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ラーガル古物店

時計と硝子

作者: 津村基樹

シリーズ二作目になります。この話単体でも読めますが、前作を先に読んでいただいた方がわかりやすいかと思います。


また、「大嘘度」とでもいうべきものが前作よりも更に上がっております。例によって時代背景と、それから専門知識については無視してください。

 クーはこっそりと欠伸をした。日差しの穏やかな午後なら、眠くなってしまうのも仕方がない。


『専門じゃないですか』

『そりゃ、金貨偽造だとか、いつかの曲探しだとかに比べればな』


 その会話が交わされたのは、昨晩のことだった。


『期間が全然ないんだよ』

『どのくらいですか』

『三週間』

 クーは唖然とした。

『それは……非常識ですね』

『そんなわけで、俺は篭る。店のことは任せたぞ』

『え、でも、買い取りとかは』

師匠でありこの「ラーガル古物店」の店主でもある彼が鑑定をしないで、どうやって取引をしろというのか。

『任せる。そろそろお前も目利きぐらいできるだろ。どうしてもわからないなら、仕方ない、引き取ってもらえ』


 そういうわけで、クーは今日は朝から一人でここに座っているのだ。いざというときにレンツの力を借りられないという他は、いつもと変わらない、ともいえる。

 客は一人だけだ。さっきまで店の中を歩き回りながら品物を見回していた客は、今はひとつの棚を覗き込んでいる。

 その客が急に振り向いたので、クーは慌てて欠伸をしまった。

「少年、少年」

「はいはい、なんでしょう」

「少年が、なにかな、この店の主なのかな」

 思わず噴き出しかけた。どこの世界に、こんな子供が営む店があるものか。

「いえ、店主のラーガルは今、修理の依頼があって奥に。ご用件がありましたら伝えますが」

「そうかね。少年、名前は?」

「クーといいます」

「よろしく、クー君」

 そう言って、彼は手を差し出した。変な人だ。

「はあ、よろしくお願いします」

 店番としてはあまり褒められない返事をして、クーはその白い手袋をはめた左手を握る。

「それじゃあ、クー君、ひとつ伝えてもらいたいんだがね」

「なんでしょう」

「うむ」

 クーが答えると、客はおもむろに、それまで見ていた品物を指差した。


「偽物だよ、これ」


    ***


「偽物?」

 その日の夕食の席、レンツハルトは、弟子の言葉に片眉を上げた。当の弟子の方では、何も考えていない様子で葡萄酒に手を伸ばしている。まだ仕事のあるレンツハルトは酒を飲めない。

「って言ってました。あれです、あの、硝子(ガラス)の飴入れ」

「……ああ、あれか」

 随分前に入れた品物だ。小さめの花瓶ほどの大きさで、その複雑な形状や鮮やかな彩色は、人々がキルカシアンガラスに求める条件を確かに満たしていたように思ったが……。

「でも、偽物だと?」

「ということでした」

「やっぱり専門外のものに手を出すべきじゃなかったか」

 レンツハルトは、自分を慎重な人間だと思っている。その彼が専門でないガラスの買い取りに応じたのは、それなりの自信があったからだ。来歴が明確であり、鑑定の基準にも外れるところはなかった。更には保証書まである――これを疑う者はいないだろう。

「けど、そういや、印はついてなかったな」

「駄目じゃないですか」

「いやいや、自分の作品に印を設ける職人ってのはそんなに多くないんだ。そもそも保証書なんてもん自体、普及してきたのは最近だしな」


 工房は自分の技術を秘するものだが、その技術の専有が公に認められるようになったのはそう昔のことではない。その普及の理由には、ひとつには統治形態の変化による流通の容易化――技術の流出の容易化がある。大した資源もなく、交易を除いてはガラス作りがそのほとんど唯一の産業だったアルテーンにとって、他の都市への技術の流出というのは致命的ともいえる問題だった。

 更に、ここに魔法の存在が加わる。スティペンディアムの魔導士たちが編み出した複製の魔法は、高度ではあるが陣さえあれば誰にでも行使できるものだ。それが魔導というものである。これを防ぐために、正式な機関が製造したことを証明する保証書を組み合わせた偽造防止の方法が考案された。もとは魔導式の発明を保護するために発案された特許制度が、今では魔法による功績を妨げるものとして使われているわけである。


「それで、お前はどうするつもりだ」

「どうするって……ぼくですか?」

「そうだろ。店のことは任せると言ったはずだ」

「……とりあえず、明日は休日ですから、あれを持ち込んだ人の家に行ってみようと思ってます」

 レンツハルトは頷いた。

「それがいいだろうな。それから、当然キルカスへも行くんだぞ」

「やっぱりですか。うわ、街の反対側だな」

「行かんわけにはいかんだろう」

「一日仕事になりますよ。どこかで泊まってきてもいいですか?」

 そんなわけはない。

「一日で済む仕事なら一日で終わらせろ」

「むー」

 唸るクーに、彼はふと思い出したことを尋ねた。

「そうだ、お前、名前は聞いたんだろうな?」

「名前?」

「そのお客様の名前だよ。そんなことがあったなら、相手が何者か訊くのが普通だろうが」

「……」

 クーが、ぴたりと食事の手を止めた。

「……」

「……」

「……」

「すみません……」

「……まあ、いい。それと、ついでに頼みたいことがあるんだよ」

 そう言って、レンツハルトは立ち上がると、部屋の隅の小さな机に手を伸ばした。机には上にも下にも資料が積まれ、かろうじて書きものができる場所しか残っていない。

 机から一通の手紙を取り、クーに手渡す。

「なんですか、これ。えーと、『グスターフ通り51番地』……『フランク・イディオト様』? ああ、例の時計の」

 今レンツハルトが請け負っている仕事の依頼人だ。この店の先代の以前の生業ということで、時計修理は彼の専門ではあるのだが、いかんせん日が足りないというのは昨日クーに話した通りである。そのことに対する、この手紙はまあ文句のようなものだ。

