いざ、遠くへ! 後編
最南端の半島から最北端の半島、ヴァルダド半島へはるばるやってきた、兎獣人のイミラ、人間の咲夜歌、犬獣人のグラスのさんにん。
全体的に暗い街にあった病院で風景画を渡す依頼をこなしたさんにんは、ここでしか食べられないような料理を食べようとグラスが提案する。そうして、街の雰囲気に合った、暗いレストランの中へと入っていった。
地味に重い扉を開けると、程よい騒音で活気に溢れていた。モンスター達の話し声と食器同士が擦れ合う音の比率がちょうど半分くらいに思える。厨房の方から、美味しそうな匂いが微かに鼻に届いた。
モンスター達が食事をしているテーブルや、座っている椅子は、濃い赤色が基調になっている。天井から照らす光は白だ。それ以外の天井や床は、黒に近い青色だろうか。
「いらっしゃいませ。お客様の人数はさんにんでよろしいですか?」
すると、受付の方から黒いスーツに身を包んだ黒い色の人間のような姿をした背の高いモンスターが、飲食店の常套句を放った。
シルクハットをしているが、それで出来る影が原因というわけではないだろう。顔は黒く染まり、何も見えない。それは、闇に似た影であったように思えた。
グラスは、念のために、なのだろうか、振り返って人数を確認する。
「…さんにんです。」
「わかりました。ではこちらへ。」
イミラとグラスは、特に怖そうな様子は見せずその黒いモンスターに着いていく。だが咲夜歌は、この店の雰囲気、目の前の黒いモンスターに対する恐怖心を抱いていた。
まだこの異世界に馴染んでいないのだろう。そう咲夜歌でも気づいた。それでも、咲夜歌は置いてかれないように着いて行った。
「それでは、こちらにお座りください。」
案内された場所はテーブル席。壁側には咲夜歌一人、そこから対になった二つ並んだ椅子だけの所には、イミラとグラスふたりが座った。
座った咲夜歌は、どうにも何かが気になって、あの黒いモンスターの顔を見ようとする。すると、目にあたる部分が一瞬だけ赤く光った気がした。
これ以上見ても意味は無い、と咲夜歌は思い、黒いモンスターから目を離した。そうして、メニュー表を探す。
「それでは、ゆっくりとお待ちください。」
黒いモンスターはそう放って、どこかへ歩いて行った。それを横目で見て、咲夜歌は再びメニュー表を探した。しかし、何処にもない。
イミラやグラスが先に持っているのかと思い、ふたりを見るが、どちらも持っていない。
「ねえ、メニュー表が無いわ。」
「ああそれを探してたのな。」
イミラは納得するように、少し頷く。一方、その隣にいるグラスは驚く。
「た、確かに無い!どうやって注文するんだろ…。」
不安になったのか、グラスは右往左往に尻尾を動かし、慌てるように辺りを見回す。
すると咲夜歌は、隣のテーブル席に座っている、黒いパーカーを着た小柄ながらも太った影のモンスターが目に入った。顔はフードをしているうえに、横から見ているのでわからない。
メニュー表はどこにあるのか、と聞こうと思ったが、いかんせんそのモンスターは目の前の大量の料理を食べる事に一心で、声をかけられないでいた。
でも…聞かないと分からないよね…。
咲夜歌は振り返って、ふたりに視線を向ける。イミラは特に何もせず、持ってきた本を読んでいる。まるでメニュー表を探す役割は咲夜歌達にあるように。
グラスに至ってはテーブルの下を覗いて探している。多分そこには無いと思う。
ちょっと怖いけど…やるしかないわね。
この様子を見て、咲夜歌は覚悟を決める。再び黒パーカーの影モンスターに視線を向けると、小さく息を吸った。
「あの…すみません…」
控えめに発されたその言葉は、相手に全く届かなかった。その証拠に、暴飲暴食をする手のスピードが落ちない。咲夜歌の方には見向きもしない。少しだけ竦む咲夜歌は、それに負けずに相手に声をかける。
「す、すみません!」
すると、目の前にいる影モンスターの手が止まる。こちらに気づいてくれたのだろうか。咀嚼していたものを一気に飲み込む音が聞こえた。
そうして、奥の片腕をテーブルに置いて面倒くさそうに咲夜歌の方を向く。そして、フードから覗く赤い瞳と、弧を描くように口角が上がっている表情が見えた。そして、そのふたつが特に良く見え、それ以外は闇に染まり何も見えない。
「…なんだ。」
見た目通りの低く響くような声を咲夜歌に投げる。普通に見ればニタニタと笑っているように見えるが、咲夜歌の場合、状況が状況で笑っているように見えない。
