお嬢様がサヤカ様の転出を許すかどうかですがね。」
「なんだ、結局…そっちか。」
俺は呆れて溜息を吐く。緑を筆の先につつくようにつけると、また絵に滑らせる。
「お前がお嬢様から直々に言ったらどうだ?」
「言っても難しいでしょう。お嬢様は、サヤカ様のことをあまり良く思っていない。思っていないとしても、他人からの接触を自ら嫌うお嬢様が、サヤカ様の転出の許可を出すのは難しいでしょう。」
「…そうか。」
相槌を打ちながら、今描いている風景画を見据える。なんだか今日はいい感じに描けない。そう俺は思うと、筆やパレットを隣にあった机に静かに置く。
「…お前、早く風景画決めろよ。」
「おっと、そうでした。」
ツェルは思い出したかのように立ち上がると、比較的新しく描いた風景画を吟味しはじめた。俺はその近くまで行く。度々、ツェルはため息を吐いては、白い手袋はめた手を顎に乗せる。
「ここ来る度に絵が進化していってますね。最初の頃に比べると、色の使い方や濃淡が著しく綺麗です。色本来の味が引き立っていて、まるでそこにいるみたいですね。」
「どーも。」
「……ほら、あれなんて、」
ツェルはこのアトリエの中央に飾られた風景画を指をさしては早歩きで目指していく。その風景画は、俺でも気に入っている風景画。木々が無くなって土を露出させた鋭い山の風景画だ。静かに興奮するツェルが、終始俺の方を見ながらそれをもう一度指さす。
「異彩を放っていますよ。あれをこういうふうに描けるのはイミラの腕でなければ描けません。空にある雲が中央にある山の不気味さを、より引き立てていますね。」
「…そうか。」
いつもそこまで細かく褒められると、嬉しく感じてしまう。俺の白く丸い尻尾も小さく振られているのを感じた。
「ですが…」
唐突にツェルの声がいつものような感じに落ち着く。
「やはり、この風景画を館に飾ることはできませんね。恐れ多くて、触れることすら出来ません。」
「そんなにか。」
そう言ってくれるのは嬉しくない訳では無いが、少しイラつく。するとツェルは、はい、と肯定すると、俺の方へ近づいて来ては俺の隣に立つ。
「イミラは、対人関係を除いて、どの物事に対しても上手くこなすことが出来る。私にはそれが悔しくて仕方がありませんよ。」
「対人関係…。」
俺はその言葉を力無く呟く。ツェルは、まだ話を続ける。
「まあ、なんといいますか…簡単に言えば、羨ましいんです。」
そうはっきり放つと、ツェルは数ある風景画のうちひとつを前まで行って手に取る。
「これを頂きます。お金は扉の近くにある机に置いておきますね。」
俺は振り返って、ツェルを見据える。次に、風景画に目を移す。描かれているのは、薄明るい月に照らされた館。それを確認して、ツェルに聞こえるように言う。
「…わかった。」
聞こえたのだろう。ツェルはしっかり頷くと、魔法を使って瞬間移動をして消えた。その場から一歩も動かずに消えたが、出口付近にある机には既にお金が置かれていた。それも、予想を超えた額のお金。あいつ曰く、尊敬しているからそれくらいが当たり前なのだとか。
「……。」
俺は机まで行き、無言でそれを手に取って、着ているピンク色のパーカーのポケットに入れる。振り返って、しばらく自分のアトリエを見渡す。
……今日はもういいや。
あいつが来たり、うまく描けなかったりと、今日は一段と調子が悪かった。パレットにつけた色を落としたり、そういう身の回りのものを軽く掃除すると、俺はここから速やかにここから出ていった。