「キルカスへ行く途中ででも届けてきてくれ」

「グスターフ通り、って、全然方向が違うじゃないですか」

「……宿とっていいぞ」

 やった、と小さく拳を作ったクーは、何か思いついたように顔を上げた。

「そういえば、どんなものなんですか、その時計」

「どうって、物自体は普通の時計だぞ」

「そうですか。いや、この店に持ち込まれるくらいだから、なにか理由があるのかと思って」

 彼は首を振った。

「そんなことはない。なんでも閉鎖した工房から競り落としたってことで、修理してくれる所がないんだと」

「あー、彼ならありそうな話ですね」

「知ってんのか?」

 依頼を受けたときの話だと、イディオトというその依頼人は、どうもやたらとあちこちの競売に参加しているらしい。だからといって彼がいわゆる「目」を持っているのかといえば、そういうこともなさそうだったが。

「その筋じゃ有名な話ですよ、イディオトの横好きは。とにかくいろんなものを集めては専用の倉庫に飾っているとか」

「どうも気に食わんな、そういうのは」

「でも、実際コレクションは凄いらしいですよ。あの『ノーアトゥーン』を作るときなんて、製作者が参考に見にきたってくらいですし」

 弟子の言葉に頷きながら、レンツハルトは眉をひそめる。


「『その筋』ってどの筋だ」


「ああ、そのことですか」

 クーは済まして答えた。

「お菓子会社の筋ですよ」

「は?」


 フランク・イディオトは、輸入菓子の販売店を経営しているのである。


    ***


「26番地、バーリ……ここだな」

 番地札と表札を確認し、クーは戸を叩いた。近場で助かった。まあ、だからこそクーたちの店にお呼びがかかったのだろうが。しばらくして、中から中年の男が顔を出す。

「こんにちは、ラーガル古物店から来ました、クーと申します」

「ああ、あのガラスのときの」

 どうやら、相手は自分たちのことを覚えているらしかった。

「どう、あれ売れた?」

「いえ、今日はそのことで、お訊きしたいことがありまして」

「はあ。まあ、どうぞ」

 クーを通しながら、バーリは苦笑した。

「見ての通りやもめなもんで、散らかってるけど」


 例のキルカシアンガラスをラーガル古物店に売ったとき、彼はそれを母親の遺品だと言っていた。それまで彼は老いた母親を支えて暮らしていたということだったから、それから結婚などしていないなら、今は確かに独り暮らしのはずだ。


「それで、訊きたいことってのは?」

 クーは考え込んだ。まさか、あの品物に偽物の疑惑が浮上して、事の真相を調べるために来た、などとは言えない。

「ええと、……あれを気になっている人がいまして、そのお客様のために、来歴を伺いたいと思ったものですから」

 嘘は言っていない。

「来歴といっても、最初に話した通りだけど」

「はい、お母様がお友達から結婚祝いとして貰ったんですよね。よろしければ、そのお友達のことを教えていただけませんか」

 品物が確かだった(と思われた)ので、古物店が品物を買い取ったときには、そこまで聞く必要はないとレンツが判断したのだ。

「確か、ヴァン、とかいったかな。よくは知らないんだ。お袋の葬式には来たと思うけど、それより前にはあんまり付き合いはなかったからね。この家に来たのもあのガラスを貰ったときぐらいで……お袋は何度か会ってたみたいだけど」

「どんな仕事をしていた、とか」

 彼は首を捻った。

「聞いた話じゃ、元はストルフィクティブの職人だったんじゃなかったかな」

「ストルフィクティブの?」

「うん。でも、詳しくは知らないが向こうじゃ食べていけなくなって、故郷であるアルテーンに戻ってきたらしい。お袋の貧乏仲間だよ」

「貧乏仲間、ですか」

「昔は仲がよかったらしくてね――息子の僕が言うのもなんだけど」

 男女の『仲がよかった』だ。しかし、その後ヴァンはストルフィクティブへ行き、バーリの母親は結婚して彼を産んだ。


「ああ、そうか」

「どうかしたかい?」

「いえ、確か、贈られたのはだいたい二十年前ということでしたよね。結婚祝いなら年が合わないな、と思っていたのですが……」

 二十年前なら、彼の両親が結婚してからも二十年が経っていることになる。が、当時ヴァンがアルテーンにいなかったということなら話はわかる。

「そうだね、この街に戻ってきてからお袋が結婚したことを知って、それであのガラスを贈ったんだろう」

 大方そんなところだろう。まあ、ヴァン本人に話を聞けばわかることだ。

「今はアルテーンに住んでいるんですよね。住所を教えていただけますか?」

 意外なことに、バーリは首を振った。

「教えるのはいいけど、意味ないと思うよ」

「どうしてですか」


「もう死んでる」


 クーは唖然とした。

「ほんの数日前のことだよ。残念だけど」


 考えてみれば、当たり前のことだ。彼の母親の友人なら――そしてその母親がもう死んでいるのなら――その人も死んでいておかしくないのだ。


    ***


 レンツハルトの目の前には、裏蓋を外された時計が横たわっている。部品は順に取り外され、所定の器に入れられていく。

 機構(ムーブメント)を開いたときにまず目を引いたのは、全体に広がる細かな傷だ。香箱から小さな歯車に至るまで、噛み合わせの部分が削れてしまっている。裏蓋にも文字にかかる位置に大きな傷があるところを見ると、機構外部に接している脱進機かどこかが外れ、蓋に擦れて出た金属粉が全体に散らばったのだろう。機械油と混じり合った粉は研磨剤の役割を果たし、部品を削る。


 そして――


(左手式、か)

 片目に挟んだ虫眼鏡を外し、レンツハルトは詰めていた息を吐き出した。


 かつて、ストルフィクティブに二つの有名な時計工房があった。歴史あるオーケルマン社に対し、新鋭のセルベル社。競い合う二工房の優劣を決したのは、セルベル社が三十年近く前に開発したある機構だった。

 時計の竜頭を捻ったとき、巻かれるゼンマイは香箱と呼ばれる容れ物に収まっている。側面に歯のついたこの円盤形の箱の回転は、二番車、三番車、四番車と順にいくつかの歯車を伝わり、最終的に(ガン)()車という形の特殊な歯車まで届けられる。