「あ、あぁ…ええとぉ…」
咲夜歌は遂に怖くなって頭が真っ白になってしまう。その様子を見て、目の前の影モンスターは溜息を吐く。
「要件があるなら早く言ってくれねぇか。早く食べてぇんだ。」
「あ!あぁ!あの」
その言葉に、咲夜歌は思考を取り戻す。それでも、目の前の影モンスターに対する恐怖心は消えていなかった。咲夜歌は慎重に言葉を選ぶ。
「メニュー表、って…貸していただけますか?」
「…は?メニューひょう?」
影モンスターは首をかしげて困ったように口角をさらにあげる。大きく開く口からは閉じきった歯が見える。すると影モンスターは、何か納得したように、あ~、と唸る。
「お前さん、ここに来るのは初めてなんだな。」
影モンスターの肥えた体は、咲夜歌から大量の料理へと向く。そうして、変わらないニタニタ顔で咲夜歌を横目に見る。
「まぁ、ゆっくり待ってな。そのうち料理が来る。」
「え、来る?」
咲夜歌が聞き返すも、影モンスターは再び料理を食べ始めていた。無視されたのだろうか。もう咲夜歌の方に見向きもしなかった。咲夜歌は、体勢を立て直すとグラスとイミラのふたりに目を向ける。
「…らしいけど。」
「じゃあ待ってればいいんじゃね。わざわざ注文しなくて済むし。」
イミラは本から目を離さずに、冷静に放つ。グラスは、いささか納得できないように首を傾げる。咲夜歌も、何かと不安になって辺りを見渡した。
他のテーブル席では、仲良さそうに話しながら料理を食べる影のモンスターばかりしかいない。そしてそのテーブルには、料理が置かれている。毒々しいものや、なかには咲夜歌でも美味しそうだと思うものまで。
…とりあえず、待ってみるしかないのかしら。
少し薄れた恐怖と新たに生まれた不安に駆られながら、咲夜歌はただ待つことしかできなかった。
*
「お待たせしました。」
不意に聞こえた声に、咲夜歌達さんにんは、即座にその声の主に目を向ける。あの、受付にいたスーツの影モンスターだ。
片手に皿を持ち、何やらふたつのイチゴが乗った一切れのショートケーキとフォークが乗っている。もう片手に、ふたつの料理が見える。
「慈悲の兆しの先に現る、特異点の赤。ショートケーキでございます。」
スーツ影モンスターは、そう洒落た言葉を紡ぐとイミラの前にそれを置いた。イミラは、眉をひそめるようにそれを見つめると、影モンスターに一言。
「俺は甘いものは嫌いなんだが。」
そうクレームをつけるも、影モンスターは動じずに片手にある料理を、もう片方の手で持つ。持っている料理は、小さな旗が刺されたハンバーグが一つ。
脇役に人参、とうもろこしなどの野菜が置かれている。影モンスターは少し前のめりになって、
「永劫なる無垢は、手を出した瞬間に切り刻まれる。ハンバーグでございます。」
またそう放って、今度はグラスの前へハンバーグを置いた。その瞬間、グラスの目が輝く。
「やったぁ!ハンバーグ大好き!」
この順番であれば、最後は咲夜歌だ。緊張した面持ちで咲夜歌は影モンスターを見る。最後の料理は、皿の中央にハート型のご飯が置かれ、その周りに水色の少しドロドロとしたスープがまかれている。その中にも、具材らしきものが入っている。
「憑かれ疲れて果ての先、有るのは有限だけ。カレーでございます。」
「カレー!?」
咲夜歌の前に、それは置かれる。
この水色のが…カレー?
言われてみれば、使っている具材がカレーそのものだ。じゃがいも、にんじん、玉ねぎなど、カレーによく見る具がそこに入っている。
「それでは、ごゆっくり。」
影モンスターは深々とお辞儀をすると、ここから去って行った。イミラは嫌そうに目の前のケーキを見ている。グラスは、既にナイフとフォーク持ってどこから切ろうか、とハンバーグを見ている。咲夜歌も、気は進まずにいたが、とりあえず手にスプーンは持った。
「水色のカレーとか見たことないんだけど…。」
そう呟きながら、咲夜歌はカレーにスプーンを滑らせる。
「……。」
イミラは、ケーキに乗っているふたつのイチゴのうちひとつを、フォークに刺してじっと見つめた。
「わああぁ!」
グラスは、ハンバーグの中にケチャップがある事に感動の声を漏らす。ひと口サイズに切り分け、それをフォークで刺す。肉汁が、これでもかというほど出てくる。そうして、それをグラスは自分の口の中へ運んでいった。
「お、美味しい!!」
グラスは、尻尾を千切れんばかりに振りながら嬉しそうに片手をあげる。
まあ…ハンバーグはね?
そう思いながら、咲夜歌はスプーンから汲み取った異色のカレーを見つめる。匂いにおいてはカレーなのだが、見た目がよろしくない。それでも、咲夜歌はスプーンを口の前へ持っていく。意を決して、口の中へ。
「……!」
目を見開いてカレーを見つめる。
すっごい美味しい!これ!
自分の口には合わないんじゃないか、そう咲夜歌は思っていたが、そんな考えを握り潰すくらいの美味しさであった。今度は、ご飯と一緒に食べてみる。
「……。」
美味しいじゃないのこれ!
声には出さなかったが、心では絶賛の声をカレーに浴びせていた。味は普通のカレーであったが、スパイスがとても効く。咲夜歌は、辛いものは意外と食べられるようだ。
そんなふたりの様子を見ていたイミラも、少しばかり心が動いたのだろうか、フォークで刺していたイチゴを嫌そうに口の中へ運んでいく。半分くらいに齧って、ゆっくり噛んだ。
「……。」
表情を変えず、もう半分も食べる。そうして、一つため息をついた。
「まあ、苺だしな。」
ここまでは想定内だったのだろうか。フォークに付いたイチゴの汁を見ながら呟く。次に、ケーキへと視線を移す。フォークを横にして、ケーキをひと口サイズに分ける。刺して、またゆっくり口に入れた。
「……。」
たちまち、頭を抱えるように片手で頬杖をつく。
「美味いなこれ…。」
微妙に笑いながら誰にも聞こえないような声で、そう呟いた。
*
「あああぁぁー。美味しかったぁー!」
あのカレーを食べきった咲夜歌が、天を仰ぎながら額に滴る汗を制服の袖で拭う。
「うん!とても美味しかった!」
グラスも、満足気に咲夜歌の言葉に同意する。イミラは今持っているお金を確認している。咲夜歌は、それを見た。
「ねえ!お金は足りるかしら?」
「さあな。」
ぶっきらぼうにイミラは放った。その隣にいるグラスは不安気にイミラを見る。
「すごく美味しかったから、お金足りなかったらどうしようか?」
「……さあな。」
さっきよりも小さく放った。咲夜歌は溜息をつきたくなる思いで、両手で頬杖をつく。このさんにんが静かになり、咲夜歌の耳に隣から聞こえる咀嚼音が良く聞こえてしまった。何気なく、隣のテーブル席を見る。
…まだ食べてる。
咲夜歌がさっき話しかけた、あの小柄で太っている影モンスターは、まだ料理を食べていた。
料理の数は減っていたが、食べる速度は変わらず早く、まるで時間が巻き戻ったような感覚に陥りそうになる。咲夜歌はグラスとイミラの方を向いて、
「とりあえず、もう行きましょう。お金の事は会計に行ってからでもいいんじゃない?」
と立つように促した。
「…そうだな。」
まだお金の確認をしているイミラは、渋々立ち上がってパーカーのポケットに入れる。グラスも咲夜歌も立ち上がって、イミラに着いていく。
イミラが会計を済ましている。どうやらお金は、帰りの交通費も含めて足りそうである。それがわかったさんにんは、不安が抜けた。
「じゃ、帰るぞ。」
店を出て、早々にイミラはふたりに言った。グラスは、満足そうに笑顔になっている。
「美味しかったぁ!また行きたいね!」
「ええ!」
グラスの言葉に咲夜歌は同意する。そうして、グラスの片腕に巻き付くように腕を絡ませる。
「グラスちゃん。今度、ふたりで一緒に、どう?」
グラスは、戸惑ったように咲夜歌を見る。
「え…でも…できればイミラとも一緒に行きたいなあ。」
「えぇ~?なんでよ?」
「おい。」
不意に、イミラが咲夜歌を睨みながら近づき、普段よりいっそう低い声を出す。
「兄貴にベタベタくっつくんじゃねえこの野郎が。」
一つ一つに怒りを込めて咲夜歌に放つ。半目が鋭くなり、その赤い瞳で見据えている。
「…はいはい。」
咲夜歌は少しだけ眉を顰めるとすぐ笑顔になって、特に反省する様子もなく、グラスの腕から離れる。イミラは舌打ちして、帰りのバスに乗るための停留所に足を早々に進める。