 ガンギ車は二本の腕を持つ小さなアンクルという部品に回転を制御されている。アンクルに――正確にいえば、アンクルに繋がったテンプに断続的に回転を許されることで、ゼンマイに由来する速さの一定しない回転は(もちろん、ゼンマイは解けはじめは速く、後は遅くなるものだ)、時計の針を動かすに足る一定した回転となる。ガンギ車、アンクル、テンプから成るこの時計の心臓部は、脱進機と呼ばれている。セルベル社の発明は、この脱進機に関わるものだった。

 脱進機にもゼンマイが使われている。テンプに属するこのヒゲゼンマイは、髪の毛より細く、香箱車の中のゼンマイよりも更に繊細なものだ。当然、変形しやすい。セルベル社の新しいゼンマイは、テンプにかかる負荷を小さくし、その働きを一定にすることで、時計の精度を飛躍的に向上させた。伝達途中で回転の向きが逆転し、従来の構造ではゼンマイを巻くのに左手を使わなければならなくなってしまうところから、この機構を左手(デン・ヴァンストラ)式ゼンマイと呼ぶ。

 セルベル社はこの発明の特許を王に願い出、これを認められた。その性能は素晴らしく、長年の競争においてセルベル社を勝利に導くに十分だった。なまじ競り合っていたことが災いしたか、敗北したオーケルマン社は倒産し、セルベル社は王都随一の時計工房の地位を確立したのだった。

 その後、時計技術の発展と共に、回転の修正のために機構内で大きく場所を取る左手式は次第に使われなくなっていったが、セルベル社やその後のいくつかの工房の少し古い懐中時計になら、今でも稀に見ることができる。


 ところがこの時計はオーケルマン社のものなのだ。


 イディオトが参加した競売の出品者はオーケルマン社の跡継ぎだったというし、いくつかの部品には工房の刻印があるからこれは間違いない。すると、これは競争相手の研究のために試作されたものだろうか。作るだけなら訴えられることもないし、文字盤などの装丁を見れば販売用のものでなかったことは明らかだ。


 手元が暗くなっていることに気づき、レンツハルトは顔を上げた。凝った背中を伸ばし、オイルランプに灯を入れる。

「おい、クー……」

 名前を呼びかけて、思い出して舌打ちする。今夜はクーはいないのだ。ということは、夕食の準備は彼が自分でしなければならない。

 溜め息をついて、彼は立ち上がった。どのみちなにも食べないわけにはいかない。雑用から解放された弟子は、今頃どこぞの安宿でぬくぬくとしているだろうか。


    ***


 街の東、港湾部の宿でぬくぬくと一晩を過ごしたクーは、キルカス島行きの船が出る波止場に来ていた。夏の朝の海は穏やかで、気持ちがいい。船は夜にはなくなるから、帰りのことを考えれば朝の方がいいと考えたのだ。


 古い都市国家時代、致命的な知識の流出を防ぐために、アルテーンのガラス職人たちは皆このキルカス島に強制的に集められた。逃亡者は死刑という当時の法律はもう残ってはいないが、キルカスのガラス職人(グロスブロッサーレ)通りには今でも工房が軒を連ねている。


「さて、と」

 島に渡ったはいいものの、これからどうしたものか。レンツや自分にガラス職人への伝手はない。そもそもラーガル古物店はキルカスとよりもオペンヘットとの方が縁があるくらいなのだ(オペンヘットは板ガラスの生産で有名な地方)。

 当たりをつけて、一番大きな建物に飛び込む。キルカスにも組合はあるから、その本部へ行けば、繋ぎは取れるはず。原料や燃料の入荷から製品の販売までを取り仕切るアルテーンのガラス職人組合は、キルカスを丸ごと支配しているといっても過言ではない。その目論見はどうやら報われ、中にいた組員にクーはひとつの工房を教えられた。


「あのー」

「考えながら息を吹くんじゃねえって言ったろ! どう吹いたらどんな形になるか、それを頭を使わなくてもわかるようになるんだよ」

「すみませーん」

「レース・ガラスでも同じだ。ガラスがお前らの思い通りに振るまってくれると思うな。一瞬の……」

「あの!」

 教えられた工房で、いきなり大声を出したクーに、何人分もの職人たちの視線が集中する。

「どうした?」

 訊いてきたのが、近くにいた親しそうな職人だったことに、とりあえずクーはほっとした。もっとも、たとえそれが奥の見るからに厳しそうな人間だったとしても、クーは怖じ気づいたりはしなかっただろうが。

「ラーガル古物店から来ました、クーといいます。この品物の鑑定を依頼に組合の方を伺ったら、鑑定員が不在ということで、こちらの工房へ行くよう言われました」

「うちの工房に?」

 首を捻ったその職人は、振り返って後ろに呼びかけた。

「親方ぁー」

「聞こえた」

 『見るからに厳しそうな』職人が答える。してみると、この人がこの工房の親方ということなのだろう。組合に参加することができるのは親方だけで、親方に推薦された弟子だけが組合から新たに親方となることを認められ、自分の工房を開くことを許される。

「鑑定だ?」

「はい、この品物の……」

「聞こえたっつったろ。来な、坊主」

 そう言うと、彼は厚い手袋を外しながら、クーを炉の熱気の届かない奥まった場所まで連れて言った。

「見せてみろ」

「あ、はい」

 抱えていた木箱を近くの台に置き、中から件の飴入れを出す。

 ちらりとそちらに目をやって、親方はすぐにふんと鼻から息を吐き出した。

「偽物だな」

「え、早っ」

「というか、キルカスが認めた正式なものじゃねえな。なるほど、うちに回されるわけだ」

 親方が指差した一点を、クーは見つめた。複雑に波打つ赤い器を琺瑯の装飾が彩っている。

「わかるか、ここ? エナメルの一種なんだがな、この技法は許可されてねえ」

「どういうことですか?」

「もう随分と前にうちの工房で発明された方法なんだ。けど、再現できる奴が少なくてな」

 組合の本質は均一化だ。突出した才能、もしくは技術は、組合の存在理念にはそぐわない。新しい知識は必ず組合の中で共有され、その下の全ての工房が恩恵に与る。逆にいえば、全ての工房で使えるわけではない技術はどの工房でも使うことを許されないということだ。


「どこの炉でも作れるようになるまでってことで、脇によけられてそのまんまだ。だから、これはキルカスのガラス職人組合を通したもんじゃねえ。つまり、偽物だ」

 親方は、職人らしいよく火に炙られた手で飴入れを持ち上げた。蓋を取り、日に透かす。

「それと、厚すぎるな。この色のガラスならもっと薄くできるはずだ」

「作りが下手、ってことですか」

「まだ未熟だ」

 いくつかの説明をクーに与えて、それから彼は溜息をついた。

「偽物を作ろうなんて輩だ、自信はあるんだろうがな。腕はうちの弟子どもよりいいぐらいだよ」


 なんにせよ、用事は済んだ。礼を言って工房を出て、街へ戻る船に揺られている間、クーはあることをずっと考えていた。工房の親方に聞いた、例のエナメル技法が発明された時期。この飴入れがヴァンによってバーリの母親に贈られた時期とおおよそ一致する。それがどうにも気にかかる。

 船を降りる。やれやれ、まだ店に帰るわけにはいかない――


「やあ、少年」


 クーの思考は、聞き覚えのある声によって遮られた。辺りを見回すと、声の主がにこやかにこちらに合図を向けている。

「奇遇じゃないか、こんなところで」

店を訪れた変わった客。ガラスが偽物だと指摘した、あの男だった。


    ***


「おいしいです、このケーキ」

「そうでしょうそうでしょう。自慢じゃないが、あたしはケーキを焼くのには自信があるんだ」

 クーの賞賛に、大家は嬉しそうに答えた。

「うむ、なるほどご婦人、確かにこれは絶品だ」

 なぜかついてきた男が言う。


 船を降りたあと、クーは残ったある疑問を解くために、当初の予定通りヴァンの家を訪ねることにした。身寄りがなかったことは想定外だったが、住んでいたのが貸家だったのは幸運だった。独り身だったならそもそも戸建てに住むことはないのだろうが、そういうわけでクーは部屋を貸していた大家に話を聞くことができたのだ。

 なぜか、船着場で再開した彼もついてきた。

 大家が気さくな女性だったことも幸いした。たったひとりの下宿人がいなくなってしまって寂しさを感じていたという彼女は、クーの訪問を快く受け入れてくれたばかりか、クーたち二人にケーキまでご馳走してくれた(あくまでクーはありがたくいただいただけだ――他人の家で茶菓子をねだるなど、レンツに知られれば説教は免れえない)。ただ、もうひとつ誤算があったとすれば、それは彼女がここまで話好きだとは思わなかったことだろうか。


「今は離れて暮らしてるけどね、うちの息子たちもこれが好きだったんだよ。下の子なんかもう――」

 途中で遮るわけにもいかず、クーは適当に相槌を打ちながら聞いていた。隣の彼も口を挟む気配はない。

「……だから、あたしなんかはプラムは絶対に必要だと思うんだけどね、ヴァンさんはプラムは嫌いだって言って入ってたら食べないんだよ。ほんとにプラムが嫌いな人がこの世の中にいるなんてあたしには想像もできなかったんだけど、ねえ。あんたはどうだい?」

「ぼくですか? 好きですよ、プラム」

「やっぱりそうだよねえ」

「それで、そのヴァンさんのことなんですけど」

 ここぞとばかりに、クーは本題に入ることにした。彼女の方でもクーたちの目的を思い出したらしい。

「そうだったね。で、どんなことを聞きたいんだい?」


 気になったのは、飴入れが贈られた時期だ。キルカスのガラス工房で新しい技法が開発され、それがなんらかの事情で流出し、アルテーンの外で確立され(なぜなら組合の下にない工房がアルテーンで活動できるわけはないから)、そうしてできた作品のひとつがヴァン、そしてバーリの母親の手に渡った――これならわかる。しかし、もしそうなら、飴入れが贈られたのは技法が開発された時期よりずっと後になるはずだ。ふたつの時期が一致したのは、あの親方の工房で作られたガラスを直接ヴァンに渡した人物がいるからに他ならない、はず。

 その人物がどこでヴァンに接触したのか。今となっては必要のない(・・・・・)問いではあるが、まあ訊いておいて損はない。


「ヴァンさんが……そうだな、ここに越してきてからは、どこで働いていたんでしょうか」

 やはり、一番可能性があるのは、仕事先で知り合った誰かに紹介されることではないだろうか。手についたケーキ屑を払いながら、クーは尋ねた。

「ああ、それなら、図書館だよ」

「図書館って、あの?」

「『あの』以外にどの図書館があるんだい」

 彼女は笑った。アルテーンで図書館といえば、もちろん街の象徴(シンボル)でもある市立図書館のことだ。

「書庫の整理を任されていたらしいね」

「そうか、ヴァンさんがこの街に戻ってきたのはまだ若い頃だったはずだから、それだけの体力はあったんですね」

 書庫の整理というのは力のいる仕事だ。それにしても、アルテーンには多くの地下組織があるが、市立図書館に根を伸ばしているものをクーは聞いたことがない。どうもこれは外れらしかった。

「じゃあ、ここに越してきてすぐの頃、ヴァンさんが誰か見慣れない人と会っていたということは」

「いやいや、クー君」

 黙っていた男が、急に口を挟んだ。

「越してきてすぐなら、ヴァン氏だってこのご婦人にとっては見慣れない人だろう。そんなことを尋ねてもわかるわけがないじゃないかね」

「……そうですね」


「ああ、でも」


 恥じ入ったクーに助け船を出そうと思ったのか、いや実際は気にも留めなかっただけだろうが、大家がなにか思い出したように言う。

「何日か、夜遅くまで帰ってこなかったことはあったかね。いやヴァンさんって真面目でね、おまけにお酒も飲めないってんでいつも暗くなる前には帰ってきてたんだけど。ストルフィクティブ時代の仕事仲間がアルテーンに来てるんだって言ってたから、それだね、あれは。そうそうヴァンさんここへ来る前はストルフィクティブで働いてたんだけど、それは知ってるかい?」