そこで、咲夜歌は真剣な顔になって、イミラに注意される度に思っていた事を問いかける。
「ねえ、どうしていつもさ、そんなにグラスちゃんを気にするの?」
イミラは歩きながらも振り向いて咲夜歌に耳を傾ける。咲夜歌はまた口を開く。
「私がいけないの?こんな性格なのが?」
「……。」
イミラは黙って、咲夜歌を見ている。さっきと変わらない目付きで。たちまち、イミラは息を少し吸った。
「そうだ。頼むからその性格を直してくれ。普通にしていろ。」
そう放って、前を向いた。咲夜歌は、なにか考えるように少し俯く。
「…今更性格なんて直せたら、苦労してないわよ。」
咲夜歌も、自分自身についてよく分かっていた。よく分かっていたからこそ、それを直すことは容易ではなかった。これでも、最初に会った時より抑制している方なのだ。
許されるならば、今すぐにでもグラスをもふもふと触りたいと思っている。だが咲夜歌は、理性に似た別の何かが、一本の線から超えないよう抑えてくれている。
「気にする事はないよ!サヤカ!」
グラスの明るい声に、咲夜歌はグラスの顔を見る。明るい緑色の瞳が、目に入るとともに、グラスは咲夜歌に勢いよく抱きつく。
「イミラはさ、繊細だし、そういうところがあるから…わかってほしいんだ!」
「…。」
グラスの普段より強みがあるような声に、少し紅潮して目を見開いた咲夜歌は、少しずつ自信が増していく。
「……ありがとう。」
思わず微笑んだ。その様子を見たグラスも、尻尾を振って、にっ、と笑う。立ち止まって見ていたイミラは、イミラの瞳は、相変わらず冷たかった。ただ、そこに少しだけ、同情が浮かんでいた気がした。
*
「あああぁ!帰ってきたわぁー!」
家に帰ってきたさんにん。家の外は既に暗い。グラスは電気をつける。咲夜歌は疲れきって、真っ先にソファに倒れ込むように勢いよく座る。最北端のヴァルダド半島から最南端の半島にある家へと帰ってきた来たのだ。
行った時間も含め、約二日に及ぶ旅であった。咲夜歌の視界に、目の前にある暖炉が入る。
「あ、火。」
薪はまだある。咲夜歌はテーブルの近くにいたイミラに聞こえるように言う。
「イミラちゃーん、暖炉に火ぃつけてー。」
「………。」
ボッ
イミラは、嫌そうに眉をひそめながらも暖炉に魔法で火をつけた。ソファから降りた咲夜歌は、ありがとー、と感謝の言葉を忘れず伝えると、少しでも温かくなろうと思い暖炉の前で胡座をかく。グラスは二階へ上がっていく最中、
「イミラー、先にシャワー浴びてていいよー。」
とイミラに放つと、二階の自室へと向かった。咲夜歌もしばらくは温まりたいと思って、
「私もあとに入るわ。」
とイミラに投げる。イミラは、持っていたお金を財布に入れると、テーブルに置く。
「……わかった。」
咲夜歌に言葉を返すと、服を取ってくるのだろう、二階の自室に足を進めた。咲夜歌は、うとうとと眠そうに体を前のめりに何回も動かす。
それでも、シャワーを浴びることを忘れないように、眠らないように目を開けてパチパチと鳴る暖炉の炎を見ていた。
*
シャワーを浴びてきた咲夜歌は、パジャマに着替え、肩までおろした白髪をドライヤーで乾かしてから先程のリビングまで戻ってきた。既にシャワーを終えたイミラとグラスがいる。
イミラはいつものようにソファに座って本を、グラスは湯気のたつココアをスプーンで掻き回しながら、おかえり!、と咲夜歌を迎える。
「うん。ただいま。」
笑顔で返事をすれば、グラスも嬉しそうに尻尾を振る。
私もココアを作ろうかしら。
そう思った咲夜歌は、ふとイミラに視界に映る。相変わらず、その半目の赤い瞳で本を読んでいる。ここで、咲夜歌はとある疑問が頭をよぎった。
「ねえ、イミラちゃん。…もしかして一昨日から今までずっと起きてたの?」
「…。」
イミラは瞳だけ咲夜歌を向いた。そしてすぐ本に戻す。たちまち、今度は体を咲夜歌に向けた。
「そうだが、それがどうしたんだ。」