「聞きました。それで、それはいつ頃のことですか」

「いやだから、ここへ来る前だからええと……」

「いえ、そうでなく、毎晩その仕事仲間の方と会っていたというのは」

「そっちかい。あれは……だいたい、二十年ぐらい前だったかねえ」


 クーはきょとんとした。


「え、でも、それはヴァンさんがここに来たくらいの頃じゃ」

「いや? あの人に部屋を貸したのは、それより七、八年は前だよ」

「あ、そうですか……」

 そういえば、バーリから聞いた話でてっきりヴァンがあの飴入れを贈ったのはアルテーンに戻ってきてすぐだと思い込んでいたが、どうやらそれは誤解らしい。考えてみれば、仕事を失って故郷へ還ってきたばかりの人間に、偽物とはいえキルカシアンガラスを買うことができるとは思えない。実のところ大して期待もせずにこの話を聞いていたクーだったが、こうなると急に信憑性を帯びてくる。

「どんな人ですか、その人?」

「会ったことはないんだけどね、まあ仕事仲間っていうぐらいだから、やっぱりあの人と同じように時計を作る人なんだろうけど」

「時計を? ヴァンさんって、時計職人だったんですか?」

「なんだ、知らなかったのかい」

 クーは考え込んだ。時計職人がガラスを?

「その人の名前はわかりますか」

「ヴァンさんは確か、レンツって呼んでいたっけ。待っとくれよ、あたしはケーキを焼くのと、記憶力には自信があるんだ」

 まさかレンツハルトではないだろうが。彼女がこめかみを指で叩く。


「ローレンツ……そう、ローレンツ・オルサック」


 隣の男がぴくりと身じろぎしたのを、クーは見逃さなかった。

「どこに住んでいるか、とかは」

「知らないねえ。そもそもアルテーンにはいないんじゃないかい」

「ですよね……」

 それは仕方のないことだ。もともとわかると期待してはいなかった。


「ご婦人、私からもひとつお尋ねしてよろしいか」


 クーの質問の種が尽きたのを見て取ったか、男が再び口を開いた。

「いいよ、なんだい」

「これまで聞いた話では、ご婦人はヴァン殿とずいぶん親しいように見受けられたのだが」

「そりゃあ、もう三十年の付き合いだからね。親しくもなるってもんさ」

「それでは」

 彼は身を乗り出した。

「ガラスを贈った相手のことについて、なにかヴァン氏がご婦人に話したことはなかっただろうか」

大家が、大好物を見つけた猫のように笑う。

「結婚祝いだろう? 察するに、『金の乙女』だね」

「金の……?」

 クーと男は顔を見合わせた。

「ほら、言うだろう、『恋の女神の名を取り、想い人よ、君のことを金の乙女と呼ぼう……』」

「……」

「いやねえ、ヴァンさんがずっと独り身だったでしょう、あたしも何度かいい相手を見つけてやろうとしたんだけどね、断るんだよ。で、なんでそんなに頑ななんだって訊いたらこれが、初恋の人が忘れられないってねえ」

 おそらくだが、バーリの母親のことで間違いないだろう。

「そりゃあね、真面目だったあの人らしいよ。でもその相手ってのがもう結婚してるらしいじゃないか。もういい思い出にしちまいなよって言ったら、一緒に貧しい中を乗り越えた記憶は、どうこうできるもんじゃないって……。いつかあんなガラスを買えるようにって頑張っていたとかね、聞きゃいくらでも出てくるんだよ」

「ガラス……」

「そうさ。まああたしみたいなのもそうだけど、貧乏人にとっちゃ、キルカシアンガラスってのは金持ちの象徴みたいなもんだからね。偽物だけど約束を果たせたんだって、いつか喜んでたことがあったよ」

「ち、ちょっと待った」

 クーは慌てて話を止めた。今のは聞き逃せない。


「ヴァンさんは知ってたんですか、このガラスが偽物だって?」


「さあ、それのことかはわからないけどね。そんなことを言ってたのは確かだよ」

 空になったカップを、クーはじっと見つめた。もしそうだとすると、どういうことになるだろう?


    ***


 レンツハルトの耳は、店の入り口のベルが鳴ったのを捉えた。クーはいない。仕方なく作業を中断し、店に出る。

「ああ、これはこれは」

「お宅のお使いの少年からお手紙をいただきましてね。それで、こちらに伺いました」

「お待ちしておりました、イディオト様。少々ご覧いただきたいものがございまして」

 訪れたのは、今まさに修理している時計の依頼主、レンツハルトが待っていたフランク・イディオトその人だった。一度奥へ戻り、分解された時計の入った器を持ってくる。

 それにしても。


「なにも、ご本人でいらっしゃることはないでしょうに」


 イディオトの店は大きい。貿易商の中でもかなり裕福な部類に属するはずだ。当然、使用人の数も多い。商売とは関係ないこんな修理屋の呼び出しくらい、その中の誰かを送ればよさそうなものだ。そういえば、この時計を持ち込んだときも、彼自身で来ていた。

「いやいや、大切な宝物のひとつですから、やはり自分で赴きませんと」

 その割にはしばらく修理に出していないようだったが。そもそも時計は一般の芸術品やら骨董品やらのように、まとめて飾っておくものではないのだ。内心の不平を隠して、レンツハルトは器をカウンターに置いた。ひとつひとつ異なる穴に分けて入っている部品を、いくつか取り出してイディオトに見せる。


「お判りでしょうか。どの部品にも、小さな傷が数多くついています。裏蓋にも、ほら、このように」

 「なるほど」と呟きながら、彼は受け取った蓋をしげしげと眺めた。

「こうなってしまうと、もう使い続けることはできません。全て交換しなければならないのですが」

「部品がない、とか? オーケルマン社は既にありませんし」

「いえ、それは問題ないのですが……なにしろ一からの削り出しになりますので、予定の期日までには到底、仕上げられそうもないのです」

 だいたい、最初の三週間という期日そのものが、そもそも無理があったのだ。

「そうすると、どれくらい?」

「もう、三週間……余裕をみて、一月」

 ふんふんと頷いて、彼は答えた。

「わかりました、そういうことでしたら仕方ありません。用件はそれだけでしょうか」

「いえ、それと、もうひとつ」


 レンツハルトは、持っていた紙を相手に渡した。修理の明細だ。イディオトが目を通すのを待って、レンツハルトは説明する。

「ご覧の通り、当初の代金よりもかなり割高になっております。部品交換の必要から、どうしてもそうなってしまうのですが」

 最終的な金額は50クローナを超える。これは安い時計なら新しいものが買えるくらいの値段だ。彼ほどの商人ならばそうはいかないかもしれないが、それでもまったく新しいものが得られることを考えれば、古いものをわざわざ修理に出すかどうかは判断の分かれるところだ。


 そのことを説明すると、意外なことに、イディオトは首を縦に振った。

「ええ、それで構いません」

「……そうですか」

 レンツハルトの言葉から頭の中を読み取ったか、彼は片眉を上げ、それから含み笑いをした。


「どうも私は、巷じゃ価値もわからずなんでも買い漁っては飾っておくようなことをする人間だと思われている節がありましてな」


 なんの話かわからず、レンツハルトは黙っていた。彼は続ける。

「まあ、それは間違っちゃいない。しかし、私がなんの考えもなくものを集めていると思われるのは心外です。私はなにも、ただ値の張るものが欲しいわけではないのですから」

「ははあ……」

「どんなものにも物語がある。貴方もわかるでしょう。私はね、その物語に対して金を払っているつもりなのです。例えば私の買ったものが偽物だったとして、それならそれで構わないのですよ。その品物には品物なりの物語がやはりあるわけですからな」

 わかるでしょう、と言われても、レンツハルトにはわからないが。

「それには代わりじゃいけません。たとえ古くなろうとも、やはり自分がこれと決めたものでないとね。そんな人間がいるからこそ、こういう店があるのでしょうが」

「……」

「おわかりいただけませんかな?」

「……いや、なるほど」


 レンツハルトは溜息をついた。


「しかし、それならばせめて、『宝物』の手入れぐらいはするべきですね」

「手入れというと?」

「少なくとも五年に一度の修理(オーバーホール)。これが基本ですよ。貴方も、どうせなら時計に長く動いていてもらいたいでしょう」

 にっこりと、イディオトは笑う。

「ありがとうございます。これからは、そうすることにいたしましょう。ときに――」

「なんでしょう?」

「以前こちらに伺ったときには、あそこにガラスの飴入れがあったと思うのですが。あれ、どうしました」

「……ああ、あれは」

 まさか、偽物の疑惑が浮上して、事の真相を調べている途中だ、などとは言えない。

「あの品物を気になっているというお客様がいまして、来歴を調べているところでございます」

 大嘘である。が、特に疑うこともせず、残念そうに彼は答えた。

「そうですか。いえね、私もこう長くいろいろなものを集めていると、いいものを見分ける目といいますか、そういったものが育ってきていましてね。私の見立てたところによると、あれは本物のキルカシアンガラスでしょう。あわよくば手に入らないかと思っていたのですが……」

「……それはそうと」

 レンツハルトは、話を変えることにした。

「つかぬことをお伺いしますが、お客様の店で、時計職人を雇ったことはございませんか?」

「私の店で?」

「はい。あるいは、時計に造詣の深い者を」


 イディオトの店は輸入菓子の販売会社だ。普通ならこんな問いは馬鹿らしい以外の何物でもないはずだが……。


「ああ、ありますよ。数年前に、以前セルベル社で働いていたという老人をひとり。集めた骨董品の倉庫の管理を任せていたのですが、すぐに辞めてしまいましたが」

「本当ですか!?」

 レンツハルトは目を見張った。自分でもまさかと思っていた可能性だけに、驚きは大きい。

「その老人、名前は」

「確か……」

 イディオトが顎に手を当てる。


「確か、ローレンツ・オルサック」


    ***


「ストルフィクティブの時計職人……」

 古物店に戻る道すがら、クーはずっと考え続けていた。


 クーの想像では、ヴァンに接触したのはキルカスのガラス職人組合の関係者か、少なくとも闇取引の仲介人のはずだった。しかし時計職人、しかも街の外の人間とはどういうことだろうか。ヴァンと同じように、そのオルサックという人物も仕事を失っていたのだろうか? 例えばそうだとして、それでどうしてアルテーンへ――


「んっ?」

急に立ち止まったせいで、隣を歩いていた男が訝しげに振り返った。

「どうかしたかね、少年?」

「ちょっと黙っててください」

 男が憮然とするのも構わず、クーは早足で再び歩き始めた。今、なにか引っかかったような。アルテーンにやって来た時計職人。作りの未熟なキルカシアンガラス。時計。ガラス。……二十年前。


 市立図書館。


「『ノーアトゥーン』!」

「ノーアトゥーン? あれかね、1000年記念式典の?」


 今から約二十年前のことだ。都市国家アルテーン成立1000年を祝し、ある芸術作品が作られた。美しいガラスで干潟と波を表現し、上に建つ透明の神殿には街の永遠を祈って巨大な時計を備えたその作品は、海の神の宮(ノーアトゥーン)と名付けられた。古くからアルテーンに根付いていたキュリソス文明時代の神話ではなく、イグドラシル神話に因んだ名前を用いたことで、フィクトホーンに完全な恭順の意を示したと当時はずいぶん話題になったらしい。今は市立図書館の奥でステンドグラス顔負けの光を落としているこの作品の、時計の機構は当時王都随一の時計工房と人気の絶頂にあったセルベル社が、ガラスの土台はもちろんキルカスのガラス工房が手掛けたものだ。


「時計職人とガラス職人の接点だ……。きっと、オルサックはノーアトゥーンを作るためにアルテーンに呼ばれた職人のひとりだったんだ」

「なるほど、当然その一行は飾る予定の図書館には行ったろうから、そこでそのオルサックとやらがヴァンに会うこともあったかもしれんがね。しかし、だからといってオルサックに偽物のガラスは用意できんだろう」