「だって…寝てないじゃないの!」
咲夜歌はイミラに近付きながら放った。グラスはその事実に驚いて、イミラを見やる。
「早く寝た方がいいわよ…。」
心痛な眼差しで咲夜歌はイミラを見る。一方、イミラは面倒くさそうに再び本に目を向ける。
「…こういうのは慣れてる。」
「そういう問題じゃないでしょう?」
イミラの前で咲夜歌は強めて放つ。
「…お願いだから、寝て。…体を大切にして。」
強めて言った事を反省したのか、次は少し抑えて言う。グラスも、椅子から立ち上がる。
「そうだよ、イミラ。ちゃんと寝たほうが……」
「……。」
ふたりから、そう念を押されてイミラは本から目を離して床を見る。無言でいるさんにん。暖炉の炎の音が嫌でも耳によく入る。するとイミラは本を閉じ、深いため息にも似た深呼吸をして、諦めたようにソファから立ち上がる。
「わかったよ。寝ればいいんだろ?」
「…ええ。」
二階の自室へ足を運ぶイミラに、咲夜歌は振り向いて視界に入れる。グラスはイミラに心配する眼差しで見る。
「ちゃんとぐっすり寝てね…。」
「…ああ。わかってる。」
階段で足を止め、半ば振り向いてグラスへ返した。再び歩き出すと、自室に入っていく音が聞こえた。その扉の閉めた音がやけに響くのは、またもや無音に支配されていたからだろう。
咲夜歌は、イミラが入っていった自室に、まだ目を向けて離そうとしない。すると、グラスが咲夜歌へ、まだ湯気のたっているココアを持ってくる。
「ココア…飲む?」
咲夜歌は自室からグラスへと目を向けた。少し場違いな発言をするグラスに、クスッと微笑むと、首を振る。
「んーん、いらない。それ、グラスちゃんのでしょ?」
「え…ぅ…。」
図星だろう。顔が少し俯くと同時に、とんがった耳も垂れ、尻尾も元気を無くしたように垂れ下がる。咲夜歌は、まだ微笑んで、その群青色をした瞳でグラスの顔を覗く。
「大丈夫。飲んでもいいわよ。」
和やかに言っても、変わらずグラスは俯いたまま。咲夜歌はちょっとした溜息を吐くと、グラスの頭を優しく撫でる。
「もう、大丈夫だって!飲みたかったら自分で作るし。」
「……うん。」
そうグラスは返事をすると、尻尾だけは少し振られる。まだなにか言いたげな目で咲夜歌を見ていたが、やがて椅子へ戻っていって、座った。咲夜歌は、それを見届けると、咲夜歌の自室である二階の物置に行こうと階段を上る。
その途中、振り向いてグラスを見やる。努めて明るく笑顔で、手を小さく振りながら、
「おやすみ!グラスちゃん!」
と放った。
「…うん!おやすみ!」
グラスも、いつものような明るい声で返してくれた。ただ、いつも振っている尻尾は振っていなかった。咲夜歌は、自室へと足を進めた。
*
俺は、ベッドに座りながら、さっきサヤカに言われた事を思い返す。
『…お願いだから、寝て。…体を大切にして。』
「体を大切に…ねぇ。」
自分に言い聞かせるように、言葉の一部を復唱する。もしかしたら、俺は少しあいつの事を見直したかもしれない。たったこの一言で、なんて思うが、あんな一面があるとは思わなかった。
今までは、兄貴にベタベタくっついてはちゃん付けして、挙句の果てにはヴァルダドで食事のお誘いをする、うるさいヤツだと思っていた。
いざとなれば、いつでもあいつを…あいつを殺すことだって出来る。でも、それは出来なかった。…まあ、もとより殺す気なんて無いが。
兄貴が悲しんだり、俺の事を信用しなくなってしまう、というのも一つの理由ではある。ただ、俺は、あいつを殺す権利などなかった。
魔法で電気を消し、ベッドに寝転がる。
ああ、もう。もう寝よう。
寝る気など微塵もなかったが、兄貴とサヤカに言われてベッドに寝転がれば、皮肉にも、意外と眠気に誘われる。カーテンの隙間から、月かなにかの光が床に伸びてこっちに差し込んでいる。しかし、まだそれは俺の方にまで届かない。
眠気に誘われるがまま、俺は目を瞑った。