「ガラス職人が、技を発揮する機会を求めていたとしたら? あの飴入れに使われている技法は組合から禁止されたものだったはずだ。技法を発見した弟子が――そう、多分弟子だ――その功績を認められないことを不満に思って、活躍の機会を探していた。そんなとき、仕事先で出会ったオルサックという相手が、昔の仲間が偽物でもいいからガラスを欲しがっていると言った……。そういうことだったんじゃないんですか?」

 クーは男の方を振り返った。

「……なぜ、私に訊くんだね」


「だって、貴方でしょう、その『技法を発見した弟子』は」


 どちらからともなく、二人は立ち止まる。

「……どうしてそう思った?」

「ヴァンさんの大家さんの家でケーキをご馳走になったとき、手袋を外したじゃないですか。すぐにわかりました。ああ、この人は、炉の前に立ったことがあるんだなって」


 男が、右手の親指を使って、左手の手袋を外した。ガラス工房で見た親方と同じ、よく焼けた素肌が現れる。


「レンツさんは、うちの店の店主ですが、ガラスは専門外とはいっても、それなりに勉強していたはずなんです。自信のない品物に手を出す人じゃないですからね。用心深いんです。でも、最初から鑑定の条件を全て満たすように作られていたなら、レンツさんがわからなかったのも無理はない。事実あのガラスは、組合に認可されてないことを除けば、同じ炉で作られた他のキルカシアンガラスと変わりないんですから」

「逆に言えば、偽物と指摘することも……」

「作った本人が言うなら、これほど確かなことはない」

 にやっと笑った彼に、クーも笑う。

「貴方がぼくと一緒に来たのは、ぼくがどこまで気づくかを見届けたかったからなんですね。なにせ、貴方のしたことは」

「組合の規約違反。立派な犯罪だ。確かめたくもなる」

 彼は目を閉じた。

「認められたかった。自分の技術を証明したかった……」


 歩き出した彼をクーが追いかける形で、二人は再び進み始めた。

「君はキルカスからの船に乗っていた。あの工房にも行ったんじゃないか」

「はい、行きました」

「親方はなんと言っていた、そのガラスについて?」

「……あー」

 ためらいながら、クーは答える。


「まだ未熟だ、この色のガラスなら、もっと薄くできるはずだ、と。でも、腕は今いる弟子たちよりいいぐらいだ、と」


「はは」

 力のない笑いが男の口から漏れた。

「親方の言うことに従って、地道に努力していればよかったと、今なら思うよ。焦って偽物なんか作るから罸があたるんだ」

「罸?」

 彼が残る右手の手袋を取る。クーは息を飲んだ。彼の右手は、人差し指から小指まで、四本の指が途中でなくなってしまっていた。

「火傷だよ。こうなったらもう職人はできない。親方の口利きで、今は組合の鑑定員をやっている」

「それで、ですか? 鑑定員の自分が偽物を生み出した過去が許せなかったから、わざわざうちの店まで来て指摘した……」

「それじゃ私はあまりにも不誠実じゃないか」


 イマヌエル・ヴァンが死んだからな。彼はぽつりと言った。


「その飴入れが君の店にあることは少し調べてわかっていたからな。ヴァンが死んだから、オルサックと相談して、もう明かしてしまうことにした」

「オルサックと、って、オルサックはアルテーンに?」

思わずクーが尋ねると、男は片眉を上げた。

「ああ。何年か前に再会した。今はこの街に住んでいるみたいだ」

「でも、オルサックの故郷はここじゃないでしょう?」

「違うと思うがな。そんなことは知らない。……なあ、君は、私が君に同行したのは、見届けたかったからだと言ったが」


 三度目の彼の笑いは、穏やかなものだった。


「それだけじゃないさ。君はあのとき、これからヴァンの家に行くところだと言ったじゃないか。知りたかったんだ、私が作ったそのガラスが、オルサックの旧友に、そしてその想い人にどう受け取られたのか。

 オルサックがあのガラスを偽物としてヴァンに渡したのは、正直に言って予想外だった。私はあれを本物として世に出すつもりでいたからな」

 保証書までつけていたくらいだ、彼の言葉に嘘はないだろう。

「しかし、今考えてみれば、それでよかったのかもしれない。私が作ったのは偽物だ。本物として売られ、招待が露見したからには、砕かれるのが正しいんだろう。でも、彼らはその偽物に意味を持たせてくれた」

「嬉しかったですか?」

「そうだな、やはり、自分が作ったものが喜ばれるのは嬉しいよ」


 いつの間にか、二人は古物店のすぐ近くまで来ていた。

「さあ、君はこっちだな」

「キルカス島に戻るんですか?」

「ああ、依頼の帰りだったからな。ずいぶん寄り道してしまった」

 手袋をはめながら、クーに別れの挨拶をすると、彼は踵を返した。人通りの少ない路地を歩き去っていく。

 男を見送って、クーは角を曲がった。ラーガル古物店のある通りだ。馬車とすれ違って店の前まで行くと、ちょうどレンツが店の中に入ろうとするところだった。

「レンツさん!」

「おう、クー、おかえり」

「ただいま戻りました」


    ***


「……なるほどな」

 作業場の椅子に腰掛けて、クーからの報告を聞き終えたレンツハルトは、それでもまだ彼がなにか言いたげなのを見て取った。具体的にいうと、眉根が寄っている。

「どうした」

「ひとつだけ、わからないことが残ってるんです。納得できないというか」


「オルサックは、なぜヴァンの相談に乗ってやったのか」


 クーが、驚いたように顔を上げた。そして頷く。

「作った方はわかるんです。はっきりとした動機がある。でも、オルサックには、まあ彼がしたのは実質あの二者を引き合わせることだけだったかもしれませんが、それでもそんな犯罪者まがいのことをする理由があるとは思えないんです。オルサックのやったことは、それこそ闇取引を仲介するブローカーと同じだ」

「本人がその事実に気づかなかっただけかもしれんがな」

「だから、もしかしたら本当は大した疑問じゃないのかもしれないですけど」

「いや、……」


 レンツハルトは立ち上がって、脇へ除けてあった時計の入った器を取った。


「ヴァンがアルテーンに還ってきたのは、お前の話じゃ、三十年近く前のことだったな?」

「はい。死んだときに仮に五十歳だったとして、ストルフィクティブでの仕事を辞めたときはまだ二十代の初め。ヴァンがいくつのときに王都へ出たのかは知りませんが、それでも十年も一緒にいなかった人のために――」

「これ」

 クーの言葉を遮って、器の中から時計の裏蓋を手渡す。

「お前の疑問の答えだ、多分」

 渡されたものに目を落としていた彼は、ばっと顔を上げた。

「どういうことですか?」

「オルサックの動機なら、想像がつかないこともない」


 そう言って、レンツハルトはこれまでのことを話して聞かせた。時計を分解したときに感じた違和感。イディオトとの会話からわかったこと。


「ヴァンがストルフィクティブを去った三十年前は、ちょうどオーケルマン社が倒産した時期と符合する」

「オーケルマン社の職人だったっていうんですか? でも、オルサックはセルベル社で働いていたって」

「引き抜かれたっていうのはどうだ? セルベル社は当時、絶頂期に向かって伸びていく途上にあったはずだ。人を雇う余裕はいくらでもあっただろう」

「それじゃ、自分と違って雇ってもらえなかった仲間に何年かぶりに再会して、同情から引き受けたっていうんですか?」

 レンツハルトは首を振った。

「そうじゃない。……その蓋な、傷のある部分には、どんな内容が彫られていたと思う」

 急に変わった話に戸惑いを見せながらも、クーはもう一度手の中のものを見る。この時計は研究用だ。そのことを考え合わせれば、蓋に刻まれるべきは部品の種類、機構の形式、と。

「……年号?」

「そうだ」

 クーから受け取った裏蓋を、レンツハルトも眺めた。

「左手式ゼンマイが開発されたのは1690年。オーケルマン社が倒産したのはその一年後だから、ここに彫られていた数字は当然、その間のものになるはずだ。だが、もしそうじゃなかったとしたら? もし、それよりも前の年号が彫られていたら?」

「前の年号、って……この時計はオーケルマン社のものだから、そうすると、セルベル社よりも先に」

 クーがはっと息を飲む。思い至ったらしい。


「まさか」


「……これは俺の想像だが」

 椅子の背にもたれて、レンツハルトは言った。

「オルサックがセルベル社に雇われたのは、左手式ゼンマイという新しい技術の漏洩の見返りとしてだったんじゃないかと思う。領主か国王に願い出ない限り、特許はその工房のものとは認められないからな。決定的な技術を対抗社に盗まれたオーケルマン社は、その遅れを取り戻すことができず、倒産した」

「そして、セルベル社の仕事としてついて行ったアルテーンでヴァンと再会した……」

「自分のせいで仕事を失った仲間に再会したんだ、罪悪感を覚えずにはいられないだろうさ」

 同じとき、オルサックは他の職人たちと『ノーアトゥーン』の参考となるものを求めてイディオトの倉庫を訪れ、そこでオーケルマン社が試作した時計を見つけた。

「本人からしてみれば、万が一にでも事実が明るみに出たら一貫の終わりだ。おそらくだが、年老いてセルベル社を辞めた後、オルサックがこの街に来てまでイディオトに雇われたのは、この事実を隠匿するためだ」

「年号を削り取ったってことですか」

 オーケルマン社の方が先に左手式ゼンマイを発明していた証拠さえなければ、セルベル社の功績を疑う者はいない。

「じゃ、オルサックがヴァンの頼みを聞いたのは、罪滅ぼしのために」


 そんな勝手な、とクーは呟く。


「悪いと思うくらいならしなけりゃいいんだ」

「お前、ストルフィクティブの時計工房の下で、その歯車なんかの部品を作る職人たちの給与がどのぐらいか知ってるか」

 彼はふて腐れたように首を振った。

「だいたい、日に200オーレだ。一月だと6000オーレ。60クローナだな。それに対して、工房に入っている正式な時計職人なら、月に200クローナもらう者もいる。例えば他所の工房からこの金額が提示されたとしたら、目が眩むのもわかるだろう」

「それにしたって……」

 なおも不満そうな彼を見て、レンツハルトは苦笑する。

「まあ、あくまで勝手な想像だからな。ただいえるのは、こう考えると全てに説明がつくってことだけだ。それと、修理のときに意味不明な位置の傷に頭を悩ませなくても済むってこととな」


「……なんにせよ、このガラスは偽物ってことですか」


 クーが、机の上の飴入れを見て言った。その複雑な形状や鮮やかな彩色は、偽物とわかった今でも、人々がキルカシアンガラスに求める条件を確かに満たしているように見える。

「残念ですね、綺麗なのに」

「なに、古物屋が偽物を所有できないという法はない。店に出すわけにはいかんが、自分たちで使う分には問題ないさ。イディオトの店ででも、なにか買ってくるといい」

「あれ、イディオトのことは好きじゃないと思ってましたが」

 クーに言われ、顔をしかめる。

「少なくとも、イディオトに見る目がないことは証明されたわけだが」

「なんですか?」

「いや……」

 レンツハルトは頭を振った。

「なんでもない。誰かの振る舞いが気に入らないということと、その男の店のものを買うかどうかということは別問題だろう」

「そりゃそうですけどね」

「嫌ならいいんだぞ」

 クーが首を竦める。

「買ってきますよ。あそこのキャラメルはおいしいんです」

「誰が今行けと言った。それに、俺はキャラメルは嫌いだ」

「じゃ、ヌガーは」

「もっと嫌いだ」

「えーっ、じゃあ……」


 ……作業台の上に置かれた、赤いガラスの飴入れ。キルカスのガラス職人によって偽物として命を与えられ、幾人かの手を経て『物語』を作ってきたそれは、今は新しい持ち主の元で使われるときを待ちわびている。

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